前編
目の前の光景に、一筋の雫が私の頬を滑り落ちた。
あまり人が寄り付かない学園の裏庭。
授業が終わった後に約束をしていたため、婚約者を探しに裏庭までやってきた。彼は時々、人気のない裏庭で心休めているのを知っていたから。
裏庭で彼の姿を捉えたので、声をかけ近寄ろうとして、私の足は踏み出そうとしたまま動かなかった。
今、目の前の出来事が現実だとは信じられなかった。
……信じたくなかった。
それは、婚約者であるこの国の王太子、ダミアン・ドニ・アランブール殿下と、ドリアーヌ・クジネ侯爵令嬢が熱烈なキスを交わしているところだった。
どうして……?
そう声に出したいのに、口を開く事も出来ず、金縛りの様に固まった体に、涙が流れた。
それを見続ける事に耐えられなかった私は、何とか足に力を入れ、踵を返して、その場を走り去った。
後ろから、ダミアン様が私の名を呼ぶ声が聞こえたが、立ち止まる事も振り返ることもしなかった。
私の名前は、リゼット・モーリアック。
身分としては、公爵令嬢であり、王太子の婚約者である。父はアランブール国の宰相をしており、幼少期に王太子であるダミアン様と出会った。
そこで私は初めての恋をした。
その後、王家から婚約の申し入れがあり、ダミアン様が私を望んでくれたことに心が弾んだ。
ダミアン様は初めて会った時から、私にいつも笑顔で優しく接してくれた。眉目秀麗で、絵本に出てくる王子様そのものだった。
私がダミアン様に恋をしているのを知った両親は、王家から婚約の要望があった事に安心し、受け入れた。私達が6歳の時に婚約が結ばれた。
彼は王太子で、将来的には国王になる。
それは子供ながらにも理解していた。
ダミアン様のお役に立とうと、勉強に必死に取り組み、作法や他国の言語、情勢についても一生懸命学んだ。
15歳となり学園に入ると、王妃教育も更に熱が入り、一緒に過ごせる時間は少なくなっていった。そんな中、ダミアン様に纏わり付く令嬢達が出てきたので、婚約者のいる男性に寄り添う様なはしたない真似をやめるよう彼女達に伝えたが、あまり効果はなかった。
婚約者がいる男性に侍るなんて、令嬢にとっては醜聞にしかならないし、自分の婚約者に他の女性が取り入ろうとするのを見るのだって、気分が良くない。
しかし、何度、令嬢達に苦言を呈しても変わらない現実。もちろんダミアン様も諫めたが、令嬢達を拒否する様な事も言わなければ、迷惑しているという態度も取らない。だからこそ令嬢達の行為も助長していく。
それに対して思うところもあったが、色々と我慢して、一生懸命やって来たのに……。
私の全ては一瞬で崩壊した。
ダミアン様とドリアーヌ様のキスを目の前で目撃した時、流れた涙と共に、私の彼への気持ちも砕け散った。
自宅に戻り、今日見た出来事をそのまま両親に伝えた。両親はダミアン様への怒りがおさまらないようで、彼の事を罵っていた。もちろん収まりつかない感情はあるが、何よりも大事な事を両親にハッキリと告げた。
「お父様、私はそれを目撃した時に、ダミアン様を恋しいと思う気持ちは砕け散りました。もうダミアン様を愛すること はありません」
私の発言に、両親は心配とも悔しさともつかない複雑な表情を浮かべた。そして、私の気持ちが変わらない事を理解すると、大きなため息をついた。
「……わかった。これから陛下に話をしてくる」
そう言ってお父様は急いで登城され、その日の内に私とダミアン様の婚約は解消された。
普通なら、そう簡単に婚約が解消される事はない。なにせ王太子との婚約だ。でも、私にはそれが許される理由があった。
あれは、私が5歳の頃ーー
突然心臓が痛くなって倒れた。
すぐに医者に見せたが、原因不明。
2、3日経つと、通常の状態に戻った。
しかし、3ヶ月後に、また同じことが起きた。
今度は別の医者に見せたが、やはり原因不明。
原因を探っても何も見つからず、それから3ヶ月毎に発作が起きる様になった。
この国には、『魔女』と呼ばれる者達がいる。
不思議な力を持ち、国王陛下に認められた者だけが得られる称号で、魔女の知識は賢者並みに豊富らしい。
その魔女に見せたところ、発作の原因が判明した。
私には『呪い』がかけられているとの事だった。
