書籍版発売直前記念閑話:Kiken Yochi Training
書籍版発売までいよいよ6日間です!書影も先日公開され、後は店頭に並ぶのを待つばかりになっています!詳しくは活動報告をご覧ください!
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今回は発売直前を記念して閑話を書きました。楽しんでいただければ幸いです。
帝国人繊米沢工場が、立ち上がってしばらくの間悩まされたものは3つある。
1つは生産能力の不足。国と鈴木商店の資本が入っているとはいえ、日本の一部資本家の財力だけでは、世界中のナイロンストッキング需要を賄うだけの生産設備をそろえることは不可能だった。
2つ目が設備の故障。設備数の不足は必然的に稼働時間で補うことになったが、それはつまり生産設備を酷使することを意味する。必然的に設備の故障が相次ぎ、若かりし頃の鈴木道雄らがその対応に奔走していたことは、この世界線では有名な話であった。
そして3つ目が従業員の故障、つまり労働災害である。
「うーん、みんなよくケガするなあ。KYTちゃんとやってるの?」
「KYT?」
上がってきた報告書を見て文句を言っている耀子に対し、煕通が質問した。
「危険予知トレーニング……つまり、ある作業に対してどのような危険があるかをあらかじめ確認し、危険が無いように作業する方法を考えることです。KYTと5Sは工場労働の基本なんですが……」
「KYTときて今度は5Sか。耀子、何かを話す時は相手に通じるように言葉を選ぶようにしよう。余計な混乱を引き起こすし、場合によっては失礼だぞ」
まだこの時代には影も形もない概念をまくしたてる耀子に対し、煕通が苦言を呈する。
「嗚呼ごめんなさい。気をつけます」
「よろしい……それで、5Sというのは?」
「整理、整頓、清掃、清潔、しつけのローマ字表記の頭文字をとったもので、要は『仕事場を常に綺麗な状態に保ち続ける』という概念です」
面倒なのだが、やっておかないと後で困るんだよなあと、耀子は懐かしく思った。
「誰かを接待するような仕事場ならともかく、工場は程々でいいんじゃないか?」
「何処までを程々とするかですよね。油汚れは床についていたら転倒災害の原因になりますし、手についていたら何かを取り落として更なる労働災害を呼び込みます。埃まみれの環境は呼吸器の病気の原因になりますし、取扱説明書や看板が汚れていたら内容が読み取れなくなってしまうでしょう」
こういうことは想像力と経験と知識が大事である。前世で学んだことを思い返しながら、耀子は汚れ1つとっても有害であると力説した。
「それもそうだな……」
実際、女工哀史などが作られたとおり、この時代の工場の環境は概して劣悪である。みそ汁とたくあんだけの食事でこき使われ、不衛生な工場で病気になる女工が後を絶たなかった。それを知らない煕通でもない。
「清掃と清潔だけでなく、整理と整頓もとっても重要です。資材や道具を乱雑に置いていると、床面積を有効に使えませんし、取り出すのにも苦労します。通路などに物が置かれているのはもっとよくなくて、踏み抜いたり躓いたりして転倒しかねません。それらを習慣づける『しつけ』も含めて、5Sは働くうえで重要な概念なんです」
とはいえ、人間はミスをする生き物であるし、気分や行動にもムラがある。たいそうなお題目を並べるだけで職場環境を完璧に整えることができたらどんなにいいだろうなと耀子は心の中で自虐した。
「まあとにかく、危険予知訓練と、工場のこまめな整理整頓清掃が必要というわけだね。それをやっている時間が無いと言われそうだが……」
「生産目標を落としてKYTと5Sの時間を確保させてください。生産速度も上げてはいけません。労災が起きて仕事が止まっている時間の方がよっぽど無駄ですし、人間が運よく壊れなくても結局設備が壊れてるんですから同じですよ」
耀子はそのまま「『安全はすべてに優先する』って名セリフを知らないのかよ」と言いそうになったが、「安全第一」の概念がアメリカから輸入されるのは大正に入ってからの事である。日露戦争後の現時点ではアメリカの一部企業が実践しているだけだ。
「ふむ。それなら、まずその話を出資者たちに伝えようか。いつも通り家に集めて、耀子に話してもらうが、かまわないな?」
「ぜひそうさせてください。いつもありがとうございます……」
出資者集会で耀子の提言は受け入れられ、工場では月に1時間のKYTと毎日10分×3の5Sが行われることとなった。ただし、KYTは言うほど簡単なことではなく、慣れていないと「けがをしないように気を付ける」という、何の解決にもなっていない結論を導いてしまいがちである。また、5Sも最初はなかなか概念が浸透せず、不徹底な現場が散見されていた。
「これ私工場行かないといけないかなあ!? 行かないといけないよねえ!? 行かせて!」
「……わかったよ。学校休んでいいから、米沢に行っておいで」
このような経緯があり、しばらくの間帝国人繊の工場では耀子による巡視が行われることになった。この見回りで多数の職場改修が行われ、時には耀子自身が実践して見せることもあったという。工場の改修やルールの整備のため、工務課は大変なことになったが、直接工たちの職場環境は改善され、米沢では大人気の職場へと成長していった。
前書きでも言いましたが、書籍版発売まであと6日間です!本作を応援していただける方、何かしら面白いと思っていただけた方は、ぜひ評価(☆)をつけていただけると非常に助かります!よろしくお願いします!