玉石混交
「坂野さん、修理しとる7番の編み機、とりあえず故障原因は直したんだけんど、ねじが嵌まんにゃあだもんで組み立てられんだけんど」
「何だ道雄、ちょっと見せて見ろ……さてはインチだなおめぇー!」
帝国人造繊維製ストッキングの販売数は日露戦争後も好調に推移していた。これに伴い、全力稼働を続ける各種生産設備は、当然のことながら故障が相次いでいた。これの修理を通じて帝国人造繊維社内に機械工学のノウハウを蓄積させるという思わぬメリットもあったが、現場の人間たちはただただ疎ましく思うだけであり、耀子を含む経営陣も頭を悩ませていた。何より問題なのが「規格の不統一により修理・改造が困難」なことである。
帝国人造繊維では大量のバックオーダーを捌くべく、日本全国各地の工場に片っ端から編み機などの生産設備類を発注していた。さすがに編み機そのものの設計は統一させたが、その品質は個体によって部品の寸法精度がまちまちだったり、同じ大きさのインチねじとミリねじを混用したりするなど、現代の製造業従事者から見れば悪夢のような状況であった。
「もうね、あほかと馬鹿かと……」
「こんな詐欺みてえなことがまかり通ってるのが、今の日本の工業界ってぇわけだな」
報告を受けた耀子は頭を抱え、金子直吉は静かに怒っていた。現代人であった耀子にとって、図面通りに物が出来上がってくるのは当たり前の事である。
「業界全体で、共通の約束事みてえなもんがありゃあ、ちったぁちげえのかもしれねえがなあ」
「共通の約束……それですよ金子さん!日本産業規格の制定を政府に直訴しましょう!」
こうして今や一大財閥と化していた鈴木商店の力を利用し、三菱や三井、住友など他の財閥にも働きかけて、政府に工業規格の制定を直訴。これを好都合と見た陸海軍も便乗したため、1906年、史実より50年以上早く日本産業標準調査会が設立され、日本の工業規格制定に乗り出すこととなった。もっとも、そこから規格が制定され、さらに全国の工場がそれに対応するまでには多くの年月がかかり、冒頭で編み機の修理をしていた鈴木道雄は後年
「JISが制定されてから、色々楽になったんじゃねえかって?んー、ほんとーにじわじわじわじわ変わってったから、当時はよくわかねえっけや。ある日『そういや最近部品が組みつかねえって困ったことねえな』ってなって、そこでようやく日本の工業製品がちゃんとしたものになったことに気づいたって感じだ」
と述懐している。
鈴木道雄が鈴木式織機製作所を立ち上げるのは1909年ですが、この世界の日本では編み機の需要が高まったため、史実より早く大工から転向してもらいました。
当然ですが、彼を手元に持ってきたのは、あれの製造に乗り出すためです。だいぶ先のことになりますが。