歪んだようで歪んでいない歪んだ歴史
時は戻って新彊方面がにわかにきな臭くなったころ、耀子が転生者だと知る者たちは鷹司邸書斎に集まっていた。
「まずは、割と深刻な読み違いがあったことをお詫び申し上げます……」
開口一番、歴史の流れが想定以上に変わってしまったことを謝罪する耀子。
「読み違い……ということは、耀子の知る歴史の中に、このときの日本が巻き込まれる戦争はないということだね?」
「その通りです……一次大戦が終わってから1937年までは、小競り合いこそ起きても戦争には発展せず、ずっと平和でした……」
信煕が謝罪の意味を確認すると、耀子はため息をつきながらうつむいた。
「私としては、耀子さんが知らない、あるいは覚えていないだけで、案外火種の存在は史実通りだったのではないかと思います……耀子さんはあくまで技術者であって歴史家ではないのですから、気にしなくていいと思いますよ」
「そうだな、どうせロシアとはそのうち一戦交えそうな雰囲気だったし。というか、狙いすましたようなタイミングで新兵器が出来上がっているから、自分はこれも史実の出来事なのかと思ってたぞ」
芳麿が耀子を慰めると、信煕もそれに続く。芳麿の予想した通り、今回の出来事の背景にある「チベットが周辺の軍閥と積極的に領土紛争を起こしていたこと」と、直接のきっかけになった「新彊軍の指導者である楊増新の暗殺」自体は史実通りの出来事である。
「それについては、本当にたまたまとしか……実際、開発が完了しただけで、十二年式中戦闘車の方は全く部隊配備が追い付いていませんし……」
「陸軍の予算要求が高すぎるから何とか削減できないかって、なぜか自分にまで大蔵省から話が来たよ……僕はただの鳥学者なんだけどなあ」
「兄さんは鳥学者かもしれないけど、貴族院議員でもあるんですからね……だからここに来てもらってるわけですし」
信輔がぼやくと、信煕が呆れてツッコミを入れた。
「あぁ~また研究時間が減っちゃう……でも人の命に代えられないもんね。できるだけの協力はするよ」
とは言うものの、信輔は心底残念そうである。一応これでも主に鳥類保護政策を政府に実施させるため、史実より積極的に議員活動をしているのだ。
「……そうですね、信輔お兄様の言う通りです。私も己の失策を嘆いている暇があったら、この状況をどうすべきか頭を使うべきでした。どなたか、イギリスが今回の一件にどういう態度をとっているかご存じですか?」
「基本的に激怒していると聞くな。ロシアが引かない場合は戦争に踏み切るつもりのようで、その場合は日本も参戦するかしきりに確認してきているらしい」
「今まで新彊が間に挟まっていたから安定していたのに、その新疆がロシア側に下ってチベットを併呑しようとしているんですからね。その次に犠牲になるのは間違いなく『大英帝国の至宝』インドだと思っているのでしょう。実際その通りだと思います」
耀子がイギリスの情勢を尋ねると、信煕が回答し、芳麿が解説を入れる。
「……一応聞きますが、ロシアも折れる雰囲気はないんですね?」
「しらを切り続ける上に態度も慇懃だから腹が立つって、外務官僚が言ってたよ。欧州大戦の和平交渉でも中央同盟の賠償内容を巡って日本と揉めたし、いつか日露戦争の報復をしたいと思っていたんだろうとは思うんだけど、なんで今なのかな……」
「戦場で回収した装備を陸軍の方で分析したが、間違いなくロシア正規軍の物が過半を占めている。これで国家の関与がないとするのは無理筋だろう。それでも主張を変えないということは、おそらく内向きの大義名分さえ手に入ればいいということだな。しかし、兄さんの言うとおり、今仕掛ける必要は無いように見える……」
鷹司兄弟はロシアがなぜ今仕掛けてきたのかが気になった。内情が不安定になって国民の不満を外に向ける必要があったという類の話は聞いていないし、逆にロシア側の有利が決定的になるような情報も入ってきていない。
