伍長閣下の闘争
書きたいエピソードの布石がようやっと書けました。話が前後して申し訳ありませんが、どうかお付き合いください。
一次大戦が終結した後、我らが伍長閣下には2つの顔があった。
1つは戦争が終わってから再開した画家としての顔。
もう1つはデッサン能力を買われて始めた、ドイツのスパイとしての顔である。1918年のこの日も、彼はシュナイダートロフィーレースに出場する各国の機体を記憶しつつラフスケッチし、後で清書してドイツ軍に送る任務に就いていた。
「アメリカの機体は飛べばいいという意図が透けて見えて不愉快だな。イギリスの機体もあれに比べればマシだが、それでも粗野で優雅さに欠ける」
ぶつぶつと文句を言いながらヒトラーはラフ画を描いていく。美術大学を目指していただけのことはあり、そのタッチは正確である。……正確なだけで、温かみがなく、描写の対象を選り好みするところが、美大に落ちた理由なのであるが。
「それに比べてイタリア人はいい仕事をすると認めざるを得ない。あれくらい美しい機体ならば、我が国の優秀なエンジンを載せてやるのも悪くないな」
イタリア勢は自国製エンジンにこだわることをあきらめ、ドイツのマイバッハにエンジンを供給してもらっている。ツェッペリン飛行船で鍛え上げられたマイバッハの航空エンジンは、十分な競走能力を有しているように思われた。
「……しかし、同じドイツのエンジンを載せているといっても、オーストリアの機体を見ていると惨めな気持ちになってくるな。美醜以前に退廃的で時代遅れだ」
オーストリア勢もまた、自国のシュタイアなどではなく、ダイムラーベンツからエンジンの供給を受けていた。しかし、技術的には完全に他国の後塵を拝しており、フランス機ぐらいにしか勝てそうに見えない。それが出場すらできないドイツの現状と重なっている気がして、ヒトラーは目をそむけたくなったのである。
「……ふんっ」
帰り道、ヒトラーは不機嫌であった。以前のべた通り、この1918年のシュナイダートロフィーレースはイギリスが圧勝しており、それが彼には不愉快だったのである。
「美しいだけでは勝てない。わかっている、機械とはそういうものだ。だが、動けばいいだろうと適当に作られた機械が世の中を席巻するなんて、わしには我慢できん」
とぼとぼと歩いているヒトラーの横を、T型フォードがガタゴトと走り抜けていく。それすらも今の彼にとっては気に入らなかった。
「言ってるそばから奴が走っていきやがったぞ、あのT型フォードが。なんだあの投げやりなデザインは。あんな車ばかりが走る国なんざ行きたくもないわ」
そんな調子で悪態をつきながら下宿に辿り着いたヒトラーは、ひとしきり身支度を整えると少し冷静になる。
「……そんなことになっているのも、美しい物を作れる国が優れた物を作れないからだ。わしも審美眼については自信があるが、メカについては聞きかじりの知識しかない……ウィーンに居た頃、建築デザイナーになってはどうかと言われたことがあったが、あれは門が狭すぎた。何か、何か他にああいった職がないものか……」
あれだけ徴兵逃れをしていたのに、一次大戦で伝令兵を務めてみたら、すっかり愛国者気取りになってしまったヒトラーは、その後もどうしたらドイツをよくできるのか、あれこれ考える日々を送るのであった。
とは思ったものの、あれから3年余り。上司などに繰り返しデザイナーの能力向上を提言したものの、目に見える話が自分に回ってこなかった。なまじヒトラーが優秀であったために、軍の情報部が彼を手放さなかったからである。
「やあヒトラーさん、今日は紹介したい人が居てね」
「はじめまして、ハンス・レドヴィンカといいます」
お得意様のユダヤ人画商から、ぜひ会ってほしい人がいると聞かされ、仕方なくヒトラーが自身のアトリエで待っていると、画商と一緒に一人の男が訪ねてきた。
「アドルフ・ヒトラーです。よろしくお願いします」
ヒトラーは普段の不遜なふるまいを抑えて応対する。
「早速ですが、作品を見せていただけますか。特に、乗り物の絵がいいですね」
「レドヴィンカさんはオーストリアで自動車の設計士をしている方なんだよ」
レドヴィンカが絵を見たがると、画商が彼の出自を説明した。
「わかりました。例えば……これとかどうでしょうか」
これは自分を売り込むチャンスなのではないかと考えたヒトラーは、内心で気合を入れると、自信作の1枚を取り出した。1920年のラリー・モンテカルロで、ゴール近くのモナコ市街地を激走するジムニーの絵である。
「……ヒトラーさん、この絵に描かれている車の見た目について、どう思われますか?」
しばらくまじまじと絵を眺めた後、レドヴィンカはヒトラーにそんな質問をした。
「いい意味でも悪い意味でも、フレームに箱を載せただけのように見える車だと思います。悪い意味では、武骨で、殺風景な、飾り気のないデザインです。しかし、よけいな装飾がなくて目が疲れませんし、小さな占有面積で中の空間を最大限確保できるように気を配っています。従来の雑さと複雑さが同居する「馬車のデザイン」から抜け出せない欧州の自動車と比べると、その武骨で地味な見た目とは裏腹に画期的な車両であると言っていいのではないでしょうか」
ヒトラーはジムニーのデザインを的確に評価する。長年技術スパイとして働いてきた彼の経験がなせる業であった。
「なるほど……すばらしい。先ほどご紹介がありました通り、私は自動車の設計士をしている者でしてね。少し前までシュタイアに勤めていたのですが、最近古巣であるチェコのネッセルドルフ社に戻ったんですよ。経営陣がこのジムニーの快進撃に泡を食って、自動車部門の強化を約束してくれましたから」
レドヴィンカがヒトラーのデザイン講評を高く評価する。どうやら彼はレドヴィンカのお眼鏡にかなったらしい。
「それで、シュタイアで学んだ画期的な足回りを持つ小型車を現在設計しているんですけど、デザイン事務所から上がってくるエクステリアがどれもこれも陳腐で……どうですヒトラーさん、私と一緒に、画期的な小型車を作ってみませんか?」
内心、ヒトラーはしめたと思った。しかしチェコの自動車会社というのが気にかかる。オーストリアの経済は現在でも事実上ドイツ経済みたいなところがあるからそこは良いとして、おかしなコンセプトのプロジェクトになっていないか、確かめることにした。
「画期的な小型車……魅力的な響きですが、どのような小型車が理想だと、レドヴィンカさんはお考えでしょうか」
「程よく小さくて取り回しがよく、華美ではないがみすぼらしくもない見た目を持ち、頑丈で機能的で、何より庶民の手が届く廉価な車が、理想の小型車だと信じています」
レドヴィンカがまっすぐヒトラーの目を見て言い切ると、ヒトラーはこれこそが自分の求めていたものだと直感する。
「嗚呼レドヴィンカさん、実は私、細々と絵を売りながら、どうしたらより国の役に立てるかを常々考えてきていたのです。あなたの志は必ず我が国とオーストリアのためになります。ぜひ、私にも協力させていただきたい」
ヒトラーは仰々しく感激し、レドヴィンカと固い握手を交わした。いつの間にか工業デザイナーとしての力を身に着けていたヒトラーと、史実ではフェルディナント・ポルシェの親友として知られるレドヴィンカのコンビは、その後世界に対して大きな勝負を挑むことになる。
どうやったらヒトラーにまっとうな道を歩ませることができるか、自分なりに考えた結論がこれになります。ここから話がどう膨らんでくるか、しばらく後の話になってしまいますが、楽しみに待っていただければ幸いです。
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