鷹から産まれた鳳
2021/9/25:第2話の改稿に合わせて、第1話も全面的に書きなおしました
1901年。とある華族の邸宅にて。
一人の幼い少女が、5本の小瓶を机に並べて、じっと睨みつけている。
その後ろでは少女の父親が、一体何をする気なのかと、期待と不安の入り混じった目で少女を見守っていた。
「……よし。まず、苛性ソーダを蒸留水に適量溶かして……」
やがて少女は意を決したのか、小瓶の1つを開けると、その中身を少しだけ蒸留水の入ったコップの中に入れてガラス棒でかき混ぜ始めた。
「この水酸化ナトリウム水溶液にヘキサメチレンジアミンを投入する……これが溶けたら、今度は塩化アジポイルをベンジンに溶かして……」
1つ1つ、作業手順を確かめるように、声に出しながら、少女は実験操作を進めていく。
「……このベンジンをNaOHaqの上にそっと注げば……」
先ほど"塩化アジポイル"を溶かしたベンジンを、"水酸化ナトリウム"と"ヘキサメチレンジアミン"を溶かした蒸留水の上に注いでいくと、コップの中の液は水と油のように2層に分かれた。
「……!」
コップの中になにがしかの変化を認めた少女は、二層に分かれた液の丁度境界付近を箸でつまむと、それをゆっくり上に引き上げていく。すると、白い糸のようなものがコップからするすると伸びていくではないか。
「……うまくいきましたよ、お父様……!」
少女はわっと叫びたい気持ちを必死にこらえて、プルプルと震えながら、コップから伸びた白い糸を後ろで見ていた父に示す。
「それは……人絹か?」
「いいえお父様、これはポリアミドと呼ばれるものです……!人絹とは製法も、性質も、化学構造も全く違います……!」
少女が行っていたのは、現代人の目からすればなんてことない、ポリアミド──すなわちナイロンの合成実験である。相溶性の無い2種類の溶媒に、モノマーであるアジピン酸(今回は反応性を高めるため塩化アジポイル、すなわちアジピン酸ジクロリドを使用)とヘキサメチレンジアミンをそれぞれ溶かし、2つの溶液の境界で反応させることにより、温和な条件で質の良いプラスチックを合成する方法だ。
「そうか……いやしかし人工的に作り出した糸であるのは変わらないだろう?すごいな耀子は。我が国はまだ人絹を作ることができないというのに」
「我が国どころか、世界のどこもこの物質は合成できていないはずです……!世界初ですよ、世界初……!」
少女──耀子がナイロンを巻き取りながら興奮気味に答えた通り、史実におけるナイロンの発明は1935年2月28日のことであり、耀子が今回の実験で使用した界面共重合法に至っては1958年7月3日に世界に公開されている合成法であるから、明らかに時代が合わない。
「世界初……世界初かあ」
「まだぴんと来ていませんねお父様。この糸は、日本を、世界を変えますよ」
「うーん、私は別に化学者ではないから、具体的にどう使えるのか見せてもらわないと何とも言えんな……」
耀子の父──鷹司煕通公爵は、娘が何をやらかしたのかよくわかっていない様子である。だが、ふうっとため息をつくと、娘の方に向き直り、彼女の期待通りの言葉を発した。
「だが、子供を信じてやるのが親の務めというもの。私はその糸を帝国大学あたりにもっていって、新材料であることを立証してもらえばいいわけだな?」
「そうしていただけると大変助かります。特許を取りたいので、まだ公には知らせないでくださいね」
「分かった。何とか伝手をたどってみるとするよ。私はどうやってまともに取り合ってもらうか考えておくから、その間に耀子はその糸をできるだけ多く巻き取って私に渡してくれ」
「わかりました。頑張ります!」
耀子は父の言葉に元気よく答えると、ナイロンを巻き取る速度を上げた。
