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感動繊維の創造と狂騒

実際問題、この話を書き始めてから「樹脂ってこんなにいろんなことができるんだ」と改めて感動している次第でございます。

 生糸。それは明治維新後の日本を支えてきた一大産業であり、史実ではレーヨンとの競合によって次第に追い詰められ、ナイロンの発明によってとどめをさされてしまったわけであるが、この世界ではどうだったのか。


 まず日露戦争前のナイロン黎明期、実は生糸の立場はそこまで脅かされていなかった。


「ポリアミド? 強いよね。強度、弾性、破断ひずみ、スキがない。だけど、養蚕業界は負けないよ」

「長い歴史をかけて改良されてきた生糸が、ポッと出の合成繊維に後れを取るはずがない」


 日本政府が帝国人造繊維を積極的に支援したのも、ナイロンと生糸は競合しにくいという予測に基づいている。と言うのも、繊維としてのナイロンは肌触りが今一つで、使用できる衣類が限られていたからだ。

 史実の生糸はレーヨンに高級織物市場を圧迫され、ストッキング市場に追い詰められたところをナイロンに駆逐されてしまうという経過をたどったが、このころの生糸はまだ高級織物分野で頑張れていたため、合成繊維に対抗するべく策を練る余裕があったのである。このため、いくら帝国人造繊維がナイロンストッキングで急速に発展しても、そこまで生糸業界の恨みは買わなかったし、何なら東北地方の養蚕家が帝国人造繊維従業員に転職するなんてことも起きていた。


「生糸業界へのテコ入れですか……天蚕糸への転換で何とかなりませんか?あそこまで質感の高い糸なら、ポリアミド糸と明確に差別化できると思いますけど」


 天蚕糸とはヤママユの繭の糸である。この時期の長野県の特産品であり、絹に比べて保温性が高く軽量で光沢がある、美しい薄緑色の繊維だ。蚕と違って家畜化されていないヤママユを飼育する必要があるため生産性に難があるものの、とにかく質感が良く、希少であるため、コスト以上に価格を吊り上げることができる。


「天蚕?贅沢な名だね。こいつはただのヤママユガだよ、ヤママユガ」

「家畜として最適化されているおカイコ様が、野生の蛾に後れを取るはずがない」


 政府は天蚕糸の生産を奨励し、生糸生産に対する補助を少しずつ減らしながら、天蚕糸生産に対する補助をその分増やしていった。

 しかし、カイコとヤママユは餌となる木が違ううえ、飼育方法もまるで異なる。カイコは狭い場所に密集させて飼育することができるのに対して、ヤママユは屋外で放し飼いにするか一匹ずつ桶の中で飼わなければいけないため、大部分の養蚕家は芳しくない反応を示した。


「いい糸でしょう?美しい緑だ。光沢が違いますよ」

「一番気に入っているのは……売値(ねだん)だ」


 それでも長野県で古くから天蚕糸を生産し続けてきた者たちは、やっと自分たちの時代が来たかと奮起し、既存の養蚕家を説得して回る。彼らは国に雇われ、新たにヤママユの飼育を始めた養蚕家を手厚くサポートし、ノウハウを惜しげもなく伝えた。耀子によるナイロンの発明が、運よく史実における天蚕糸業界の全盛期と被っていたことも大きい。特に1907年からは天蚕糸生産の本場長野県の焼岳が頻繁に噴火し、現地の一次産業に打撃を与えるようになったため、彼らの『布教』には鬼気迫るものがあった。


「まず日本(うち)さぁ……レーヨンの事すっかり忘れてると思うんだけど……導入しない?」


 史実よりも天蚕糸生産が広まっていく中、一次大戦後に三井物産が東洋レーヨンを設立し、ドイツから戦時賠償の一環としてビスコースレーヨンの生産技術を導入する。これにより日本でも大規模なレーヨン製造がはじまり、生糸と競合するようになると、さすがに養蚕業界も危機感を募らせて天蚕糸の生産を始める動きが加速するようになった。




