過熱する航空業界は、新たなるステージへ
そろそろ書籍版発売から一ヶ月。電子版が食い下がってくれていますが実はまだどれだけ売れたのかわかっていません。良い数字が出ていると嬉しいのですが……
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海軍が軍縮条約の交渉準備で慌ただしくしている頃、日本航空技術廠廠長の中島知久平少将は、山階耀子と二人きりで会食をしていた。
「今日はお忙しいところご足労くださり、ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ、いつも弊社製品を……って、この挨拶では、うちが接待で軍の発注をもらってるみたいで嫌ですね」
「ははは、あいかわらず耀子さんはその辺り真面目ですなあ。だがそこが良い」
中島は乾杯もせずに──彼は、耀子がビジネス絡みの会食で飲酒しないことをよく知っている──御猪口を煽る。
「だからこそ、これから話すことは、まず耀子さんに聞いてほしかったんだ」
「買いかぶりすぎですよ。私は真面目にやらないと成果が出せないだけです」
耀子はそう言って空になった御猪口に酒を注いだ。二人の間には、庶民には中々手が出なさそうな海の幸が並んでいる。
「実はな……総理大臣になろうと思っていてね」
「おおう……それはまた……」
中島が少々飛躍した大きな話から入るのはいつものことなので、まずは政治家になるために海軍を辞めたい、と言うところだろうか。
「私は、日本の国力を引き上げるために、航空産業の振興が欠かせないと考えてきた。我が国が一流の工業国になるためには、飛行機を国内民間企業が生産できるようにしなければならない」
史実の中島が軍を退役したのも、国営企業ではなく、民間企業で飛行機が生産できる国になることが必要だと考えたからである。
「そうですね。私もその思いでこれまで航空機事業を続けてきました。自動車事業と違って利益は不安定でしたが、最近は輸送機・旅客機の河原鳩が一定の売れ行きを見せているので、ようやく理想に近づけたのかなと思っています……嗚呼なるほど、それで、政治家に転身されるおつもりなんですね」
しかし、この世界では陸海軍ともに航空機の重要性を理解し、全力で中島の慰留に走った。また、半分国の資本が入っているとはいえ、その経営実態は民間財閥に近い帝国人造繊維が、飛行機の国産化に成功していたこともあり、中島は軍に留まっていた。その彼はなぜ、今になって軍を辞めて政治家になると言い始めたのだろうか。耀子はなにかを察した口ぶりで、中島に理由を話すよう促す。
「そう。日本国内の航空産業は軌道に乗り始めたと言って良い。帝国人繊さんもそうだが、空技廠設計の機体を生産してくれている川崎や愛知も、収支が安定してきていると聞いた。そして今の私の立場では、これ以上できることはあまりない。航空産業をさらに振興するとなれば、政治家になる必要があると思ったのさ」
そう言うと中島は酒をまた一杯煽った。
「確かにそうですね……そして、そうしていただけると大変ありがたいのも事実です。うちからも政治家を出したかったのですが、中々難しいところがありまして」
御酌をしながら耀子が話す。
「おや、耀子さんはそういうことは好まないと思ってたんだけど」
「自分達の代表を国政に送り出すのは、立憲国家なら認められてしかるべき権利ですよ」
せっせと料理をつつきながら耀子は答えた。
「……うちから直接政治家を出そうとすると、よその財閥を刺激しすぎるのです。ただでさえ鈴木系は敵が多いんですから、国政まで手を出そうとしたら何をされるか……夫や兄も、貴族院議員だからうまくやれてますけど、衆議院議員だったら何かしらの嫌がらせを受けていたかもしれません」
「あー……この前は危ないところだったみたいで……」
鈴木と三井の不仲は巷でも有名である。1931年の大凶作の時は、三井の人間に買収された大阪の新聞記者が「鈴木商店が米を買い占めて値上げを謀っている」という虚偽の記事を書き、あわや焼き討ち一歩手前の事態に陥っていた。
「金子さんがうちにならって鈴木商店本体にも警備課を創設していたから、辛うじて大きな被害は出ませんでしたが、あの新聞社ホントろくでもねぇなって思いましたね」
結局、事件をうやむやにすることを望んだ鈴木商店側の希望で、反撃はしないこととなった。それを不服とする耀子は鈴木商店から半ば強引に米の売買記録を取り寄せ、大阪中外商業新報から虚報である旨を告発したものの、中外商業新報は関西では弱小新聞社であったため、ほとんど効果なく終わっている。
「よしんばその問題を解決できても、大衆に訴求力のある人物は会社から出せないという感じかな?」
耀子はもちろんのこと、秦逸三、久村清太、鈴木岩蔵、鈴木道雄、奈良原三次、蒔田鉄司と言った面々は、帝国人繊の抱える凄腕技術者として耀子から製品発表会などでプロモーションされているため、大衆にも知名度がある。特に道雄は生まれ故郷の遠州で熱狂的な人気を誇っており、ここから出馬すれば当選は間違いないだろう。
「おっしゃる通りですねー」
しかし、彼らは帝国人繊にとって大切な技術者である。すでに最前線からは退いているが、「スタッフ」達を取りまとめる「ライン」としてようやく育ってきた帝国人繊生え抜きの人材なのだ。そんな彼らを政治の世界に放り出すことは、今の帝国人繊にはできない。そのことを思い出しながら、耀子はため息をつくように答えた。
「なるほど。あなたも苦労してるんだねえ」
「でしょー? 別に私天才でも何でもないですからね、ほんと」
酒も入っていないのに、耀子は中島に絡み始める。
「どう? そろそろ耀子さんも一杯」
「まだまだ。大事な話がまだ残ってるでしょ? 中島さん」
その様子を見た中島は耀子に酒を勧めるが、耀子はそれを断って、より突っ込んだ話をするように促した。
「まじめだなあ……それじゃあ単刀直入に言うと、選挙活動を支援してほしいんだけど、できる?」
「……立憲政友会から出るなら」
「なるほど高橋さんか。義理堅いねえ」
「高橋さん以外にも原さんとかにお世話になりましたし、地方への利益誘導を目指そうとする体質も、私からすれば好ましいものだと思います」
利害で動いてくれる連中は操縦しやすいからね。と、耀子は心中で付け加える。そんな彼女の内心を見て取ったのか、中島も苦笑した。
「まあ実際のところ、航空産業の振興を訴える関係上、実業家の支持が強い政友会の方が、都合がいいだろうし、わざわざ民政党から出る意味は特にないからね。私も政友会から出るべきだとは思っていたよ」
「ぜひそうしてください。これからお世話になります」
そう言うと耀子は、ようやく自分の御猪口に酒を注ぐ。その後の小さな乾杯の音を聞いた者は、ごく少数だったろう。
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