出来損ない
ユトをおぶって部屋の外に出ると火の手が上がっていた。メラメラと瞬く間に広がる赤い熱の海は、私の計画の内。折角使用人達が綺麗にしてきた建物だが、仕方ない。
「きゃー!」と悲鳴が遠くの方から聞こえる。お嬢様旦那様も含め、皆ユトを見送るために玄関に集まっていた。出火元は厨房と物置の二箇所だから容易に外に避難できるはずだ。消火活動なんて無駄なことはせず、早く逃げてくれていると良いな。
私は玄関へは向かわない。階段を上ってお嬢様の部屋へ行く。両手が使えないのは不安だが、ユトは軽いので早足に歩くことができる。
しかし、そう簡単に通してもらえるはずもない。
煙が立ち込め火の粉の散る屋敷に相応しくないあの人がこちらに向かって走ってくる。薄いレースを重ねたドレスはどこに引っ掛けたのかほつれ、煤で黒く汚れていた。人形じみた顔を真っ青にし、懸命に走って叫ぶ。
「エミュー! これは、一体、どういうことなの!!」
察しの良いお嬢様は火事の主犯が私であると気付いている様だ。玄関に集まっていなかったのが私とユトだけなのだから当然か。お嬢様一人で私を探しに来るとは思わなかった。私の予想ではメイド長だと思っていたが、彼女は他の召使いをまとめで避難させているのかもしれない。
「急に爆発したのよ!? あぁ、こんなに汚して、壊して、走って、声を荒らげて、失敗して…………あ、あああまたお母様に怒られてしまうじゃないの!!」
お嬢様はいつもの優雅な姿からは想像もつかないほど取り乱している。怒りよりも錯乱し、脅えているようだった。鼓膜を劈く金切り声を上げて頭を抱えた。それを見て、彼女の心の闇の深さを知る。
「打たれるのよ? 棘の沢山ついた鞭よ、皮が千切れて肉が剥き出しになるの。何回も打つのよ、とっても痛いのよ! 言うこと聞けないと、本当に怒られるんだから!! お前は私のことが嫌いなのね、だからこんなことしたのね、私が上手く召使い達をコントロールできていないと知ったら打たれる、打たれる!!」
お母様に、とガタガタ震えるお嬢様。
彼女は今亡き先代の夫人……義母から、虐待を受けていた。
本当の母君はお嬢様を産んだことで体力を使い果たし死んでしまった。後妻は、二人の子供をさぞや鬱陶しく思ったことだろう。
お嬢様が嫁に行かないのも、身体中に残る傷を見せられないため。そして未だ癒えぬ心の傷に触れられるたびにこのように発狂してしまうため。夫人は先代の死後に、旦那様によって殺された。事故に見せかけ、旦那様は親の呪縛から逃れようとしたのである。けれど夫人の亡霊は二人の子供の中に今も生きている。
食事で一切私語をしてはいけないのも、人形の様に完璧な所作も全て、罰を恐れてのこと。
旦那様とお嬢様が共依存するのは、彼らが地獄の日々の中で唯一味方と言い切ることができた人間だからだ。
人身売買も、元々は先代と夫人が行っていたことだった。といっても、彼らは正式な奴隷を扱っていたから違法ではなかったが。それを、亡霊に罰せられることを脅えるまともな精神状態ではない人間たちが受け継いだのだ。もうとっくに、そこに正気なんて言葉はなかった。
それがこの屋敷の違法な人身売買の真実だ。虐待で価値観の歪んでしまった兄妹が、親の真似事をして親に褒めてもらおうとしていた。とんだママゴトだ。
「エミュー早く水を運びなさい、火を消すの。それからユトは渡して。今ならまだ許してあげるわ、まだ私も貴方も蹴られるだけで済むかもしれない。湯浴みしても染みないわよ、ただ尿に血が混じるようになるだけ」
「お嬢様、一体誰が貴方を蹴るのです?」
「お母様よ! 他に誰がいるというの! 早くユトを頂戴、傷が付いたらまた怒られるじゃない! お願い、早く!」
「傷がついたら怒られるのは、ユトが商品だからですか?」
