かつてと未来
改めて帝国かユトか選べと突きつけられて、その時はまだ戸惑ってしまった。けれど就寝前にベッドの上でころころ笑う彼女を見て、絶対に死なせてはならないと思ったのだ。
私は深夜の物置部屋でグラムラウトの手を取った。そして驚くべきこの屋敷の闇の全貌が明らかになったのである。
「俺は先代の時代に買われた正式な奴隷でした。先代夫人は鞭打ちがお好きで、粗相をするとすぐに叩かれたものです。けれど、夫人は奴隷だけでなく義理の子供である旦那様とお嬢様にも強く当たりました。惨い虐待を、ずっと見てきました」
グラムラウトは淡々と語った。髪を掴みあげられ叩かれるお嬢様の悲鳴が耳から離れないこと、夫人を殺した時の旦那様が血濡れで吐きながら嗚咽を漏らしていたこと。それは聞くだけでも気分が悪くなるようなものだった。
「先代の取引相手だった一人の男がある日、屋敷に来て召使いを一人売って欲しいと旦那様に頼みました。男はそれが違法と知っていたでしょうが、旦那様の留守の間にお嬢様が契約をしてしまった。親と同じように仕事が出来たと褒めて欲しがるお嬢様を見て、帰ってきた旦那様は何も言えなかった。そこからです、二人が違法な人身売買を始めたのは」
それからは早かった。元々残っていた正式な奴隷も召使いも区別なしに売られ、補填されを繰り返す日々。誰も止める人がいなかった。
「汚れ仕事だから、と地下へ連れていかれ、死体を解体するように言われました。お嬢様の想像以上に上手く出来た為に今の立場を頂きました。メイド長が世話役なら俺は掃除役です」
「…………」
それがグラムラウトの絶望か。壮絶な人生だった。血を流す側から血を浴びる側に回って、一体何人殺したろう。その度何度後悔し、懺悔し、死にたいと思ったことだろう。
ずっと、息を潜めて生きてきたのだ。影の中にひっそりと、見つからないように。
「自分たちがしていることが悪なのも、悪が裁かれなくてはならないのも分かっています。ですが……あまりにも、あまりにも…………旦那様とお嬢様に、救いが無さすぎる世界ではありませんか……」
それなのにこの男は自分よりも他者の痛みを優先する。
性善説性悪説なぞは知らないが、彼らが狂わされたのは確かに子供だけではどうにもできない大人の力だった。私はそれでも二人を許したいとは思わないが、同じ苦痛を受けてきたグラムラウトには他人事ではないのだろう。グラムラウトだってしたくもない殺しと解体をさせられて、恨む理由なんて数え切れないほどあるはずなのに同情が勝っているのだ。
どこまでも甘くて優しい。けれど彼はそれで良い気がした。ユトのブリオッシュとそっくりじゃないか。
・
燃える屋敷の中、じっとりと汗をかく。
お嬢様の部屋の本棚をズラすと梯子が現れる。壁と壁の間に隠されたこの狭い梯子は一階を途中に挟んでいる為かなり長い。ユトを背負って降りれば途中身動きが取れなくなってしまう可能性もあるし、落ちれば二人ともタダでは済まない。
それでも降りる。ユトを支える手も震え、梯子を掴む手も汗で滑る。足元を確認することすらままならない。
……あと少し、……あと少し。
─────右足を踏み外した。
体が重力に従って傾き、しまったと思った時には手も離れ。必死に止まろうと立てた指から爪が割れた。
わたしは足から落ち、背中で衝撃を受ける。ユトは投げ出されてしまい、呻き声を上げた。慌てて這い寄り彼女の体を触るが、良かった、怪我はない。これくらいの衝撃で起きることは無いがもしユトが怪我でもしたら……。
再びユトを背負い立つと、足首を捻挫していることに気がついたが骨折でないだけマシだろう。まだ走れる。
地下室へ来たのは二回目だ。何度見ても慣れることの無い陰鬱な空間は古い血の匂いが染み付いている。備え付けのカンテラに火をつけ進む。取り引きをした夜グラムラウトに案内をしてもらったので、道は覚えている。あの時はまた別の入口から入ったのだが、ここはまるでアリの巣のようだ。