いつ誰が掛けた呪いなのか不明だが、解呪の方法は一つだけだった。
魔女曰く、
「この娘が18歳までに、心から愛し合っている者とキスをすれば呪いは解ける。もし、呪いが解けなければ、20歳までしか生きられぬ」
とのこと。
解呪は出来ないが、発作を抑える事は出来る、と魔女は薬を作ってくれた。その薬によって、発作は1年に一回程度に抑える事が出来た。
この呪いの件を知っているのは、もちろん家族と国王陛下のみ。王太子の婚約者が呪われているなんて外聞が悪く、王族との繋がりを求めている貴族にしたら、それはモーリアックけ公爵家を陥れる切り札となり得る。
私とダミアン様はお互いに恋をしたと判断した両親は婚約を受け入れる事にしたが、その返事をする前に国王陛下に事情を全て説明した。
王命であればその婚約が覆る事はない。ダミアン様からの強い要望もあり、国王陛下も婚約については問題ないと判断し、呪いの件は秘匿することとなった。
当時、両親もすごく喜んでいた。
早い時期に呪いが解けるだろう相手が見つかった事に。あとは2人が成人するのを待つだけだと、将来的に呪いが解けることを疑わなかった。
しかし、私のダミアン様への気持ちがなくなった事で、このまま婚約を続け、婚姻を結んだとしても、決して呪いが解けることはなく、私は20歳までしか生きられない。
それを理解した両親は、そんな未来にするつもりはないと、すぐに国王陛下に婚約解消を願い出た。
後からお父様に聞いた話によると、国王陛下も両親と同じ様な気持ちだったらしい。将来は義娘となるリゼットを自分の娘の様に可愛いがっていたのに、馬鹿息子がそんな事をするなんてと憤慨し、躊躇する事なく解消を了承したと教えられた。
国王陛下が気にかけてくれた事は嬉しく思った。
義娘になれなかったのは残念でしかない。
ダミアン殿下が、なぜあんな事をしたのか、いつから彼女とその様な関係だったのかと色々気にはなるが、婚約も解消し、気持ちが無くなってしまった今となっては、悔やんでも悲しんでも、ダミアン殿下のことを考えるのは、時間の無駄にしかならない。
16歳の私に残された猶予は後2年……。
10年もダミアン殿下を想い、彼の婚約者だった私に、新たに愛する人が出来るのか、更に2年以内に愛し合えるのかと考えても不安しか残らない。
しかし、そんな私の不安をかき消す勢いで、両親は私の新しい相手を探そうと躍起になっていた。
「学園に気になる男性は居ないのか?」
「どんな男性がタイプだ? 見た目は?」
「どういう性格なら好ましいと思う?」
矢継ぎ早に繰り広げられる質問。
「私達の宝物であるリゼットには幸せに長生きして欲しいんだ! 身分は一切気にしないで良い。リゼットの好みに合いそうな者達を集めてパーティーも開こう! 私達に出来る事があれば、何でも言ってくれ!」
両親が私の幸せを考えてくれるのはすごく嬉しい。
でも、初対面でダミアン殿下を好きになり、10年も想い続け、ダミアン殿下と添い遂げるつもりだった私にとって、両親からされた質問の数々は、私が今まで考えた事もなかった様なことばかりで、一つ一つ答えるのが、ものすごく大変だった。
そもそも考えても、自信を持って答えられるものは少なく、おそらくこれじゃないだろうか、という客観的な意見ばかりが出てきた。まぁ、それらの答えを見つけるための考える時間はまだある。
両親からは最低でも2週間は学園を休むように言われた。今回の婚約解消に至った原因はダミアン殿下にあるが、婚約解消が明らかになったら、私も話題に上り、事実無根の噂が流れる可能性もあるからだ。
両親は、その後も無理に学園に通う必要はないと言ってくれている。学園には価値観が近い貴族子息が多いので、通い続けて今まで向けていなかった周りの者に目を向けるのも良し。学園を辞め、出会いを求めて他国や街中に行くのも良し。全て私の好きにしていいとの事だった。その配慮は大変有り難かいが、まずは、自分がどの様な人に恋愛感情を持つのか、というところから考えなければならなかった。
表向きは病欠となっている2週間。
2年後を考えて恋愛における自己分析を始めた。
