不穏な正月-1
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1932年1月1日。山階侯爵家では親戚一同が集まって、去年が無事に終わったことを祝い、今年も問題なく過ごせることを祈願していた。
「すまないな耀子。今日ぐらいはゆっくりしたかっただろうに」
「そんなことはないですよ。正月は親族が集まってにぎやかにやる日ですから、私はむしろ楽させてもらっているぐらいです」
使用人を雇っている華族と言えども、正月や盆と言った時期には使用人に休みを与え、家族だけで家庭を切り盛りするのが一般的である。だからこそ、華族令嬢の花嫁修業の中に家事にまつわるものが一通り入っているのだ。
「しかし、親戚の集まりを装ってまで、僕たちと内密に話したいことがあるとは、ずいぶん穏やかじゃないですね、兄上」
芳麿が心配そうに武彦の事を見ながら言う。
「ああ、実はな……アメリカからまた、各国に軍縮会議の開催が提案されたんだ」
「前回はロシアの脅威があるからと日英で一蹴しましたけど、今回はできなかったということでしょうか」
この世界でのワシントン海軍軍縮会議は、耀子が言った理由により開催すらされず、アメリカが日英からの反感を買っただけで終わっていた。
「そうだ。なんせ、前回言い訳に使ったロシア海軍は、我々自身が沈めてしまったからな」
「後はもう、アメリカ自身が脅威だと言う他ないわけですか」
「それは完全に喧嘩売ってるのと同じですよね。言えるわけがないです」
先の戦争でロシアを半身不随に追い込んだため、現在の大日本帝国陸海軍は、ともにアメリカを仮想敵とすることで一致している。だが、それはそれとして、よけいな諍いを起こして国益を損なうことがあってはならないのだ。アメリカは中国から日本の近所である満州をかすめ取っているものの、日本自身に対して直接何かをしたことはない。むしろ、満州を発展させ、日本と積極的に貿易させることで利益すらもたらしているのだから、下手に挑発したら大義はアメリカの方にあることになりかねない。
「なので軍縮は不可避。あとはどれだけ日本の利益になるような条約を結ばせるか、というところですか……ダメもとで聞きますけど、空母は軍縮の対象に入りますか?」
「そんな遠足のおやつみたいな……」
耀子の発言に芳麿がツッコミを入れる。
「空母も軍縮の対象になる見込みだ。提案しているアメリカが、空母戦力で日英に大敗しているからな」
「我が国は正規空母7隻を有していて8隻目を建造中でしたね。イギリスは?」
日本が現在保有しているのは、鳳翔型の鳳翔と龍翔、翔鶴型の翔鶴、瑞鶴、黄鶴、白鶴、そしてついこの前、蒼龍型の蒼龍が進水したばかりであった。現在は蒼龍型二番艦を建造している。
「イギリスも大小6隻の空母を持っていて、さらに4隻の正規空母を建造中との情報がある。それにたいして、アメリカの現有空母戦力は実験艦のようなラングレー1隻だけだ」
「成程、我々に枷をはめて、この差を小さくすることが、彼らの狙いですか」
「大国の傲慢そのものと言えるだろうな」
山階兄弟はそろってため息をついた。
「ウワーチョーゴーマーン。やっぱ本物の米帝だー」
一方耀子はそんなアメリカのふるまいを茶化す。
「状況はわかりました。海軍の意向としてはどうするつもりでしょうか」
「端的に言って割れている。他を犠牲にしても航空母艦だけは対米10割以上を主張する航空派、逆に砲戦戦力だけは対米10割以上を主張する大砲派、そもそも条約そのものに反対している艦隊派の3つ巴の争いになっていてな」
「うわあ、史実より面倒くさい……」
史実では艦隊派と条約派の争いであったため、事実上条約派が内輪もめしているということになる。空母と航空機の地位が、軍縮条約までに大きく向上したことが招いた結果であった。
「耀子の知る史実ではどうだったんだ?」
「まず1回目の軍縮条約で戦艦と空母の建造制限がされて、2回目の軍縮条約でほぼすべての艦種の建造制限が課せられることになりました。この時、我が国は排水量で対米7割以上を志向しましたが、この情報が英米に漏れて補助艦は最低限度の7割、主力艦に至っては6割で条約を結ばされています」
耀子は自分が知っている大まかな経緯を説明する。
「7割と言っていた理由も気になるが、情報が漏れた原因は?」
「暗号です。外務省や海軍の通信を傍受され、暗号が解読されていました」
「それはどこかにスパイがいたということか?」
耀子が妙に陸軍情報部と懇意にしている理由に、他国のスパイを摘発する意図があるのではと武彦は考えた。
「それもあったかもしれませんが、単純に統計処理をはじめとする力技で破られていたはずです。ワンタイムパッド……使い捨ての暗号表を用いた暗号化であれば、それこそ盗まれでもしない限り破れないのですが、使い捨てる乱数表を作るのが大変みたいなんですよね」
「あ、陸軍が暗号機を信用せず、使い捨ての暗号書を重視しているのは、そういう背景があったんだね」
「正確にはお父様のおかげですけどね」
耀子はゾルゲ事件や山本五十六暗殺などの出来事を念頭に、早くから煕通に暗号技術と諜報技術への投資を訴えている。それを聞いた彼は機会があるたびに陸軍情報部を持ち上げ、優秀な人材と多くの予算を回すようにそれとなく誘導していた。耀子が派手な動きをしても問題なく暮らしていけているのは、陸軍情報部が史実よりはるかに精強になったからという面もある。死してなお、父は娘を守っている……と言えなくもないのかもしれない。
「しかし、暗号を正面突破されたのか。それはそれで辛いな……ダメもとで聞いてみるが、具体的にどのあたりがだめだったのかは知っているか?」
「暗号機の構造的な話はさっぱりですが、運用面ではそのうち公になってしまう文書……演説原稿とかを送信したり、既に破られている旧型の暗号と併用したりしたことがまずかったらしいですよ」
いわゆる対照平文を相手に与えてしまっていたということである。暗号に限らず、完成形がわかっているものは、開発難易度が大幅に低下するのだ。
「それは確かに間抜けな話だが、ありえないとも言い切れないのが何とも……って話が逸れたな。軍縮条約をどうするかを考えないと」
「そうですねえ……」
耀子は少しの間考え込んだ後、自分の考えを述べることにした。