低燃費少女耀子
ごく一部の方々お待たせいたしました。日本製航空4ストエンジンのお話です。
極東戦線で日本軍が快進撃を続けるさなか、山階耀子は空技廠を訪れていた。
「低燃費っ低燃費っ低燃費っぴっぴー」
「何ですかその歌」
わけのわからないはしゃぎ方をしている耀子に対し、豊川順彌がツッコミを入れる。史実の彼は孤軍奮闘して日本初の国産車を作るなどの業績を残したが、この世界線では金鵄や三年式突撃車などに搭載されているA型エンジンの時から、耀子の発動機開発を支えてきたベテラン技術者である。
「今までの航空エンジンは、とにかくパワーと信頼性が最優先で、燃費なんてくそくらえって感じでした」
「まず飛ばすことそのものが大変ですからね」
帝国人繊が2ストロークエンジンを主力としているのがいい例である。
「でもこれからは地球にやさしく、健やかな経済成長を成し遂げていくうえでキーワードになるのが低燃費なんですよ」
「はあ……たしかに、石油消費量の低減は我が国の課題でありますからねえ……」
今の日本は産油国とはいえ、樺太油田の産油量は国内消費量を下回っており、蘭印やチベット、アメリカからの輸入が欠かせない。
「これを踏まえて、空技廠にイギリスのペガサスの国産化を依頼していたわけです。これをどう改良していくか、と言うのが今日の議題なんですよ」
「そういうことだったんですね。もうちょっと早く言っていただけると、心の準備がしやすかったのですが」
そんなことを話していると、部屋に中島知久平と佐久間一郎が入ってきた。中島は日本航空技術廠の技術部門を取り仕切る技術将校で、佐久間一郎はエンジン部門のエースである。
「早く着きすぎてしまって申し訳ないです。本件は前から温めていたことですので」
「成程、今回はなかなか期待できる話が聞けそうですね」
挨拶もそこそこに、耀子は寿の開発方針について、自分の考えている方向にできないか提案を始める。
「寿は190mmもの長いストロークを持つエンジンです。直径こそ大きいですが、低回転から大トルクが出せるため、非常に燃費の良いエンジンにできるのではないかと考えています。開発の方向性も、絶対的な出力ではなく、熱効率に重きを置けないかと」
「出力重視であるなら、御社が得意とする2ストの方が有利ですからな。棲み分けとして妥当なところでしょう。して、御社の事ですから、具体的な方策もご教授いただけるということですかな?」
言葉だけ見ると完全に帝国人繊の技術力をあてにした台詞だが、実態としては話好きな耀子に好き放題しゃべらせて気持ちよく帰ってもらおうという心遣いである。
「そうですね。まず試してみたいのは吸気バルブの極端な早閉じや遅閉じです」
「……?おそらく吹き戻しや充填不足が発生すると思うのですが、それをどうするんですか?」
佐久間一郎が疑問を呈する。
「理論計算に従えば、膨張比が大きければ大きいほど熱効率は上がります。従来のレシプロエンジンでは膨張比とはすなわち圧縮比でしたから、膨張比を上げようとすると圧縮比も上げることになり、ノッキングを招いていました。吸気バルブの極端な早閉じや遅閉じで、これを解決することができます」
「……ああなるほど、事実上の圧縮比を落としつつ、膨張比を大きくとることができるわけですか」
耀子が言っているのはいわゆるミラーサイクルエンジンのことだ。カタログ上の圧縮比を大きくして熱効率を上げることができ、これを採用する現代エンジンの中には、圧縮比14を達成したものもある。この当時の一般的な航空ガソリンエンジンの圧縮比は7前後であるから、技術の進歩が嫌でも理解できるだろう。
「その通りです。これだけで、計算上は熱効率の数字を1割程度引き上げることができます」
「数字が1割、と言うと、40%が44%になるくらいですかね。あと、本来適切でないバルブタイミングで運転することになるので、始動性が悪くならないか心配です」
「そうですね。なので無限に早閉じもしくは遅閉じさせればいいというものではないと思います。そのあたりは最適値を見つけていただいたり、あるいはVVTを開発したりするのが丸いかなあと……」
「VVT?」
佐久間が聞きなれない言葉に食いついた。
「あ、失礼。可変バルブタイミング装置の事です。回転数に応じて、油圧でカム板を滑らせて、こう……みたいなもので……」
「うちで今B型エンジン用に開発しているんですよ。本来はパワーバンドを広げるために作り始めたんですが、4ストなら『0回転からアイドル迄は最適なバルタイで、そこから回転数が上がったら早閉じもしくは遅閉じ』と言う芸当もできますね」