「もう値がついているのよ、お客様がガッカリしたら、お母様が!」
「いつも冷静で隙がなくて、情報一つ漏らさなかった貴方が……そんなことの判別もできなくなるほどパニックに陥るなんて」
ドオォンとまた一つ小規模な爆発が、先程まで私たちのいた使用人室で起きた。爆風でドアが吹き飛び、お嬢様の悲鳴が上がる。
「罪を認める言葉を頂けて幸いです。消火など止めて今すぐ避難した方が良いですよ。ただの火事ならここまで早く火はまわらないと思いませんか? 爆発させるために火薬を持ってきているんです」
「火薬……!? どうして、どうしてそんな…………貴方は…………何?」
私は片手をユトから離して、由緒正しい帝国式の辞儀をして見せた。ネタバラシは最大の敬意を満面の笑みに込めて。
「お初にお目にかかります、お嬢様。私、偽名エミューは帝国軍暗部組織密偵隊の一人……エリュシュカ・フォンセルビートでありました。過去のお辛い境遇、同情は致しますが容赦はありません」
熱風に煽られる、お嬢様は絶句した。鬼を見るような目で後ずさる。ふらふらと足が覚束無い。遂にがくりと膝から崩れ落ちる。熱に頭をやられたのか、顔を両手で覆ってくっくっと乾いた笑いを漏らす。心に強い衝撃を受けて、いくらかパニックも収まってきたようだ。とんだ荒治療になってしまった。
「何よそれ……私とお兄様を捕まえに来たってこと? 馬鹿ね、こんなに燃やしては証拠も残らないわよ…………」
お嬢様が破顔する。それは正しく悪魔の姿だったが、人の道を外れても尚彼女は美しい。指の隙間から覗くその目は、人殺し特有の鋭い光を宿している。私は少し、隊長の言ったことがわかる気がした。
────なるほど、これは確かに死んだヒヨコだ。
一人勝手に納得していると、お嬢様は壁に手をついてゆっくり立ち上がった。
「グラムラウト! いるでしょう、グラムラウト!」
陽炎のように、その騎士は現れる。足音はない。騎士と言うより、暗殺者だった。まともにやり合って勝てる相手ではないし、ユトをおぶり両手の自由も効かないのでは尚更無理だ。しかし何の問題もない。
「グラムラウト、エミューを殺して。お母様がいつも言っていたわ、悪い子には罰が必要だって」
そもそもの話、私がお嬢様達の闇を知れたのはつい二日前だ。先代時代から勤めている使用人はメイド長しかいなかったのだから、当然とも言える。
騎士の目はもはや死んだヒヨコの目ではなかった。
「火事を起こしただけでは足りず、私とお兄様を貶めようとするなんて過去最高に悪い子よ。いつも通りに殺して! ……………………グラムラウト?」
「…………いえ」
お嬢様の背後に立ったグラムラウトは短く否定の言葉を呟くと彼女を取り押さえ顔にハンカチを押し付けた。それは間違いなく、私がユトに使ったのと同じ、秘密研究室の特注麻酔薬だ。事前に渡したものである。
お嬢様は必死に暴れ、嗅がないように努力したようだが……無意味。かっくりと、糸が切れたあやつり人形のように意識を失ってしまった。
私は「ありがとう」と小さくお礼を言う。
「いえ……」
「貴方はそればっかりね」
初めて会った時から口を開けば否定ばかり。彼はバツが悪そうに下を向いた。彼の心中でも今、きっと色んな感情が渦巻いている。主君を裏切ったのだから当然だ。
「ここに来るまでに、旦那様と鉢合わせしました。お嬢様を、探していた様子です。貴方とお嬢様が話す時間が必要だと思い、少々邪魔をしました」
「ありがとう、助かった。それじゃあ地下に向かいましょう」
「いえ、俺は先に、お嬢様を旦那様の元へ届けてきます。万一発見が遅れれば、兄妹揃って、焼死してしまいますから」
「了解。貴方も遅くならないように。隠し通路が崩れる前にね」
「はい」
私は三日前、ユトの話を聞いてすぐにグラムラウトを探した。