坂の上の雲の上の鷹
日露開戦以来、日本陸軍は快進撃を続けていた。
第一軍が鴨緑江で油断しきっていたロシア軍に対して渡河攻撃を成功させ、第二軍──史実では兵站監だった大谷喜久蔵少将が参謀長を務めている──は南山においてわずかな損害で5000人以上の捕虜を得る大勝利を収めた。特に第三軍司令官乃木希典大将の長男、乃木勝典少尉の活躍が目覚ましく、彼の小隊は野砲6門を鹵獲する戦果を挙げる。
その後、南山を占領されたことで孤立した旅順守備隊を救出すべく、スタケリベルク中将のシベリア第一軍団が得利寺に進出したが、第二軍司令官奥保鞏大将の苛烈な指揮と参謀長大谷喜久蔵少将の巧みな浸透突破作戦によって完全に初見殺しを喰らい、彼らは仲間も装備も捨てて這う這うの体で熊岳城に逃げ帰っていった。第二軍は後続の第三軍に旅順"攻略"を託し、決戦に向けて遼陽へと進撃した。
そして、問題の第三軍である。緒戦を史実以上に華々しく勝利したこの世界では「ロシア軍恐るるに足らず」という空気が蔓延しはじめ、世間では「敵は幾万」が流行歌になるほどであった。このため、史実通り旅順港封鎖に失敗した海軍からの要望もあり、満州軍司令部は「速やかに旅順要塞を攻略し、ロシア国内の厭戦感情を喚起する戦果を得る」ことを企図し、旅順要塞を攻略することを決定した。そうして6月30日には旅順要塞の包囲を完了した第三軍であったが……
「……これは想像以上に苦しいな」
部下からの報告と、イギリス情報部からのスパイ情報をつなぎ合わせて作成した旅順要塞の構造図をみて、第三軍参謀長の伊地知幸介は苦い顔をした。
1903年の演習で大谷に敗北し、直接浸透戦術の薫陶を受けて以来、伊地知は攻撃対象を念入りに偵察するようになった。浸透戦術の4本柱の1つ「迂回突破」には、敵陣の弱点を知ることが不可欠だからだ。今回の旅順要塞攻略にあたっても、念入りな前線偵察を命じ、つけ入る隙を窺った。
「少なくとも、鉄道から近い東正面は、地形も険しいですし、防御施設の数も多いですね」
作戦参謀の白井二郎が言った。少なくとも、地図上では迂回突破のできそうな弱点はないように見え、これまで通りの楽な戦いはできそうになかった。
「そうなると、やはり北正面か西正面から攻撃するしかないな。だが、仮に龍河西岸を占領しても、要塞は降伏するだろうか」
浸透戦術の属する衝撃戦術では、とにかく敵を混乱させ、その士気をくじいて退却させることが肝要である。弱点攻撃と迂回突破はそのための手段であるため、手薄なところを攻撃しても敵がその突破によって慌ててくれなければうまみが少ない。
「幸い、急造の堡塁が多いためか、大火力をたたきつけることでつぶせそうなものがいくつもあります。国民の血税を大量に投入することになりますが、まずは砲撃戦で要塞の弱体化を試みるのもいいのではないでしょうか」
「やはりそうするしかないか……」
停滞感の出始めた参謀本部に来訪者が現れる。満州軍総司令部参謀井口省吾少将である。
「伊地知か。乃木閣下はどうされたか?」
「司令官殿なら現地視察をしていて今はいらっしゃらない。何の用か」
「満州軍総司令部の参謀総長が何をちんたらしているってお怒りでね」
そう言って1通の書簡を伊地知に渡す。旅順要塞の攻略日程を早めよという、満州軍総司令部参謀総長山縣有朋大将からの物であった。
「現場も知らずに調子のいいことばかり言いおって……」
「事前の情報では、旅順要塞は軍事予算削減のあおりを受けてまともに完成していないという。であれば、相手に準備の時間を与えず、さっさと攻略してしまえばいいのだ」
井口は得意げに言う。実際、旅順要塞は当初計画の半分も完成していなかった。だが、それが「旅順要塞の防衛力は低い」ということにならなかったのは史実のとおりである。
