なまあしみわくの
デュポンは泣いていいと思います
1904年2月。ついに日本とロシアが満州をめぐって激突したころ、帝国人造繊維社内もまた修羅場と化していた。民間用商品第一号であるナイロンストッキングが欧米で爆発的に売れ、注文が殺到していたからである。
「横原さぁん!三共商店が追加で500足よこせって言ってますぅ!」
「はぁ!?こっちは鈴木商店に卸すだけで精一杯なんだぞ!でたらめな納期を吹っかけて断らせろ!」
「やったんですけど、それでもほしいって食い下がってきてます!」
「はぁ~なんでそうまでしてほしいかねえ……」
"極細モノフィラメントPA66"を使用して作られたストッキングは、従来の絹製ストッキングよりも素肌に近く、美しく、丈夫であった。鷹司耀子特別顧問が強硬に商品化を主張し、米国在住で海外の文化に詳しかった高峰譲吉がこれを後押ししたが、金子直吉をはじめとする他の出資者たちは欧米の女心がイマイチぴんと来ず、生産設備の規模を堅実なレベルにとどめてしまったのだ。その結果がこの惨状である。
「いや~降参だ耀子の嬢ちゃん。この金子の目をもってしても、この事態は見抜けなんだ」
「"財界のナポレオン"にもわからなかったのなら、だれにも読めなかったと思いますよ。私だって、こんなに売れるとは思っていませんでしたから……」
帝国人造繊維の会議室。こりゃ一本取られたわと愉快そうな金子に対し、耀子は申し訳なさそうにしている。
「帝国人造繊維のストッキングは今や欧米女性のあこがれ。仕入れれば仕入れただけ売れるという報告が届いています。我々としては、製品のストッキング一本に絞り、設備も順次増強しつつ需要にこたえたいと考えていますが……」
三共商店の塩原又策である。彼は高峰がアメリカで経営している会社の商品(有名なタカジアスターゼ)を独占的に輸入しており、その縁で帝国人造繊維に出資している。
「そうなると思いまして、陸軍にはPA66製軍装品各種の生産中止を承諾してもらいました」
今年日銀に入行したばかりの佐々木多門である。彼は外債の買い付けに奔走している高橋是清の代打として会議に出席していた。
「へぇー、珍しいこともあったもんだ」
「寺内陸軍大臣は激怒しましたが、桂総理曰く『靴下が弾薬に変わるならば安い』だそうで……」
「まあ、まだ数もロクにそろってなかったしね……」
陸軍からは、PA66の機械特性を生かし、過酷な任務に就く突撃歩兵用の軍服などを発注されていたが、外貨獲得を優先するために納期を2年延長してもらうことができた。生産が始まったのが最近で、まとまった数ができていなかったため、現場に送ることができなかったというのもある。
以後、会議はいかにして生産設備を素早く増強していくかという話にシフトしていった。こうなってしまうと耀子は会話についていけなくなるため、今後の研究開発ロードマップに思いを馳せた。
(おかげで資金調達のめどがついたのはいいけれど、今度は設備増強に資金を取られて、伊藤さんが殺されるまでに"アレ"の実用化が間に合わないかもしれないなあ。あれもポリアミド系だから、少しがんばれば合成はできるはずなんだけど……)
彼女は伊藤博文暗殺を回避し、日韓併合をつぶすことを狙っている。そのためには"アレ"で"ソレ"を実用化しないといけないのだが……
(私の前世のことをここのみんなにも話す?いや~それは非現実的だよねえ……『逆行転生して歴史を変える』っていうのには憧れていたけど、これほど孤独なものだとは思ってもいなかったなあ。誰一人、私のことを理解しつくしてくれる人がいないことが、こんなに寂しいだなんて)
別にみんな耀子を避けたり嫌ったりしているわけではない。むしろ、この場にいる人間たちは、彼女のことを最大限に尊重しているつもりである。ただ、耀子には家族すらも知りがたい未来が存在していること、ただそれだけが、過去を生きている彼らとの溝として、彼女との間に延々と広がっているのであった。
史実のナイロンストッキングは、パラシュートと材料を食い合ってしまったため1941年の日米開戦時に生産量を絞られてしまいましたが、この世界では逆に外貨獲得の手段として増産されることになりました。史実で日露戦争時に発行した国債を完済したのは実に1986年の事だったようですが、果たしてこの世界ではどれだけかかるのやら……