耀子が生まれてから4年。彼女には驚かされてばかりだと、煕通は思い返していた。
彼女が最初にその才能の片鱗を見せたのは1歳のころ。つい先日一語文を話すようになったと思ったら、もう複文まで話せるようになってしまった。
一般的に、複文を話せるようになるのは3~4歳ぐらいの事であるから、単純に計算すれば、彼女の言語能力は一般的な人間の3倍以上の速度で成長したことになる。
(あのときはとんでもない神童が生まれたと近所に自慢して回ったなあ)
この父親、陸軍士官学校を卒業した陸軍軍人で、ドイツ留学の経験もあるインテリであったが、同時に耀子から8つ離れた兄である長男の信輔に次々と鳥の剥製を買い与えるなど、子煩悩な一面もあった。先ほど耀子が実験で使っていた試薬も、煕通がドイツ留学時の伝手を使って、ドイツの大手化学メーカーであるBASF社から購入した物である。最近合成されたばかりの貴重な薬品ということでかなりの出費であったが、娘の常識外れな才能を見極めることができたのなら安い買い物だった。
(あの子を特にかわいがっていたのは、学者肌の信輔だったな。あいつが何かしら読んでいると、いつの間にか耀子も寄ってきて、読み聞かせが始まっていたのは微笑ましい光景だった)
やがて耀子が2歳になると、自分一人でも本を読むようになった。特に科学技術に関する物を熱心に読んでいたように思う。さすがに兄の真似をしているだけだろうと思いきや、内容について尋ねてみるとある程度理解しているようだった。
(同じ年ごろの子ならば、1段落たりとも読み取れないはずの本を、ざっくりとはいえ理解していたのは本当に驚いた。確かこのころだったな……何度か同じようなやり取りをするうちに、いくら女に生まれたからと言って、この子に月並みな教育しか施さないのは、我が国の損失になると思うようになったのは)
あるとき、煕通はふと気になって、耀子に「なぜそんなに難しい本を読めるのか」と尋ねたことがある。すると彼女はあたりを見渡して周りに煕通以外誰も居ないことを確かめた後、少々恥ずかしそうに
「……私、前世の記憶があるの。今よりずっと未来の、日本で生きていた記憶が」
「我が国はこの先、どんどんかじ取りを間違えていって、最終的に滅亡寸前まで追い込まれる。せっかくこの時代に生まれたんだから、一刻も早く偉くなって、みんなが幸せになれる日本にしたいの」
と答えた。
(自分を特別な存在にしたくて、虚言を弄する子供が時々いる。耀子もすごく頭の成長が早い子だから、そういうこともあるだろうと思ってその時は軽く流してしまった)
そして4歳の誕生日。プレゼントに何が欲しいかと聞かれたときに、耀子は
「塩化アジポイル、ヘキサメチレンジアミン、ベンジン、苛性ソーダ、蒸留水が欲しい。あとガラスのコップがいくつかと、ガラス棒もあると嬉しいな」
と言ってきたのだ。化学者ではない煕通には何物なのかさっぱりわからない試薬もあったが、耀子本人やドイツ留学時に知り合った人々の話を聞いて、少量ながらも希望された品々を買いそろえることに成功する。その結果どうなったかというのは、先ほど見た通りだ。
(帝国大学の教員たちにも話を聞いてみる必要があるが、耀子のやった実験は類例がない可能性が高い。もしそうならば、あの時言っていた『未来の日本で暮らしていた前世の記憶』というのが、本当の事だと考えるのが一番しっくりきてしまう)
まるで伝奇小説のようなお話だが、あらゆる状況証拠が、この突拍子もない仮説に説得力を与えてしまっている。
(……一度、耀子の言う『未来の日本』について、詳しく聞いてみる必要があるな)
なろうでは近代史を扱う仮想戦記が少なく、樹脂材料に焦点を当てたものは見たことがなかったため、書いてみました。適当なことを抜かしている部分も多くあると思いますがよろしくお願いします。