忍び寄る闇
まだまだ書籍版発売中です。詳しくは活動報告をご覧ください。よろしくお願いします。
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1980903/blogkey/3068396/
「世界的な恐慌? その話はここで言って良いものか?」
武彦のこの発言は、内密な話というのもさることながら、芳麿や信輔がいない場で話して意味があるのか、という意味も含んでいる。
「夫には話していますが、まだ準備が整ってないので動けません。景気とは精神病みたいなもので、良いと思っていると本当によくなるし、悪いと思っていると本当に悪くなってしまいます。下手に動いて他所に感づかれ、想定外のタイミングで株価が暴落なんてされたらたまらないです」
日本で有名な例は昭和金融恐慌だろうか。実際にはもう少し粘れそうな東京渡辺銀行について「経営が破綻した」と大蔵大臣が国会で答弁してしまったため、話題になった東京渡辺銀行だけでなく、関東の銀行全体で取り付け騒ぎが起きてしまい、経済が麻痺してしまった。この後史実ではだめ押しで鈴木商店が倒産し、本格的な大恐慌に陥ってしまうのだが、さすがにこの世界線の鈴木商店なら直ちに潰れることはない。
「なるほど、そういうことか……それで、状況が似ているとは?」
「アメリカの生産力が完全に身の丈を超えています。このままでは大量の不良在庫を抱え、業績が急降下し、株価も下落して街に無職と墜死体が溢れるでしょう」
「……そういえば、あの国は戦争中の日露双方に大量の物資を売りつけながら、自国民にも豊かな暮らしをさせていたな。すさまじい工業力のなせる技だと思っていたが」
一次大戦とロシア戦争を通して、アメリカは戦争当事者たちに物資を売りつけることで多額の富を得ている。勿論、このときのアメリカは飢餓輸出をしていたわけではなく、きちんと自国民を食わせたうえで、ロシアとそれ以外の国に物を売りつけていた。
「あの国では多くの国民が戦争特需での成功体験を忘れられず、投資と株取引が長期的なブームになっています。ぜいたくな暮らしをするように仕向けて内需を無理やり引き上げ、それでもなお物が余っているような状態なのに、大部分のアメリカ国民はそれを知らないか、楽観視して気にしていません」
「今まではロシアがそのあふれた分を買い取っていたが、戦争に負けて賠償金の支払いに追われている今、その購買力は大きく低下している……たしかにまずそうだな」
武彦がそういうと、耀子は金庫から資料を取り出すと、その内容を説明する。
「これは別に憶測ではなく、鈴木商店に依頼して実際にデータとして裏付けも取りました。私の読み通り、アメリカの生産力は過剰な傾向が年々強まっています。ロシア戦争中は一時的に需要が上回りましたが、戦争終結後は戦前よりもさらに供給過剰な傾向がひどくなってますね」
「なるほど。金子さんも相変わらずいい仕事をする」
「いえ、金子さんはまだこのことを知りません。あの人がこの情報を掴んだら、無茶な投機を始めてまずいことになるのは目に見えてるので、くれぐれもご内密に」
「おいおい、君をここまで盛り立ててくれた恩人の一人だろうに」
帝国人繊を創業前から支えてくれた人物の一人であるのに、あまりの信用の無さに武彦は苦笑する。
「あの人は自分の直感で派手な動きをする癖があるので、繊細な対応が求められる仕事は向いてないんですよ。なので今回の件も、今は日本製粉に社長として出向している窪田駒吉さんにお願いして、鈴木商店OBの貿易商である山地孝二さんに調査してもらっています」
「まあ……そういうのは程々にな。……アメリカ経済の破綻を回避する方法はあるのか?」
日本人である自分達になんとかできるかは怪しいが、念のため武彦はそう聞いてみた。
「投資をすっぱりやめて、生産力を暫く据え置き、その間に内需拡大が追い付けば、軟着陸できますね。ですが、この状態では……」
「軟着陸する前に、国民が景気の先行きに不信感を懐き、売り注文が殺到するんだな」
武彦の言葉に、耀子は無言で頷いた。
「ふむ……そうなると、いかに日本に波及させないかが重要になるな。アメリカ経済への依存度を下げるのが手っ取り早いが、そう簡単な話ではないぞ」
「はい。お察しの通り私単独でも無理ですから、特に細かいところはそのときの蔵相……正確には、是清におまかせします。大雑把な指針なら与えられますけどね」
「たしかに、日露戦争時の日本の財政を支えた高橋さんなら、世界的な大恐慌といえど何とかしてくれそうだ。でもあの人はかなりの歳だぞ。政界からも引退気味だし、大丈夫か?」
高橋是清は今年で78歳になる。史実では必要に迫られて生涯現役であったが、この世界ではここ数年のんびりと暮らせていた。ロシア戦争時に再登板する話があったものの、そこまで日本が追い詰められる前に戦争が終わったため、現在も表向きは穏やかな議員生活を送っている。
「そんなだるまさんに最後のご奉公をしてもらうためでもあったんですよ、あの鈴木商店にとってもらったデータは」
「本当に容赦ないなあ君は」
「使える人も使える物も、躊躇なく使わなければいけません。ここが勝負どころなんです」
「ふふっ。わかった、自分も経済については門外漢だが、何か必要なことがあれば言ってくれ」
「ありがとうございます。助かります」
そう言って耀子は深く頭を下げた。
少しでも面白いと思っていただけたり、本作を応援したいと思っていただけましたら、評価(★★★★★)とブックマークをよろしくお願いします。