「国力差を考えるとそこまで不自然ではないんですよね。陸軍兵力だけなら、日英を足してもロシアには届きませんし、その物量を支える生産力についても、アメリカがわざわざロシアだけに禁輸をするとは思えませんから、そうそう息切れすることはないと思います。芳麿さんの言う通り、史実と同じように存在した火種から、史実より元気の良い周辺諸国に引火したのがたまたま今だった、ということでしょう」
「耀子さんの知る歴史では、欧州大戦がもっと凄惨で泥沼な戦争だったと聞きます。一方、この世界では数々の新兵器が投入されたことこそ共通していますが、むしろそのおかげで1年程度で決着し、戦費も犠牲者も抑えることができました。そのため、欧州各国の戦争に対する忌避感が弱いのではないでしょうか」
これに対して山階夫妻が自身の推論を述べた。歴史を変えて一次大戦の犠牲者を減らした結果、史実より各国が戦争を回避しようとしなくなったという仮説である。
「まあいずれにせよ、この事態に日本はどう対応すべきか決めないといけないよね。念のため確認するけど、イギリスの参戦要請を断って様子を見るのはダメ?」
「(ありえ)ないです。ここまで育てたイギリスとの友好を叩き壊す見返りが薄すぎます」
信輔の冗談めいた意見を耀子が真に迫った様子で否定した。
「血の気が多い陸軍の誰かさんが血迷ってクーデターを起こしかねないぞ兄さん。今の陸軍はロシアを第一の仮想敵として日々訓練を積んでいるんだから」
「海軍航空隊の山階宮武彦からも、ロシアが仮想敵だって聞いていますよ。さすがにこっちまで暴動を起こすことはないと思いますが……」
「だよねぇ……そうなるとやっぱり参戦するしかないかぁ」
戦争をしないという選択肢がないことを再確認した信輔がため息をつく。
「そうなると、国民が戦争に乗り気なのかが気になるのですが」
「やり方次第だと思うなあ。遠い外国のさらに山奥にある国だから、やっぱり身近な存在であると感じている人は多くないと思うよ。耀子の方が詳しいと思うけど、今年の秋ごろにシュナイダートロフィーレースが予定されているじゃん?あれが潰れたらがっかりする人、かなりいるんじゃないかな」
信輔がまず懸念点を打ち上げた後、信煕に目配せしてポジティブな要素を話すように促す。
「その一方で、退役陸軍軍人とか、貿易商なんかは、チベットが高地戦訓練の場を提供してくれていたり、工業資源を我が国に輸出していたりすることを知っているからな。このあたりをうまく絡めて喧伝すれば、理解は得られると俺はみるぞ」
「そうなると、後は軍の準備が整っているかですね。信煕お兄様、芳麿さん、そのあたりは?」
国民の理解は得られそうだとわかった耀子は、軍の状況を二人に聞いた。
「特に陳腐化した兵器を抱えている師団もないし、兵の練度にも自信がある。ロシア侵攻作戦の検討も終わってたはずだから、動員さえ間に合えば陸軍は問題ない。あと1年あれば、最近開発が完了した新兵器群の量産が進んで万全の状態に持っていけたが、贅沢は言えないな」
「え、私が答えるの?……兄様から特に愚痴とかは聞いていませんから、問題はないんじゃないかと思います……耀子さん、次から兄様を呼ばせてほしいです。私、元は陸の人間なので……」
「そうですね。武彦様なら私の事を話しても大丈夫でしょう。それでお願いします」
夫として妻を支えたいという思いから芳麿はこの会合に出席しているが、それはそれとして「餅は餅屋」である。
「……それでは、イギリスの側に立ってロシアとの戦争に参戦するというわが国の方針について、そのままにするという結論で今回は会合を締めさせていただきます。結局、大勢の死人が出る戦争を回避できず誠に遺憾ではございますが、皆様どうかご協力お願いいたします」
そう結論を再確認して、耀子はもう一度、深く頭を下げた。