「貴様が知らないのも無理はないと思うが、わが軍の偵察によって旅順要塞は堅牢であることが分かった。総司令部の要求にこたえるのは困難である」
「なんだと伊地知、貴様臆したか」
「臆してなどいない!たとえ未完成だったとしても、この要塞はわが軍の兵士たちをまるでぼろ雑巾のように引きちぎることができる!陛下から預かった大事な兵士たちを、無駄に殺すわけにはいかない!」
「事前研究通り西側から攻撃すればいいだろう!あちらからなら地形も平坦で進軍も容易なはずだ!」
「いくら要塞西側を制圧しても堅牢な東側が健在ならそれをよりどころにしてロシア軍は降伏しない!大体貴様は何だ、さっきから調子のいいことをべらべらとまくしたてやがって!いい機会だ!成敗してやる!」
「上等だ!かかってこい、相手になってやる!」
言うが早いか、二人の将軍は殴り合いのけんかを始めてしまう。周りの第三軍参謀が止めようとするが、振り払われてしまった。喧騒の中、山縣の書簡が白井の元へひらりと飛んでくる。
「どれ、どれだけ阿呆なことが書いてあるか見てやろう」
白井は書簡を開く。まあ、色々と書いてあったが、その中に「海軍」という文字を見つけた。それを見た白井はひらめく。
「ありましたよ!西側攻略の意味!」
数日後、第1師団は闇夜に紛れて二〇三高地とその周辺の堡塁を迂回突破し、包囲した。これを救出しようと、ロシア軍は猛反撃を開始する。
「連中め、雲霞の如く湧いてきやがる!」
「狙いなんぞつけなくていい!撃てばあたるぞ!」
しかし、迅速に大量の機関銃を持ち込み、野戦築城を構築した日本軍の前に、おびただしい数の死体の山を築き上げていった。
「二〇三高地を何としてでも奪還しろ!奴らに重砲の観測点を与えてはならない!」
史実では"旅順要塞そのもの"とも謳われた名将、コンドラチェンコ少将は、二〇三高地を奪われた場合、旅順港内の艦船を砲撃されることを危惧していた。陸からの砲撃で旅順艦隊が沈められれば、現在拘束している日本艦隊がフリーになってしまう。
「ですが、それこそがこちらの思うつぼです」
「孤立させた二〇三高地を餌にして周囲に防御陣地を築き、ロシア軍に消耗戦を強いる……なるほど、人がこもっていない要塞は空き家でしかないな」
「そして、敵の予備兵力が尽き、東正面から兵力を引き抜いたところで」
「手持ちの砲火力と、奥閣下の第二軍が残していってくれた鹵獲野砲の火力をもって東正面に総攻撃を仕掛けると」
「要塞司令官のステッセリは南山で第二軍に手酷くやられたせいで我が軍に恐怖している。要塞全てを占領しなくても、望台あたりを落とせば降伏するだろうさ」
ロシア軍にとってさらに運が悪かったのが、二〇三高地をめぐる消耗戦の最中に、戦況を好転させようと陣頭指揮を執っていたコンドラチェンコ少将が三十一年式野砲弾の直撃を受けて戦死してしまったことである。これにより日本軍が東正面からの総攻撃を開始してもロシア側は有効な反撃を行うことができず、ついに1904年9月4日、旅順要塞守備隊は降伏した。
史実よりもはるかに少ない損害で旅順要塞を陥落させた第三軍は、遼陽会戦には間に合わなかったものの、続く10月の沙河会戦に参戦することができた。これにより史実より豊富な兵力を手にすることができた日本軍は、ロシア軍の攻勢を捌いた後の逆襲に成功し、分進合撃によって包囲した部隊を殲滅。これまでの戦闘によるものも合わせて、日本政府が待ち望んでいた「当分回復不可能な大損害」をロシアに与えることができたのである。
というわけで皆さんお待ちかね(?)の旅順要塞攻囲戦をお届けしました。その手の人から見れば、多分色々穴があると思います(ちょっとコンドラチェンコが考え無しすぎたりとか……)。素人の自分にはこれが限界なのでどうかご勘弁ください……




