鳳の切り札
お待たせいたしました。アラミド繊維の登場です。
1908年4月。史実では帝国人造絹糸を設立した秦逸三と久村清太が帝国人造繊維に入社した。設立以来、設備増強に追われ続けた帝国人造繊維が、ようやく獲得できた研究開発用の人材である。
「ようこそ帝国人造繊維へ。特別顧問の鷹司耀子と申します。これからどうぞよろしくお願いします」
二人の前に僅か10歳の少女が進み出てきて頭を下げた。
(これが維新以来の才女……)
二人は思わず息をのむ。耀子が父親譲りの柔和な顔立ちと大粒の瞳を持ち、いわゆる「ゆるふわ系愛されガール」系統の美人であったこともそうだが、このころになると彼女のナイロンの発明は世間でも有名になっており、「天才少女現る」「男顔負けの敏腕発明家」などと好き放題書かれていたというのもあった。最近ではガラスのように透明でありながら、はるかに割れにくい樹脂であるポリカーボネートの特許出願が広報され、有機化学界隈ではすっかり有名人になっている。
「お二人には新材料の開発をお任せしたいと思います。今までは私が一人でやっていたのですが、学業との両立が苦しくなってきまして……なので、しばらくお二人は私の直属の部下ということになります。こんな若輩者の私の下につくのは不本意でしょうが……」
「いえ、新入りである我々に、最も大事な新材料の開発をまかせていただけるとは恐悦至極」
「鷹司さんの業績は我々の研究分野で高く評価されてます。科学者の実力に、年齢は関係ないと思います」
謙遜する耀子に対し秦と久村が割り込んだ。
「……そこまで言っていただけますか……。ありがとうございます。それでは、お二人に与える実験室をご案内しましょう」
耀子がそういうと3人は帝人が新設した実験室へと向かった。
「こちらが弊社の実験室です。今も予算のほとんどを生産部門に取られていますので、そんなに立派なものではないですが……」
確かに耀子の言う通り、このときのテイジンの実験室はこじんまりとしたものであった。ただ、実験器具の品質には気を使っていたし、何より、今の日本にはない設備が、耀子の肝いりで設置されていた。
「あの大きい……何だろう、ガラスのシャッターがついている大きな箱みたいな奴は何ですか?」
「あれはドラフトチャンバーというものでして……ちょっと実演に時間がかかるので、先にお二人に作ってほしい物質の話をしましょうか」
耀子は何やら装置のふたを開け、中のバーナーに火をつけると、今度は実験机の引き出しから資料を取り出し、部屋の隅に置かれている椅子をもってきて座るように促した。
「これが今一番実用化を急ぎたい材料です」
「これは……こんなものが作れるんでしょうか」
耀子の示した構造式は、無数の芳香環が、アミド結合を介して鎖のようにつながっているものであった。
「私はPA66の構造をこう考えています……ほら、PA66と比べると、炭素鎖が芳香環に置き換わっただけなのがわかりますよね?」
「うーん、今の常識ではそもそも『無限に分子がつながり続けている』という構造が突拍子もないものに見えますが……」
「でも理屈上確かにこれでもいいんだよな……」
秦と久村は考え込んでしまう。この時期はまだ「高分子」という考え方そのものが存在しておらず、史実でも1920年代にシュタウディンガーが高分子という概念と関連する理論を発表した時は、異端的な説であると思われていた。結局、彼が高分子に関する研究でノーベル化学賞をもらうまでに、30年の歳月を必要としたのである。
「あくまで未来知識ですが、この物質は極めて剛直な分子構造をしているので、繊維の常識を覆すような機械特性を持っていると思います。そうなれば、銃弾の貫通しない服を作ることもできるんじゃないかと思うのです」
「たしかに、先の戦争での犠牲者はとんでもない数でしたからねぇ……でも、銃弾の貫通しない服かあ……」
二人は本当にできるのか、と言いたげな顔をしている。これを見た耀子は内心慌てて
「まああくまで予想ですから、実際にはしょうもないものが出来上がるかもしれません。ですが、ジアミンとジカルボン酸ジクロリドを界面重縮合すれば、とりあえず何かしら出来上がる、ということが分かればまずは良しとしたいです」
とつけくわえた。
「まあおっしゃりたいことはわかりました。一部腑に落ちないところはありますが、仕事ですので精いっぱいやらせていただきます」
「すみません、お手数おかけします……」