自分がどの様な相手を望むのかある程度わかってから、残り2年の過ごし方の計画を立てるつもりだ。
婚約解消の翌日は、ゆっくりと自室で過ごし、どんな人と恋愛をしたいのか、どの職種の人に興味を持ちそうか、どこで出会いを求めるか、男性の魅力を感じる部分や仕草は何か、結婚する人に求める条件とは何か、そもそも恋や愛とは何かと、様々な事に考えを巡らせた。
恋や愛について、こんなにも真剣に考える事になるとは思ってもみなかった。でも、今まで意識しなかった事に目を向けて改めて考えるのは、新たな発見があって面白い。少し楽しみながら、私の思っている事をノートにまとめた。
そして、婚約解消した翌々日ーー
私の家に見舞い客が訪れた。
私は、ソファで寛ぎながら、恋愛についての本を読み、お茶の時間を過ごしていた。一応、病欠扱いのため、お客様は私の部屋に案内された。
「リゼット嬢、体調はどう?」
学園の制服に身を包み、重く見えがちなはずの漆黒の髪は、緩いウェーブで流したショートミディアムによって爽やかに纏まっており、琥珀色の瞳に心配の色を浮かべる美青年は、私にビタミンカラーの小ぶりの花束をそっと手渡した。
彼は隣国フォルデノワの第三王子、リュシアン・エーテ・フォルデノワ殿下。現在は、学園に留学生として通っている。
「まぁ、リュシアン殿下。お見舞いに来てくださったのですか? ありがとうございます。……この花束は、とても綺麗ですわね」
「貴女が少しでも元気になればと思って」
「ふふっ。嬉しいですわ。ありがとうございます」
赤、黄色、オレンジなどの色とりどりの花が包まれた花束は、眺めると心が安らぐ。ほのかに香る花の匂いに自然と口角もあがった。
私は、立ったままだったリュシアン殿下にソファの向かい側を勧め、侍女にお茶の指示を出した。
少しの間沈黙が続き、紅茶を飲んでいると、リュシアン殿下が気まずそうに口を開いた。
「リゼット嬢、ダミアンとの婚約解消の事を聞いた。……何て言ったら良いのか……その、大丈夫だろうか?」
さすが隣国の王子様。情報が早い!
婚約解消されたのは一昨日で、まだ公表はされていないはずなのに。まさか、その話を聞いて、心配して来てくれたのかしら?
リュシアン殿下は学年が一つ上で、サロンや食堂、温室なとで遭遇した際には挨拶を交わし、図書館で会った時には政治や文化の話などはするが、友人と呼べるほどの仲ではない。
学園では、単純に忙しいせいで、友人を作って楽しく過ごす機会もなかったが、特定の男性との変な噂を生むのも避けたかったから、私は特に男性とは距離を置いていた。だから、正直言って驚きしかない。
「あっ! すまない……大丈夫な訳がないよな、婚約解消なんて……」
しかも、驚いたのは、心配で来てくれた事だけではなく、彼の態度だ。政治や文化の話をする時の彼は、ハッキリと意見を述べ、普段は常に自信に溢れている感じなのだ。それなのに、目の前にいる彼は、戸惑いや気まずさが顔に出ており、自分の失言にも顔色を少し悪くして焦っている。
「お気遣いありがとうございます。……婚約解消に何も思わない訳ではないですが、もう大丈夫ですわ。だから、そんなに気になさらないでくださいませ」
「そう、か」
リュシアン殿下は複雑そうな表情を浮かべている。
今日のリュシアン殿下は別人ではないかと思えるほどだ。完璧そうに見える彼の意外な一面を見てしまい、少し親近感が湧いた。
「リュシアン殿下でも、その様に戸惑われるのですね。学園でお話している時は、自信を持って意見をおっしゃっているので、いつも力強いイメージですのに、新しい一面を見てしまいましたわ。ふふっ、なんか、叱られた犬みたいで可愛いで……あっ…も、申し訳ございません。今の発言は、不敬ですわね……」
つい思っていたことが口に出てしまったが、リュシアン殿下は気分を害した様子はなくてホッとした。
「いや、気にしないでくれ。そうか。リゼット嬢からは普段の俺はそんな風に見えているのだな」
「えぇ。いつもリュシアン殿下が考案される施策は素晴らしいと思っていますの。説得力があり、国民が安心して生活が出来るのが納得できますわ。フォルデノワ国の民は幸せですね」
