生きるは祝杯
ネイピア・アンド・サンでライオンエンジンを開発したアーサー・ロウレッジは、日本から送られてきた"クリーンな燃料"の実力に感心していた。
「シュナイダートロフィー仕様のエンジンが快調に回るなんて……」
「先ほどエンジンを分解してガスケット類を点検してみましたが、ほとんど劣化していませんでした。アルコール系燃料だったらこうはいきませんよ」
シュナイダートロフィーレースでは、エンジンの寿命やスタッフの健康も顧みず、オクタン価を稼いでパワーを出すため、有毒な燃料を使用することが横行している。例えば、史実のロールスロイス Rエンジンの場合、メタノール60%、ベンゾール30%、アセトン10%の混合物に少量の四エチル鉛を添加したものを使用している。どれもこれも人体もしくは機械に対して強い攻撃性があるものばかりで、とても常用できる燃料ではない。
「絶対的なオクタン価は我々のレース用燃料より少し低いはずなんですが、ちゃんとセッティングが出た時の出力は大して変わらないですね。メタノールより50%以上高い熱量があるというのは本当なのでしょう」
「エチルターシャリー-ブチルエーテルだったか……日本は相変わらず恐ろしいものを発明してくるな……」
耀子たちがCFRPの秘密を守る対価として用意したのは、意地でも四エチル鉛とアルコール燃料を使いたくなかった彼女がニッチツに開発させた高オクタン価燃料"ETBE"であった。攻撃性と性状はガソリンとほぼ同等で、メタノール以上のオクタン価を持ち、両者の中間くらいの燃焼熱が発生する、夢のような燃料である。史実でも、ETBEと類似した性質と化学式を持つMTBEの発明により、自動車用ガソリンの無鉛化が進んだという経緯があった。
「帝国人造繊維はこれよりもさらに低いオクタン価の燃料であれだけの戦闘力を出しているそうだ」
「噂の新材料がそれだけ優秀ってことですか?」
「それもあるかもしれんが、いろいろ工夫してオクタン価の低い燃料でもノッキングしないようにしているらしい。これは日本からサービスとして送られてきた、川鴉のエンジンを背面から撮った写真なんだが……ほら、インテークマニホールドに気筒数分のインジェクションが生えているのがわかるだろ?」
レース用のエンジンであるC222A系やC222C系では、機械式インジェクションにすることで吸気系統をすっきりさせているが、まだ複雑高価なため、普及には至っていない。軍用のC222B系ではインマニの通し方を工夫して、何とかキャブレターを使うように改修しているが、それでも一般的な航空エンジンよりはるかに多い気化器を装備していた。
「うわあすごい数……」
「各シリンダーに均質な混合気を送れなくてノッキングを起こすなら、キャブやインジェクションの数を増やして均質な混合気を送れるようにすればいい。言われてみれば単純な話なんだが、まさか本当にやるとはと言う感じだ」
「日本のシュナイダートロフィーチームは、このインジェクション全部の燃調をあわせてスロットルの同調も取ってるってことですよね。やりたくねー……」
日本がこの写真を添付したのは単純な親切心もあったが、「軽率な手段に頼らず自分で努力したらどうだ」という皮肉も込められていた。秘密情報部とイギリス政府がどう受け取ったかはわからないが、少なくともネイピア・アンド・サンのエンジニアたちはそれを読み取れている。
「しかし、これでシェルの連中はしばらく忙しくなるだろうな。ETBEの製造設備を作り、コストと性能のバランスが取れた軍用航空ガソリンのレシピを再検討しなければならん」
「でもこれだけ素晴らしい性能の燃料がレース以外でも常用できるようになるなら、我々エンジン屋もだいぶ楽ができるようになります。頑張ってほしいものです」
望みの物とは違ったものの、それはそれで有用な贈り物を手に入れたイギリスは、紳士たるもの対価には報いるべしとして、改めて日本陸軍情報部と協力して防諜活動に当たってくれるようになった。これで帝国人造繊維への工作は下火になっていったものの、日本は自国情報機関の力不足を再認識し、人員と予算の増強を行うことを決定。副次的に史実日本の弱点の1つである暗号の研究が進むこととなった。
この世界の日本の軍用ガソリンは
接触分解ガソリン:70%
MTBE:10%
ETBE:10%
ベンゾール:10%
の96オクタン燃料(オクタン価だけ見ればハイオク相当)が標準になっているかもしれません。