書籍版発売直前記念閑話:高周波焼き入れ
いよいよ明後日には書籍版発売です!お店によってはもう店頭に並んでいるのでしょうか。私の近所の本屋にはまだ置いてありませんでした。
遅くなりましたが、書籍版の特設ページが公開されています!詳しくは活動報告をご覧ください!
https://mypage.syosetu.com/mypageblog/view/userid/1980903/blogkey/3068396/
今回も発売直前を記念して閑話を書きました。楽しんでいただければ幸いです。
「それでは今日の講義はここまで」
本多光太郎が講義の終了を告げると、生徒たちはばらばらと解散していく。彼らには次の講義があるのかもしれないし、今日の講義はこれで最後だったのかもしれない。なんにせよ、そんな中を、一人の令嬢が付き人を連れて本多のもとへと向かってきていた。
「今日もありがとうございました」
「ああ、鷹司君か。何か質問かい?」
日本で四人目の女子大学生である鷹司耀子と、その使用人兼護衛の千坂文子である。耀子が本多にした素人質問が「酸素吹転炉」という発想につながり、最終的に「上底吹転炉」の試作まで行きついたのだ。この転炉は高品質な鋼を短時間で精錬することができ、純酸素の入手性さえ改善されれば日本の鉄鋼生産量を押し上げ、製鋼に使用される燃料消費量を削減するものとして大きな期待が寄せられている。
「はい。実はですね、鋼の表面にだけ焼き入れ焼き戻しをしたいのですが、何かやり方はありますか?」
「それなら浸炭焼き入れがいいだろう。しかし、それを知らない君ではあるまい?」
浸炭焼き入れとは、高温に加熱した鉄鋼製品の表面に炭素分をしみこませて、表面だけを硬くする焼き入れ方法だ。古来から一般的な方法で、装甲板の表面硬化処理などにも使用される。
「そうなんです。もっと生産性が高い方法が知りたくて……」
「うーん、少なくとも、実用化されている方法で、あれ以上の物はない気がするな。表面を硬くしたいだけなら火炎焼き入れという手もあるが、浸炭焼き入れより品質も安定しないし、燃料もたくさん必要だし……」
日本が誇る鉄鋼の権威、本多光太郎をもってしても、一筋縄ではいかないようだ。その様子を見た耀子は、自分の知っている方法がまだ実用化されていないと考え、本多にアイデアを伝えることにする。
「それで自分でも考えてみたんですけど、渦電流を使う方法はどうでしょうか」
「渦電流か……」
渦電流とは、電磁誘導によって導電体内で渦を巻くように発生する電流の事だ。発生原理としては電磁誘導によるものなので、コイルに磁石を出し入れして発生する電流と同質のものである。
「コイルの内側にワークを入れて、とてつもない周波数の大電流を流せば、ワークの表面に凄まじい渦電流が発生して、自身の抵抗によって発熱するのではないでしょうか。その熱によって表面だけに焼き入れ焼き戻しを行うことができれば、発動機のクランクシャフトやコンロッドに適用して最高回転数を引き上げることができると思うのです」
これこそが身近な例ではIHクッキングヒーターに代表される誘導加熱で、この熱によって炭素鋼を熱処理してやろうというのが高周波焼き入れというものだ。
現代ではクランクシャフトの性能向上を狙って高周波焼き入れを実施する例がある。耀子が高周波焼き入れを実用化したいのも、クランクシャフトの強度の限界から、エンジンの最高回転数を引き上げられない問題に対処するためだ。また、この先戦車や歩兵戦闘車を大量生産する場合、装甲板にいちいち浸炭焼き入れをしていたら、とんでもない金額になってしまうのを避けるためでもある。
「うーん、アメリカやフランスでそういった実験がやられているというのは、そういえば聞いたことがあるが……『すさまじい周波数の大電流』とはどの程度のものなのかによって現実的かが変わるなあ……」
本多が言う通り、この当時はまだ高周波焼き入れが実用化されていない。それどころか、そんなことが可能かどうかすらわかっていない状態である。
「電動機、あるいは発動機で極数の多い交流発電機を高速回転させれば、周波数の高い大電流が得られそうですね」
「確かにそうではあるんだよなあ……鷹司君、もしかして、御社の発動機を貸してくれたりしない?」
「お安い御用ですよ。ちなみに、発電システムはどなたが用意するんですか?」
「電気科の人に作ってもら……そういえば八木君は今海外留学中だったか。他の人を探さないとな……」
この「八木君」は八木・宇田アンテナを開発することになる八木秀次の事だ。彼は本多と仲が良く、彼が今イギリスに留学できているのも、本多とその師である長岡半太郎の推薦があったからである。
「まあいる人で何とかしましょう。また来週日程を詰めさせてください」
「わかった。しかし、転炉の改良の後は焼き入れ方法の改良か。鷹司君、金属屋になる気はないかい?」
「もう少し無機化学が得意だったら考えでもないですけど、やっぱり私は有機化学が好きなので」
耀子はそういうと少し寂しそうに微笑んだ。
その後、実験機材をそろえた本多は、新たな研究テーマとして電気科と共同で鉄鋼の誘導加熱の研究を始める。
「高周波の周波数と出力、そして誘導加熱する鋼材によって、加熱のしやすさや焼きの入る深さが変わるんだな」
「低炭素鋼に実施することが多い浸炭焼き入れと違って、高周波で加熱するにはある程度の炭素分が必要なようです」
研究室では、本多と学生が、これまでの実験結果をまとめていた。
「それなら、これからは鋼材を1種類に絞った方がいいだろうな。最近制定されたJISだと、一般的な構造用鉄鋼材料にはS45Cを推奨しているようだ。下手に変な混ぜ物がある合金を使っておかしなデータが取れてもまずいし、S45Cに誘導加熱で焼き入れを行うことを最初の目標にしよう」
ミリねじとインチねじを混用する生産設備などに苦しめられた耀子は、よその財閥や軍を動かして史実に先駆けてJIS規格を順次制定させている。S45Cとは、炭素含有量が0.45%前後である鉄鋼材料の事で、JISに規定がある材料だ。
「S45Cのデータだと、この辺においしそうな領域があるみたいだから……ここら辺からここら辺まで、しらみつぶしに周波数と出力を変化させてどのような変化があるかを見ていこう」
こうした本多らの不断の努力があり、日本は世界に先駆けて誘導加熱による鋼材の焼き入れに成功する。この技術によって帝国人繊製エンジンの信頼性は向上し、それが後にシュナイダートロフィーを見据えて開発する大出力航空エンジン「C222系」を成功させる重要な技術となった。また、史実では浸炭焼き入れを行っていた装甲戦闘車両の装甲板を高周波焼き入れに変えたことで、生産性が向上し、コストを削減することにも成功している。
前書きでも言いましたが、明後日にはいよいよ書籍版発売です!本作を応援していただける方、何かしら面白いと思っていただけた方は、ぜひ評価(★★★★★)をつけていただけると非常に助かります!よろしくお願いします!