救われる名誉があれば喪われる名誉がある
新章、第一次世界大戦編です。
日露戦争は、まさに陸軍の戦争であったと言えた。
野戦では常に敵軍を撃滅し、難攻不落を謳われた旅順要塞も日本側の作戦勝ちにより陥落。まさに向かうところ敵なしというありさまで、「"闘将"奥大将」「"聖将"乃木大将」「"歩兵の神様"大谷少将」「"作戦の神様"伊地知少将」といったスターが数多く生まれ、国民の羨望を独占していた。
一方、海軍は完全に割を食った形になってしまう。
旅順艦隊には逃げられ、ウラジオストック艦隊には陸軍を乗せた輸送船を沈められ、決死の覚悟で挑もうとしたバルチック艦隊は日本にたどり着かないまま終戦を迎えてしまった。このため、史実では"東洋のネルソン"などと称された連合艦隊司令長官東郷平八郎海軍大将も、この世界ではさほど有名ではなかったし、濃霧でウラジオストック艦隊を見失ったと報告した上村彦之丞中将に至っては
「濃霧、濃霧、逆さに読めば無能なり」
と(悲しいことに史実通り)国会議員に馬鹿にされる有様であった。
どこの大国でも陸軍と海軍が勢力争いをして国益を大なり小なり損なうということがあったが、この時期の日本においては皮肉にも、「陸軍が完全に海軍に優越する」という形で勢力争いに決着がついてしまうことになった。
これにより陸軍には史実より潤沢な予算が付き、後述する数々の名兵器が生まれる元となったのであるが、一方で海軍の予算は削減され、そのドクトリンも「艦隊決戦を行って勝利する」という王道的なものから「陸軍を無事に戦地まで送り届ける」というよく言えば海上護衛重視の、悪く言えば交戦意欲に乏しいものに変化してしまった。
「おかげで海軍は史実よりシーレーン……交易路を重視してくれると思うのですが、喜んでいいと思いますか?お父様」
「少なくとも海軍さんに、いい気持ちの人は誰一人いないだろう」
煕通の書斎。耀子は連日煕通と今回の日露戦争のもたらした影響をまとめていた。
「彼らとしても、本当は華々しく敵と打ち合ってこれを撃滅したいはずだ。表向きは陸軍を盛り立てて、自分は黒子に徹するようなことを言うかもしれないが、裏ではいつか大戦果を挙げて陸軍を見返してやりたいと思ってるのは間違いない」
「『好きこそものの上手なれ』の逆を行ってるわけですよね……そうなると、決戦戦力にもなれず、護衛能力も中途半端な、きっと何者にもなれない海軍が出来上がってしまうのではないでしょうか」
例えば、駆逐艦は大量にいるものの、その兵装は魚雷と平射砲ばかりで、対潜・対空能力がお粗末な艦隊を作られてしまうといった具合である。
「ありうるね。そして陸軍は陸軍で増長し、海軍を信頼しないから、向こうの領分を脅かそうとするだろう……目に余るものは陸軍士官学校旧二期生で何とかするけど、正直そんなものにかまっている時間が惜しいからなあ……」
悩ましげに瞑目する煕通・耀子親子。賢い末娘は魂こそ別時空の未来からやってきていたが、その一挙手一投足はこの世界で敬愛する父とそっくりで、よく言えばほほえましく、悪く言えば親父くさかった。
「とりあえず、帝国人造繊維に海軍向けの製品も追加して、海軍にも影響力を行使できるようになるところから始めてみます」
「それが良いだろう。海軍さんだと……例えばハンモックとかどうかな」
「それ、PA66じゃダメなんです……あれは塩水に弱くて……」
「おや、そんな欠点があったのか」
PA66の弱点の1つに「吸水率が大きいこと」があげられる。意外に思われるかもしれないが、プラスチックは大なり小なり水を吸い込むのだ。そして、水分を含めば含むほど、ガラス転移温度(Tg。融点のようなもの)が減少し、弾性率と強度が減少するのである。前世において、耀子はこれに大いに苦しんだ経験があった。
水分に食塩や融雪剤のような塩分が含まれるようになるとさらに状況は悪化し、この塩分が水とともに樹脂の中に浸透し、劣化を引き起こすのである。塩水に日常的に暴露される環境にある艦船で、塩水に弱いPA66を使用するのは困難であった。
「だから、PA66とは別の、塩水に強い樹脂材料を開発してからになります」
「……なんだか時間がかかりそうだね……」
「それでも、やらなければいけませんから」
強い決意を秘めた瞳で、耀子は煕通を見つめる。
「学業もおろそかにしないようにな。確か、史実では丁度耀子が高等女学校を卒業するころに、仙台に新しくできるという帝国大学が女子の入学を認めるんだろう?そこに合格できないようでは、テイジンの社員から信頼されないぞ」
東北帝国大学は1907年に設立の勅令が出され、1911年に開校している。創立当初より「研究第一」を掲げ、実力は十分であったが、経済的に立ち遅れていた東北地方ではわざわざ大学に行こうと考えるものが少なく、入学定員を満たすことができないでいた。そこで苦肉の策として女性の受験を認め、1913年には3人の入試合格者を出している。
良妻賢母教育を行うにすぎない高等女学校の理科教育は、教科書を見た耀子曰く「お話にならない」レベルであり、この時代に本格的に研究の道に進むためには、東北帝国大学への進学が必須だったのである。
「何とかします。お父様は、幼い私に代わって日露戦争を勝利に導いてくださいました。今度は私が頑張る番です」
鳳の雛は、力強くそう答えた。
というわけで、陸軍と海軍では見事に明暗が分かれました。しばらくの間日本では「島国のはずなのに陸軍国のような陸海軍関係」が築かれます。
耀子は東北大学卒業を目標に学業に励む傍ら、いくつもの新材料の開発に取り組むようです。いくら実験はテイジン社員に任せているといっても、その忙しさは社畜のそれでしょう。
1/16 どうも耀子の懸念がうまく伝わっていないようなので加筆