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。でも、俺は貴女と話をして新しい発見をする事も多いんだ。そこから、より良い施策を思いつく事もある。だから、貴女には感謝をしている。……リゼット嬢と話をするのは楽しくて、もっと色々と話が出来ればと思うが、いつ頃学園に戻る予定だろうか?」
「そうですわね……最低でも2週間は休むようにと両親からは言われておりますの」
「そうか。それなら、またお見舞いに来ても良いだろうか……?」
「えぇ、もちろんですわ」
リュシアン殿下との話は、楽しい。学園で議論することも実は私の楽しみの一つであった。こういう考え方もあるのだと知ることができ、リュシアン殿下の真剣に国を思う姿に、私も元気をもらっていた。またお見舞いにきてくれるとの事だったので、少し楽しみが出来た。
まさか、翌日から彼が毎日来るとは……完全に予想外だった。ただ、驚きはしたものの、嫌だとは思わなかった。毎日会って会話をすれば、打ち解けるようにもなり、話題は多岐にわたった。
最初は、たわいもない話から、学園での面白い話や最近話題になっている話、好きなものや街で評判のお店について、そして、政治や文化、国についての話。どれも会話が盛り上がった。
婚約解消から1週間経った頃、リュシアン殿下は、再びダミアン殿下の話題を出した。私の表情や様子を気にしながらも口を開いた。
「ダミアンの新しい婚約者を選定すると聞いた……」
「えぇ、私もその件についてはお父様から聞きました。ドリアーヌ様が次の婚約者になるのかと思いましたが、何人か選定されている様ですわね」
「……貴女は、辛くないのですか?」
「婚約解消については、私から望んだことです。ダミアン殿下に初めてお会いして恋をしてから、この10年ずっと慕っておりました。ダミアン殿下が私の初恋で、運命の人だと思っていたのですが、どうやら違ったようですわ。令嬢達に苦言を呈する私に嫌気がさしたのかもしれませんわね。悲しさや辛い気持ちもありましたが、ダミアン殿下への恋心も含めて、全て婚約解消が決まった日に消え去りましたわ。……初恋は実らないとよく物語でも綴られていますが、本当ですわね」
私は苦笑しながらも答え、彼に視線を合わせた。
リュシアン殿下は辛そうな、痛みに耐えているかのような表情をしていた。
「初恋……実らない、か……」
ボソッと呟いた言葉で、もしかして、私は彼の地雷を踏んでしまったかと焦り、変な事を口走ってしまった。
「えっと、私の初恋は実りませんでしたけれど、物語では初恋の話も、初恋が叶っているお話も多いですわ! だから……あの……ごめんなさい、私、何か余計な事を言ってしまいましたでしょうか?」
「いや、大丈夫だ。ただ、初恋と聞いて、ちょっと昔の事を思い出しただけだから。……俺が初めて恋をしたのは、4歳だった。彼女の事がすごく好きになって、婚約者を決めるって話が出た時に、真っ先に彼女の名前を出したんだ。そしたら、彼女にはすでに婚約者が居た。俺が初恋が実らないと理解したのは、その時だったよ。すごく好きだったのに、彼女と共に生きることも彼女を幸せにすることも出来ないんだと知って、その時は絶望した」
「……えっと、それは……」
何て言えば良いか考えている内にリュシアン殿下は続けた。
「でも、彼女への想いはそう簡単に消えなかった。やはり初恋は特別、だな。彼女との思い出は鮮明に思い出せる。それに、彼女の事を好きになった事を後悔した事はない」
思い出を慈しむ様なリュシアン殿下を見て、素直に羨ましいと思った。だって、今の私は、ダミアン殿下への気持ちはなくなり、彼を好きになって良かったとも思える様な状況でもない。
「素敵な思い出なんですね」
「あぁ」
そこからリュシアン殿下は、私の質問に答えながら、彼の初恋について話してくれた。
図らずも、リュシアン殿下から恋愛についての話を聞いた事で、私が恋愛相手に求めることについて、少しだけ明確になった部分がある。
一緒に楽しい時間を過ごし、幸せな思い出を作る事はもちろん、今日リュシアン殿下と初恋について話した様に、何年経っても楽しかった思い出を一緒に懐かしみながら、幸せだったねって語り合える様な相手と結婚したいと思った。