名もなき暗躍者達へ
水に沈んだ体がゆったり浮き上がるように、気だるい微睡みから目を覚ます。見えたのは粗末な家の天井。起き上がろうとすると腹部から全身に焼けるような熱い痛みが走った。
「あっ! グラムラウトさん起きたんですね!? ダメですよ、まだ寝ててください」
俺の名を呼ぶのは誰か。顔だけ動かしてみればユト・マーニュが濡れた布を持って立っている。……元気そうだ。一目見ただけでそう判断できるくらいには、彼女は分かりやすい。
「びっくりしたんですよ! 起きたらなんか家の前にいるし、グラムラウトさんは怪我してるみたいだし! 弟達がギャン泣きでもう何が何だかサッパリで!」
驚いた顔、慌てた顔、悲しそうな顔に困り顔。コロコロ一息の中で何度も表情を変える。
どのように彼女の家まで来たのか。地下通路で倒れてからの記憶が朧気だ。屋敷は……エミューはどうなった。旦那様に刺された傷に手を当てると実に適切な処置がなされていることに気が付く。
「あ、それ。うちに来る前には既に処置済みだったみたいなんですけど、本当に何があったんですか? 私昨日屋敷に戻ろうとしたら『大火事があったらしい』って周囲の人に止められちゃって……」
「…………」
言えるわけが無い。この人は自分が売られる直前だったことすら知らないのだ。何も知らなくていい。ただ勤めていた屋敷が火事になり、家に逃げ帰ってきた……それだけのことだ。
俺が黙りこくっていると、彼女は申し訳なさそうにした。「まだ傷痛みますし話せませんよね」と冷たい濡れ布を額に置いてくれる。……俺は熱があるのか。
誰かの所有物となってから、一度だってこんな看病を受けたことはなかった。体調が悪くなれば、廃棄されて溜まるかと必死に隠し丸く膝を抱えて体を温めたもの。
俺の一族は深い森の中でひっそりと暮らしていたが、帝国への服従を拒んだばかりに滅ぼされた。その時死んだと思ったのだが一部の兵士達が上層部の目を盗んで子供を数人攫い、別の民族と偽って奴隷市に流したのだった。
不思議な気分だった。ユト・マーニュは以前から秘密の茶会で俺の分までカップを用意したりするお人好しなのだ。
その時、ばんっと部屋のドアが開かれる。
「あっコラ! まだこの人は具合が良くないんだから入ってきちゃダメって言ったでしょ!」
「いーじゃんねーちゃんのケチー!」
ガリガリに痩せた二人の子供が駆け寄ってくる。頬がこけているが、すぐに姉弟だと分かった。
ユト・マーニュが屋敷で働いていた間の給料は家に入っていると彼女には伝えられていたはずだが、実際は一銭も入れられていない。お嬢様が拾ってくるくらいだから、きっとこの家に両親はいないのだろう。働き手を失って、この年端もいかない子供たちはどうやって生を繋いでいたのだろう。
彼らを見た途端に、罪悪感が津波のように押し寄せる。
「あんねー! フード被った人がねー! ねーちゃんとにーちゃん運んできたんだよ!」
「俺馬初めて見た! ねーちゃんとにーちゃん乗っけた荷台引いてたの! すげー雑だった!」
「荷馬車……? それで私頭にたんこぶあったのかなぁ。身体中擦り傷だらけだったし。誰だろ」
「青い目のひとー!」
青い目。切れていた回路が繋がれたように、ふっと情景が湧いてくる。
霧の中を見ているように視界は不明瞭だった。こめかみに何かが当たっている感覚で辛うじて意識を取り戻し、何となく死を悟っていた。そんな中、青い二つの月と屈託のないエミューの笑顔が見え………………何かが弾け飛ぶような破裂音と共に記憶は途切れる。
あの場には誰がいた。エミューはどうして。
「…………………………!!」
どうして? なんて、俺は知っているじゃないか。
あの子は昔から何も変わっていなかったのだ。俺を奴隷から解放するために奴隷商の両親に刃を突き立てたあの頃から。
──前にいたのはフォンセルビートという奴隷商の家だった。そこの屋敷の娘であったエリュシュカはよく人目を盗み子供奴隷に会いに来た。「居場所がないの」。時には子供がすべきではない悲しい顔をし、時には年相応に笑う。微かな記憶の中のエミューの屈託のない笑顔は、かつて見たエリュシュカにそっくりだった。
俺を守るために両親を手にかけてしまった彼女は泣き叫びながらどこかへ走り去ってしまった。盗み聞きした話では両親をもエリュシュカも強盗に殺されてしまったということになっていたが、俺は現場を目撃している。
エリュシュカは本当に死んでしまったのだろうか?