再び耀子は頭を下げる。その後、実験方法や今まで耀子が試した溶液の組み合わせなどを打ち合わせていると、ドラフトチャンバーのほうからシュコシュコと音が聞こえてきた。
「お、動き出しましたね。それではドラフトのほうに行きましょう」
耀子はドラフトの前に来ると、ガラスシャッターの隙間に手をかざす。
「どうです?風を感じませんか?」
「確かに、ドラフトチャンバーの中に空気が吸い込まれていくのがわかります」
「なるほど!有毒ガスや揮発性の液体なんかを扱うとき、この中で取り扱えば実験者が吸い込まなくて済むわけだ!これは便利だな」
久村が手を叩いて叫んだ。
「装置上部の蒸気機関でファンを回して、チャンバー内の換気を行っています。これはまだ日本のどこにも導入されていないはずです」
前世で当たり前のようにお世話になっていたドラフトチャンバーがないことに立腹した耀子が、自分で図面を引いて作らせたものであった。前世のドラフトチャンバーに比べれば著しく見劣りするが、ないよりは格段にましである。有毒なホスゲンを取り扱う必要があるポリカーボネートの合成ができたのも、この装置のおかげであった。
さて、新材料の開発に取り組むことになった二人であるが、出発物質は「メタフェニレンジアミン」と「イソフタル酸ジクロリド」で決まっているため、これらを界面重合できる溶媒の組み合わせをひたすら試していった。そしてその年の冬の事、
「おい清太、なんかできたぞ!」
秦が別の作業をしていた久村を呼ぶ。
「なんかって、なんだよ……」
「ほらこれ、鷹司のお嬢さんが言ってた奴、できたんじゃないか?」
秦は試験管に薄い金色に輝く糸を巻き取っていた。試しにこの糸を延伸し、熱処理を施すと、PA66の実に10倍の強度と5倍の弾性率を持っていることが分かった。
「こいつはすげえぞ、鷹司さんの予想通りだ」
「とりあえず速報を書いて、こいつをちゃんと紡糸する方法を見つけようぜ」
この報告に耀子は歓喜したが、当の秦と久村は頭を抱えていた。この新しく合成した物質──耀子により「コーネックス」という名前が与えられていた──は、どれほど高温まで上げても溶融せず、400℃ぐらいから炭化してしまうのである。それはこの物質がすさまじい耐熱性を有していることを意味し、新たな長所が見つかった瞬間でもあったが、二人はそれどころではなかった。
「どうやっても融けねえじゃんこれ。どうすりゃいいんだ!」
「……なあ逸三、別に、熱で融かさなくてもいいんじゃないのか?」
「……どういうことだ?」
「融けないのなら、溶かせばいいんだよ」
「何言ってんだかさっぱりわからんぞ」
史実でも独力で銅アンモニアレーヨンの製造法を見つけ出したこのコンビである。彼らは様々な溶媒を試し、コーネックスがアミド系溶媒に溶けることを発見。この溶液を細孔から水中に押し出すことで紡糸できることを見出した。当初、この方法では糸の強度が下がってしまう現象が発生したが、研究室を訪れた耀子の
「水に少しだけなんか入れてみたら?塩とか」
という露骨な誘導により克服。1909年にはコーネックスの製造法が確立されるに至った。
「今年の9月にコーネックスを使った防弾ベストの設計試作を完了させたいんですけど……いけますか?」
「9月ですか……まあとりあえず何とかして見せましょう」
耀子の質問に、陸軍被服廠の担当者が答える。既存の繊維よりも強いことがわかっているナイロン、そのナイロンのさらに10倍強い新材料を使えるというのだから、被服廠側は張り切っていた。
(あとはこの試作品を韓国に視察に行く伊藤さんに着てもらえばいいだけ……でも本当にぎりぎりだ。間に合うのかな)
しかしこの耀子の心配は杞憂に終わる。伊藤博文は1909年10月26日に韓国には視察に行かず、暗殺事件も発生しなかったからである。
というわけでメタ系アラミド繊維コーネックスの合成ができるようになりました。皆さんが望んでいたケブラーは界面重縮合で合成している事例が見つからなかったため、こちらを採用しました。強度と弾性率ではケブラーのほうが4倍以上有利ですが、耐熱性と破断伸びではコーネックスのほうが優秀ですし、どちらも66ナイロンよりははるかに強いので、画期的な新材料になれるのは変わらないと思います。ただ、歴史改変の影響でそもそも伊藤博文が史実通り韓国に行かず、暗殺事件も起きませんでした。果たしてどういうことなのか、次話をお待ちください。




