汝鳩を欲さば麦を投げよ
1905年4月23日、ついに日露講和成る。
陸軍の大敗北により、ロシアは史実よりも国内の騒乱が激しく、バルチック艦隊の敗北を見ないまま講和へと踏み切らざるを得なかった。その条件は以下のとおりである。
1.日本は大韓帝国の保護権を得る
2.ロシアは日本に遼東半島の権益を譲渡する
3.ロシアは日本に樺太全島を割譲する
4.ロシアは日本に日本円にして3億円相当の賠償を行う
5.ロシアは"アメリカに"満州の権益を譲渡する
特徴的なのは、なんといっても仲介者のはずのアメリカに満州の権益が渡っていることである。日本側全権小村寿太郎は
「あの土地は日本の勢力圏とロシアに挟まれており、どちらか一方の物になればまた争いが起こるだろう。このため、第三国によって管理すべきと考えるが、ちょうどいいところに、今回の講和を仲介してくれたアメリカがいる。我が国は今回の講和を仲介してくれたアメリカへの"迷惑料"として、ロシアは満州に持つ権益をアメリカに譲渡することを勧告する」
とのたまわったが、どう見ても日米間で裏取引があったとしか思えない要求であった。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトは、常日頃から
「日本はアメリカのためにロシアと戦っている」
と公言しており、今回のように満州を餌にされて日本の側に立つことも十分考えられた。そして、それはロシアにとって最も悪い状況であった。この講和会議をお流れにしてしまえば、得られなかった満州の権益確保を理由にアメリカまで日本側に立って参戦する恐れがあったからだ。こうなってしまえば、ロシア側全権セルゲイ・ウィッテの交渉力をもってしてもどうしようもない。
(プレーヴェの愚か者め!だから日本との戦争は国益を損なうといったのだ!)
プレーヴェは日露戦争開戦時のロシア内務大臣である。彼は当時大蔵大臣であったウィッテと日露開戦の是非をめぐって政争を繰り広げ、ウィッテを失脚させることに成功した。そしてその結果、プレーヴェは戦争の負担に耐えかねた民衆に爆殺され、ロシアは屈辱的な講和条約を結ぶに至ったのである。
「ただいま」
「おかえりなさいっ!」
久しぶりに帰宅した煕通に耀子は抱き着いた。
「こらこら、はしたないマネはよしなさい」
「だって……お父様には本当に苦労を掛けたから……」
耀子は本当に煕通に頭が上がらなかった。高価な薬品と実験器具を買い与え、突拍子もないことを言っても受け入れ、自分の穴だらけのアイデアをもとに自らのコネを総動員し、こうしてこの世界の日本を明らかな勝利へと導いてくれたのである。
「離してやれ耀子。お父様が困ってるぞ」
「お父様をねぎらいたいのは俺たちも同じだ。抜け駆けは良くない」
長男の信輔と次男の信煕である。彼らも、父の帰りを待って夜遅くまで起きていたのだった。
「しかたないな。信輔、信煕、お前たちも来なさい」
「いや、俺らは別に……」
「じゃあ耀子を一緒に抱きしめてやってくれ。震えているんだ」
「……わかりました」
息子二人も、いつの間にかすすり泣き始めていた耀子を抱きしめる。
天才少女として気丈にふるまい、破滅の運命を避けようと大人たち相手に大立ち回りを演じた小さな鳳も、今日この夜だけは、親鳥に温められる雛でしかなかった。
というわけで第一章日露戦争編完結でございます。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。衝動的に書き始めたこの小説にここまでの評価が付くとは思っておらず、日々驚愕しております。
次から新章ですが、特に間が空くことはないと思います。日露戦争を史実よりはるかに有利に終結させた日本ですが、まだまだ懸念事項は山ほどあります。耀子は、帝国人繊は、煕通と愉快な仲間たちは、一体どのように乗り越えていくのでしょうか。ぜひその活躍を見届けていただければ幸いでございます。