程なくしてあの屋敷に売られ、地獄のような日々を送ることになる。鞭打たれるお嬢様の悲鳴は泣き叫び逃げたエリュシュカを想起させた。…………どんな親であっても子供に罪はない。エリュシュカに守ってもらったのに、何も返せなかった。ならお嬢様達を守ることがエリュシュカへの恩返しへ繋がるのではないかと思ってこれまで生きてきたのに。
「グ、グラムラウトさん? どうしたんですか!? やっぱり痛みますか、痛むんですね!? どどどどうしよう」
涙がとめどなく溢れる。
初めて会った時、似ていると思った。倉庫で話した時、もしかしてと思った。地下通路で確信を持った。それなのにまた守られた。
「えーとえーと、あっクッキー! よく分からないけどポケットに入っていたクッキーがあります! 甘い物食べたら元気になりますよ、うちはお屋敷みたいに材料がないから作れないけれど…………んん?」
ユト・マーニュは小さな袋を開けると首を傾げた。弟達が見せろ見せろと群がって覗き「粉々じゃん!」と文句を垂れる。しかし彼女は神妙な顔で袋の中を漁り、綺麗に形の残っているものを一枚摘んで取り出した。いや、綺麗すぎるというよりそれはもはやクッキーではなかった。汚れているが間違いなく……
「ヒエッ! き、きき金貨!?」
ユト・マーニュは尻もちをついてワナワナ震えた。エミューの仕業だ。これでしばらくは生活ができる。今のユト・マーニュは仕立ての良い服を着ているし仕事もできるからまともなところに就職する事もできるだろう。自分が彼女の側にいられないことを見越したような用意周到さに唇を噛む。
本当は一緒にいたかっただろうに、俺を生かした理由は…………彼女を守るためか。この先、ユト・マーニュは彼女を買い取った人間に襲われたり、はたまた全くの別件に巻き込まれる可能性もある。彼女が笑顔でい続けるためには誰かが守らなくてはならないから。
「クッキー、いただけますか」
「……えっ!? あ、はい!」
それならエミューの……エリュシュカの代わりに守り続けよう、今度こそ。例え俺が死んだとしても、決してユトに秘密を悟られることなく幸福に生きていけるように。
「あ、あの」
「……?」
「いつかまた秘密のお茶会をしませんか。火事があったんじゃ当分は無理かもしれないけど……エミューやお嬢様と一緒に! 上手く作りますから今度こそ食べてくれませんか!」
俺も貴方もエリュシュカもお嬢様も、みんなが皆別の世界で生きている。越えられない透明な壁に阻まれ、互いに触れようと覗き孔を探してきた。茶会は、そんな苦しさを一時だけ忘れ同じ席に座れる不思議な空間だった。
「そうですね。とても楽しみにしています」
自分を悪魔だと思った。春の花畑のように暖かなこの人に、一生嘘を塗り重ねていくのだ。それでも全員が心の底から笑ってテーブルを囲む日が本当にくれば良いのにと、あるはずのない未来を願った気持ちに偽りはない。
クッキーの欠片は焼き過ぎでほろほろしていた。甘い優しさを噛みしめるたびに叫びたいほど悲しくなって、どうしても涙が止まらない。
遠い空では自由に鳥が飛んでいた。