もっと個性的に
1931年、帝国人繊の開発したウィズキッドが全世界に向けて発売された。欧州ではダイムラーベンツのタイプ1、タトラのT47、フィアットの500、シトロエンの2CVが発売されており、熾烈なシェア争いが繰り広げられている。イギリス勢はオースチン セブンの改良型で対抗しようとしたがうまくいかず、急遽新進気鋭のエンジニア「アレック・イシゴニス」をトップに据えて大衆車を新規設計しようとしているらしい。
「すごくいやらしい話していい?」
「何でしょうか」
「貧乏って嫌ねえ」
執務室で書類に目を通しながら、耀子は秘書の文子に愚痴をこぼした。
「1200円なんてなかなかポンと出せる金額じゃないですよ。私の年収くらいありますもん」
「私はそれよりもらってはいるけど、1200円が大金なのは変わらないよ。そのための自動車ローンなんだから」
耀子が鈴木商店に入れ知恵をしたことをきっかけとして、今の日本では新車を購入する時自動車ローンを活用することが当たり前になっていた。利息が付く分トータルでは高価になってしまうが、月収や貯蓄が少なくても自動車という便利な道具を購入できるのである。万が一支払えなくなっても、買った自動車を清算すればよい。そして安くなった中古車が別の人にわたるのだ。誰一人大損はしない良質な制度である。
「私が困ってるのは、思ったより輸出が伸びてないってことなのよね」
「えーと……つまり、欧米人は思ったより車を買う金がなくて貧乏だってことですか?」
「正解。だから、全世界で売っても、思ったよりパイが大きくなくて、取り分が微妙だったってわけ」
資料を机に置くと、耀子はため息をついた。
「でも、年収の分布データを見る限り、ウィズキッドを買える人は全世界にもっといるわけでしょう?まだ発売されてあまりたっていませんし、販促が足りていないのではないでしょうか」
「それもあるわね……どこの国も『おらが国の車が一番だ』となってて、よその国の車を買ってくれないという話もあるし……」
耀子は少しの間腕を組んで考え込むと、ひとつの思い付きを口にする。
「モーターショーをやりましょう。本当は東京でやりたいんですけど、欧州で。そこでカーオブザイヤーも決めちゃいましょうか」
「モーターショー?カーオブザイヤー?」
見知らぬ概念を話された文子は話についていけなくなった。
「モーターショーは日本語に直すと自動車博覧会。つまり、自動車メーカー各社が、注目してほしい自動車を展示して大衆に見せびらかす催し物よ」
「となると、カーオブザイヤーは、そこでその年を象徴する車を選ぶということでしょうか」
「察しがよくて助かるわ。そういうことよ」
「もう10年以上護衛やってますからね」
文子がため息をつきながら言う。令和の発想で物を言う耀子についていくのは、それなりの苦労があるらしい。
「というわけで、法務部渉外課に連絡して、企業と人を集めてください。場所は……うん、そこも任せるよ」
「今年中にやらないといけないですよねこれ。もうちょっと早く言ってもらえません?」
「天才じゃなくてごめんねぇ。もう昔ほど先が読めなくってさ」
自虐を込めつつ、耀子は秘書に詫びた。
幸い、欧米の自動車メーカー各社も似たような事を考えていたらしく、帝国人繊の構想に賛同する。自分たちの地元で開催しようとドイツ、フランス、イタリアの三国の間で綱引きが行われたが、最終的に「全ての道はローマに通ず」というゲン担ぎも兼ねてイタリアのローマに決定した。
「ねえ、これ私出なきゃダメ?」
「さすがに駄目でしょう。もう耀子さんを害そうとする余裕のある国はありませんし、言い出しっぺは我々なんですから。よその会社はみんなオーナー自らが宣伝に来るみたいですよ?」
外国に行きたがらない耀子に対し、文子が第1回ローマモーターショーへ出席するように説得している。
「でもチベットには行くんですよね?」
「あそこ我が国の勢力圏だし、割と日本語通じるからね。寒いパラオみたいなもんだよ」
この世界でもパラオは一次大戦後に日本の委任統治領になっていた。史実同様に統治担当者に恵まれたパラオは日本人と現地人が良好な関係を築いており、耀子のおかげで史実より豊かになった日本では観光名所として知られるようになっている。
「あと芳麿さんが鳥を見に行きたいって言ってたし……」
「……そういえばそうでしたね、分かりました」
何を分かったのか耀子にはわからなかったが、その場では文子は引き下がった。
「耀子さん、ローマに行くんだって?」
その日の夕食時、芳麿が耀子にそう聞いてきた。
「私はあまり行きたくないんだけど、文子さん達が行ってくれって言ってて……」
あまり気が進まなさそうに耀子が答える。
「そう……耀子さんがイタリアに行くなら、僕もイタリアの野鳥を研究しようと思ったんだけどなー……」
わざとらしくちらちらと耀子の方を見ながら芳麿が言った。
「わかったって、そういうことかい……」
文子が引き下がったのは、芳麿を焚きつければ耀子がイタリアに行くと思ったからである。そのことに気づいた耀子は、深い深いため息をついた。
「はあ……あの子もやるようになったじゃない……わかった、イタリア行きましょう、芳麿さん。鳥を見て、車を見せびらかしに行こうじゃありませんか」
「私もイタリア行きたい!」
「響子は飛行機に乗りたいだけだろ。僕と一緒にお留守番だ」
しぶしぶ耀子がイタリア行きを承諾すると、長女の響子もイタリアに行きたがったが、仕事なのがわかっている耀之がこれを制止した。
「お兄ちゃんの意地悪―」
「意地悪なのは僕じゃなくてお母さんだよ」
「じゃあお母さんの意地悪―」
「私も遊びに行くわけじゃないんだから我慢して。今度チベット行くんだし」
この時代であれば叱られそうな口の利き方だったが、子供にはのびのび育ってほしい耀子は特に何も言わなかった。黒を白と言ってまで、年上にこびへつらう必要はないと思っているからである。耀之の方も察しがよく、この手の文句を言うときはかなり婉曲的な表現を使うようになったため、いよいよもって歳のわりに大人びた少年へと成長していっていた。
「ぶー」
響子もそんな聞き分けのいい兄を見て育っているからか、膨れるだけでそれ以上ごねない。自分が親に凄まじい苦労を掛けたと思っている耀子は、自分の子供が手のかからないタイプで本当に良かったと思った。
「それじゃあイタリア行きの準備をしなければいけないね。あ、信輔義兄さんにも声かけてみる?」
「大丈夫じゃない?人数多い方がいろいろはかどるし。鳥学会の人全員は無茶だけど、数人なら大丈夫でしょう」
そうして、帝国人繊のローマ行きに便乗する形で、日本鳥学会有志のイタリアにおけるフィールドワークの開催も決定することになる。秘書課の人々は頭を抱えたが、鳥学会にはやんごとなきお方が複数在籍しており、地味に権力を持っていたため、無下にすることもできなかった。その原因となった耀子は、秘書課の人々に恨めしい目で見つめられても、涼しい顔をしていたという。
書籍化ですが、ちゃんと動いています。そろそろ何か情報をお出しできるかもしれません。
皆様にワクワクをお届けできればなあと思っております。