牢屋をどうにかすることはできないが、売買記録や顧客リストは燃やす。それがグラムラウトの取り引きの条件であるから彼が来るまでにやっておかねばならない。あんなに苦労して手に入れたかったものが手の中で灰に変わっていく様に複雑な気持ちになる。
ぱらぱらと天井から砂埃が落ちる。
じきに大きな爆発があり、屋敷の床は崩れ地下は潰れる。その前に三人で屋敷の外へ通じる出口へ行き、この混乱に乗じて姿をくらませる作戦だ。
だから一刻も早く行かねばならないのに、グラムラウトが遅い。
お嬢様を届けてくると言っていたが……トラブルがあったのか。私は躊躇ったがユトを下ろし引き返す。また屋敷の中にいるようなら、間に合わないかもしれない。
梯子近くまで戻ってようやく人影があった。良かった、地下には降りてきているようだ。しかしどうにも歩みが遅い。
私はすぐに駆け寄った。
「グラムラウト! 早くしないとそろそろ爆発が──」
カンテラで照らした彼の体は血で濡れていた。
赤々とした体液がトクトクと脇腹から湧いて服を重くしているのだ。痛々しい傷は、短剣のようなもので刺されたのだろうか。手で抑えていてもあまり意味が無い。その顔は蒼白だった。
「な……」
「旦那様が……事態を察して、お嬢様と、心中しようと……なさったので。後から、行きますから……先、に……」
「何を馬鹿な! それじゃあ間に合わない!」
「貴方たち、だけでも……早く」
「…………ああ、もう!」
やはり優しくて甘いのはダメだ。私はグラムラウトに無理やり肩を貸して半ば引きずるように連れていく。これからのユトにはグラムラウトが必要なのだ。何の事情も知らないユトはこれからも危険に晒されるかもしれない。
「……あなたは…………やっぱり……」
「何ですか!? 止血してる時間が無いので気合いで耐えて!」
グラムラウトは朦朧と意味の伝わらない断片的な言葉だけ残して意識を失ってしまった。ガクンと力の抜けた体がのしかかる。
ユトのところまで戻って、両側からユトとグラムラウトに肩を貸して立ち上がろうとすると捻挫がズキンとひどく傷んだ。
重い、バランスを崩して前に進めない。私には二人も担いで歩けるほどの力がない。
──どちらかを捨てて行かなくてはならないのか?
「……あああああ!!」
嫌だ!! 散々諦めて生きてきたのだ、今くらい、両方を選んだって良いじゃないか! 二兎を追う者は一兎をも得ずって、たまには二兎捕まえられたって良いじゃないか!
何かを捨てなくては前に進めないこともある。二兎を追う者はきっと愚かだ。けれど、いつも最初から一兎しか見ない賢い人間ではいたくない!
自分にない力を理由にして諦めるな、自分の最大で、命を燃やし尽くすような本当の全力を出すのだ。
立ち上がって進む。ユト、引きずっちゃうの許してね。
「ぐう、う、うう゛う゛……!!」
一歩、一歩、ペースを上げろ。指から血が滲んでも、骨が軋んで悲鳴をあげても、熱を帯び腫れ上がった足の感覚が無くなろうとも。
心臓がはち切れそうで、地下の淀んだ空気が肺を刺す。光が見えるまでの記憶は曖昧だ。…………この感覚、身に覚えがある気がした。
そう、かつてもこんな風に走ったことがあったはずだ。思い出せないほど昔、密偵隊に入る前のこと。
私も意識がトび始めたのだろうか? これは本当に記憶なのか、どうして走っていたんだっけ。どこへ向かっていたんだっけ。少しだけ記憶の霧が晴れる。
あの時は一人だった。体が返り血で臭くて、泣きながら暗いところを走っていた。眩しくて怖いくせに光に手を伸ばした。ああ、出口が見えてきた。逃げ切った。
「────エリュシュカ・フォンセルビート」
私の名前を呼ぶのは誰だろう。逆光の中に二つの青い満月が浮かぶ。
「…………ぁ?」
声も髪の色も背も何もかもが違うが、瞳の色だけは変わらない。記憶の中といつも変わらない、今も変わらない。ただそれ唯一が。
「お前は何一つ変わらないな」
青い瞳の猟犬が、昔と同じようにそこに立っていた。