「弊社謹製のトレンチコートあったかいなりぃ……」

「それはよかったです」


 耀子がご満悦な様子で着ているのは、鈴木岩蔵が主導して開発した井桁断面繊維製のトレンチコートである。井桁断面繊維は内部が中空になっているため、保温性が高く、軽い割にはコシが強いのが特徴だ。


「毎年のように陸軍から冬の厳しさについて愚痴めいた要望が来ていたんですよ。これなら軽いしあったかいので、兵隊さんたちも喜んでくれそうです。大手柄ですよ岩蔵さん」

「いえいえ、耀子さんの下で鍛えられたおかげですから」


 鈴木岩蔵は鈴木商店の創業者鈴木岩次郎の三男で、この時代にマサチューセッツ(M)工科大学(IT)を卒業した秀才である。この世界では秦、久村に次ぐ第三の主力技術者として耀子に重用されていた。


「井桁断面の方は迷いなく製品化して各方面で役立ててもらいましょう。特許文書の準備もできてますよね?」

「ええ、そのあたりは抜かりなく。……しかし、こっちの三角断面の方はどうしましょうね」


 岩蔵の視線の先に置かれていたのは、一見絹でできているように見えるハンカチである。勿論、帝国人繊で今更絹製品を取り扱うことは考えづらい。


「そうね……技術的な発見としては間違いなく有用だと思うのだけど、我が国の産業と喰い合わせが悪いような……」

「そうなんですよ……繊維の断面を三角形にすることで、合成繊維を絹に似せることができるとなってしまったら、いよいよもって生糸産業が壊滅しかねないです」


 岩蔵の言う通り、このハンカチもナイロン製である。実はこちらの発見の方が最初であり、試作に成功した当初岩蔵は大はしゃぎしたのだが、冷静になってみると「生糸と思いっきり競合する」という問題があって、今の今まで評価が保留されていたのだ。


「わざわざ自国の主力産業を壊滅させるような製品を出すのは、餓えた蛸が自分の脚を食うようなものなんですよね……」

「忘れがちですが、弊社は半官半民の企業です。その技術力と経済力を通じてお国に貢献する暗黙の了解がありますから、やっぱりこれを製品化するのは難しい気がしてきました……」

「そうですね……こっちは特許だけ押さえておいて、今のところ製品化はしないことにしましょう」


 ここまで合成繊維産業と言う、ともすれば生糸と真っ向から衝突しそうな分野で業務を営んできた会社でありながら、養蚕業界からそこまで反発を受けずに済んでいるのは、繊維の性質が違いすぎて棲み分けができていたからである。耀子もそのあたりは理解しており、結局特許だけ押さえておいて製品化はしないことにした。


「ですよね……承知いたしました」

「今は使わないというだけで、状況が変われば商品にしますよ?資料はしっかりまとめて、必要なときにすぐに活用できるようにしてくださいね」


 何とも不完全燃焼なところはあったものの、この井桁断面繊維を使用した防寒具は軍民問わず好評価を得る。ポリアミドの特許満了やポリエステル繊維の台頭によって、合成繊維業界での帝国人繊一強体制が崩れていたため、この分野で帝国人繊が脚光を浴びるのは地味に久々の事であった。


 

参考文献

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jshit/21/2/21_21/_article/-char/ja

https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/54/2/54_2_P43/_pdf


感想が作者の励みになっております。些細なことでも書きこんでいただければ幸いです。

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挿絵(By みてみん)

本作世界のチベットを題材にしたスピンオフがあります。

チベットの砂狐~日本とイギリスに超絶強化されたチベットの凄腕女戦車兵~ 

よろしければご覧ください。
― 新着の感想 ―
[一言]  我が祖母は信州諏訪の名糸取りだったとか。  お盆に諏訪に行くと、未だに養蚕の名残りである三階建ての倉庫建築が諏訪大社の参道沿いに残ってたりしてますが古図を見るとあんなのが町中にニョキニョキ…
[良い点] 更新お疲れ様です。 [一言] 繊維はよく分からない門外漢なのですが。 ナイロンって水を吸わないので手洗い後に使用するハンカチには向かないのでは?と思います。
[一言] 羽生さん? 強いよね。序盤、中盤、終盤、スキがないと思うよ。だけど、オイラ負けないよ
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