エンジンは趣味であって専門ではない耀子が要領の得ない説明をすると、豊川がうまいこと補足した。
「なるほど、必要があったら一度詳細を聞かせていただきたく」
「承知いたしました。続きをお話しても?」
佐久間がうなずいたので、耀子は次のアイデアを伝えることにする。
「後は、気筒内の混合気をできる限りぐるぐる回す工夫をすると、燃料が薄くても異常燃焼しにくくなります。折角4バルブのエンジンなのですから、こんな風に、縦回転する気流──うちではタンブルと呼んでいるのですが──が強くなるように設計できるといいのではないでしょうか」
こちらは今日のエンジンで常識となっている筒内流動、特にタンブル流の話である。
「……もしかして、御社の発動機の吸排気ポートが、中心線からずれた位置にあるのは……」
「はい、あれの場合は横回転する気流──こちらはスワールと呼んでいます──が強く発現するようにするための工夫です。あるのとないのとでは結構差がありましたよ」
シリンダー内の混合気の気流が燃焼に多大な影響を与えるという概念は、1950年代に入ってからようやく研究されるようになったものだ。日本航空技術廠では帝国人繊エンジンの分解調査を行ったようだが、吸排気ポートの位置について「吹き抜け防止」以上の意味を読み取れなかったのもこのためである。
「直感的にも、燃料と空気をかきまぜたほうが、より均一にきちんと混ざりそうですもんね。なるほどなるほど、あれにはそういう意味が……」
「均一な混合気を作るという観点で言えば、キャブレターよりインジェクターの方がいいでしょうね」
感心している佐久間に対して、耀子がさらに畳みかけた。
「それはそうだろうな。ダイムラーベンツでは、ディーゼルのように燃料を気筒内に直接噴射することで燃費を向上させた新型発動機を開発中と聞く」
中島が言っているのは史実のDB601エンジンの事である。航空技術の進歩が著しく、ドイツが史実より痛めつけられていないため、例によって史実より前倒しで開発されていた。
「ドイツと同じガソリン筒内直接噴射では、シリンダーヘッドの複雑化が懸念されますので、私としてはデュアルインジェクション……すなわち、吸気バルブの本数分だけインジェクターを備える方式がいいかと思います」
「成程、単純に部品点数が増えるという欠点がありますが、検討しましょう」
「こちらも、三菱さんと共同開発し、次のマイナーチェンジで採用が決定しているものがあります。必要でしたら資料と実物を送りますのでぜひよろしくお願いします」
三菱が航空分野に手を出していないため、史実で傑作航空エンジン「金星」を開発した深尾淳二は造船部門所属のままである。その代わり、彼は船舶用ユニフロー2サイクルディーゼルエンジンの開発で大活躍しており、オーストリア海軍の協力もあって現在の日本潜水艦隊は非常に強力な集団になっていた。
この機械式インジェクターも、三菱が積んだディーゼルエンジンの知見を活かして開発されており、「和製K-ジェトロ」と呼んでも差し支えないだろう。
「こんなところですかね。ご存じの通り、現在開発中の輸送機と旅客機も、寿エンジンを使う前提で設計しております。白鷺も、低燃費型寿が開発できたら、そちらに換装したモデルを開発したほうがよさそうですね」
「『長元坊』も、燃料タンクの場所を確保するのに苦労したと聞いておりますからな。軽量大出力なのはもちろん良いことですが、燃費にも気を配っていただくと、設計者の苦労が減るでしょうな」
全幅10mの小さな機体に武装と乗員、そして大量の燃料を押し込むのは相当大変だったらしく、最後に耀子はチクリと文句を言われてしまった。
そうしてしばらく後に出来上がった低燃費型寿は、出力こそ平凡なものの、排気量あたりの燃費性能なら間違いなく世界一のエンジンとして仕上がることになる。日本だけでなく、ライセンス元のブリストルに逆輸入ならぬ「逆ライセンス」されるほどのベストセラーとして、軍民問わず愛されることになるのだった。
日本航空技術廠 寿 2型乙
形態:空冷星型単列9気筒
動弁系:OHV4バルブ
離昇出力:805hp/2200rpm
公称出力:691hp/1800rpm
何と言うことでしょう。匠の技によって、もともとロングストロークで素質のあったペガサスエンジンが、超低燃費(同世代比)航空エンジンに早変わり!さらに耀子の隠し玉も使えば、太平洋無着陸横断も射程圏でしょう。
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