大きな未来
ジアコーサに一通り話し終わり、彼と別れた後も、耀子達は自社のブースでファンサービス──といっても二人ともイタリア語が分からないため、通訳を介しながらではあったのだが──をしていた。
(ジアコーサにも500の解説してもらいたかったけど、あの人だかりだし、私は今このブースから離れられないからなあ……)
いくらかの時間が過ぎたころ、蒔田が試乗会から戻ってくる。
「すみません、おまたせしました」
「いえいえ、なかなか楽しかったですよ」
「私もモンテカルロの話をされたので、若いころの思い出に浸ることができました」
耀子は推しと車を語れてつやつやしていたし、文子の方も客とラリー・モンテカルロの思い出話に花が咲いていたようだ。
「こっちは会場でタトラとダイムラーベンツの設計担当者に会えましたよ。なかなか興味深い意見が聞けました」
「もしかして、ポルシェとレドヴィンカですか!?」
蒔田の言葉に耀子が食いつく。
「えーと……そうですね。噂通り優秀な方々でした。あと、タトラのデザイナーのヒトラーという人も居ましたね」
「うおおう……」
ヒトラーの名前を聞いた耀子は悶絶した。陸軍情報部からの筋で、彼がタトラでデザイナーとして雇用されているとは知っていたが、今ここに来ていると実際に言われるとやはり現実感が増すというものである。
「まあ、いい気分転換になりましたよ。ありがとうございました」
「いえいえ、私達も楽しめましたし、このくらいお安い御用ですよ」
「じゃあ、入れ替わりで私達も試乗会に行ってきますね。あの3人、まだいるかなあ……」
ジアコーサに続いて今度はヒトラーとポルシェとレドヴィンカときている。今日は運がいいなあと思う耀子であった。
「うわーすごい……」
会場に集まっている人間を見て、耀子は思わず嘆息する。
「先ほど話題になっていた方々ですか?」
「うん。ポルシェとヒトラーと……あの人がレドヴィンカかな? が3人で会話してる……写真撮って末代まで語り継ぎたい……」
ポルシェとヒトラー、ポルシェとレドヴィンカは史実でも仲が良かったとされるが、史実のT97に対する扱いを見るに、3人が一堂に会することはなかっただろう。しかも、ヒトラーはファシズムに走らず、自動車デザイナーとしてまっとうに生きている。耀子にとってこれほど感動的な光景はそうそうない。
「文子さん、新聞社のカメラマン探してきて。私は記念撮影のアポ取ってくる」
「耀子さん、ドイツ語は……ああ、そういえばできましたね」
「英語より自信はないけど……今でも論文読むのに使ってるからね」
文子には会場に来ているはずの日本の新聞記者を探しに行かせ、耀子は記念撮影のためのアポイントを取りに行った。今生の時代では化学論文がドイツ語で書かれることが多かったため、否応なしにドイツ語を勉強する羽目になったのが、ここで活きることになった。
「ご歓談中すみません。私帝国人造繊維の山階耀子と申します。独墺の自動車業界を代表する皆様が一堂に会しているのを見て思わず感動してしまいました。よろしければ記念撮影をさせていただいてもよろしいですか?」
「おお、貴女があの帝国人繊の女社長ですか。まだ幼いころからいくつもの自動車や航空機をデザインした才女であったとか。私もたくさん勉強させてもらいましたとも」
まず反応したのはヒトラーである。産業スパイ柄、帝国人繊の製品とかかわることが多かったのだろう。
「ヒトラーさん程の方にそこまで言っていただけるとは、とてもうれしいです」
「記念撮影の件ですが、受けても構いませんよね? レドヴィンカさん」
「いいとも。むしろ私達にも焼き増ししてほしいくらいだ。なあ、フェルディナンド」
「そうだな。山階さんは社長業の傍ら、今でも技術者として一線で働いていると聞いている。ダイムラーの社長連中は金勘定しか能がないろくでなしだらけだから、いっそ山階さんに買収してもらいたいくらいだ」
「ははは……」
ポルシェからきついジョークを聞かされつつ、耀子は3人からOKをもらうことができた。
「して、カメラマンはどこに?」
「今秘書に新聞記者を探してもらっているので、少々お待ちいただければ」
「なるほど。彼らに撮らせるわけですか。ではこの間にウィズキッドについていろいろお聞かせいただきましょう。FIATもそうですが、我々の想定よりはるかに小さい車格で大衆車として成立させた背景を知りたいのです」
「わかる範囲でよろしければ」
耀子が3人に質問攻めにされていると、文子が中外商業新報のカメラマンを連れてくる。
「すみません、時間かかってしまって」
「いえいえ、私としては夢のような時間を過ごせましたから……すみません、皆さんカメラマンを捕まえてきましたので、彼の方を向いてください」
その日、4人で撮った写真もまた、耀子にとって一生の宝物になったという。
「というわけでやってきました車両評価試乗会」
「他社の車はどんな乗り味なのでしょうか、楽しみです」
3人と別れた耀子と文子は、最初に試乗する車を吟味していた。
「……やっぱりここは業界の人間が多いだけのことはあるね。私は好きじゃないけど、あの車が順番待ちになってるのは当然だと思う」
「展示会場と違って、訪れる人たちの国籍も大体均一ですから、そういった点でもこちらでの評価の方が真の人気と言える……かもしれませんね」
こちらの会場での一番人気は、明らかに3CVである。理由は耀子の言う通り、今回出展されている車の中では、3CVが最もオリジナリティにあふれた車両だからだ。
「車の事をちゃんと知らない人は『ブリキ缶』だの『回る異常』だの言ってるけど、車は見た目だけじゃないからね。いや、ウィズキッドはデザインも売りの一つだけどさ」
「そもそもまともに走らない車も売られていたりしますからね……」
なんせ前輪駆動な上にサスペンションも一般的な方式とは異なる独自のもので、他国の車が大なり小なり「走りの良さ」に配慮している中、この車は動力性能をほぼ切り捨てているのだ。そんな車がフランスで覇権をとっているのだから、技術者としては気にならない方がおかしいだろう。
「じゃあ、まずはType1から乗りましょうか」
「空いていますし、それが良さそうですね」
逆に全く人気がないのがダイムラーベンツのType1で、設計が手堅く、乗らなくても想像がついてしまうのが原因だと考えられる。
「……そういえば、よその車にはシートベルトがないんでしたね」
しばらく座席をまさぐっていた文子がそうつぶやいた。
「自動車事故が起こり始めるのはこれからだよ。死者が続出するまで、あれの価値を理解する人は少ないんじゃないかな」
ジムニー以来の帝国人繊設計の車には全て、二点式以上のシートベルトが全座席に搭載されている。これはもちろん、将来の交通戦争時代に備えて耀子が開発と搭載を指示したものだ。
「……まあ確かに?」
「そのあたりは我々の明確なアドバンテージだから、今後も維持していきたいところだね。それじゃ、運転よろしくお願いします」
「了解いたしました。こちらこそよろしくお願いします」
いつもの癖で耀子が車体の右側──欧州大陸の車は左ハンドルが普通である──に回ってしまったため、まずは文子の運転で、試乗コースを回ることになった。
もう少しお付き合いください