はじめまして。こんにちは。
『はじめまして。こんにちは。
わたしのなまえは、ミントです。
あなたのおなまえをおしえてください。』
そんな始まり。
言い方の差違はあれど、人の始まりは大体こんなものだと思われる、極々一般的な始まりだ。けれど私達の出会いが人とは少し違ったのは、それが手紙だったことだ。
私の父は軍人だった。母は早くに亡くなってしまった。若くしてサンワール国軍大佐として戦場を駆け回る父は当然ながら忙しく、家に帰ってくる暇はなかった。私は、乳母が丁寧に優しく易しく教えてくれた状況を、子どもなりになんとか飲みこんでいた。しかし、一人娘を乳母に任せっきりだった父は、彼なりにその状況を済まなく思っていたのだろう。
四才になったある日、父から手紙が来た。部隊に少し特殊な環境で育った子どもがいる。周りは大人ばかりだから、話し相手がいない。同じ年のお前が手紙で話し相手になってみないかというものだった。
字をなんとか間違えずに書けるようになってまだ日が浅かった私は、一も二もなく飛びついた。
まあ、間違えずに書けていると思っているのは自分だけである。子どもの自信なんてそんなものだ。若き過ちとして笑って見逃してほしい。
さておき、いつも通りお手伝いのサシャに手伝ってもらいながら、父への返事を書いた。
いつもは「おとうさん、おげんきですか」とか「こんどはいつかえってきますか」とか「おとうさん、けがしていませんか」とか、いっぱい書いたのに、そのときばかりは「やる!」の一言であった。
父からの返信はすぐだった。すぐといっても、戦場から家までの距離は当然あった。滞りなく届けば三週間。多少の前後はあったが、だいたいそんなものだった。「ちちへのことばはどこへいってしまったのですか……?」から始まった父の返信に従い、手紙だからと緊張したりしゃちほこばったりせず、初めて会う人にご挨拶から始めた。
それが、初めての手紙だ。父は、特殊な環境で育った子どもと言っていた。どんな子だろう、仲良く出来るだろうか。ちょっぴりの不安を、大きなどきどきわくわくで彩って返事を待った。
返事はすぐに来た。三週間ぴったりで届いたということは、向こうも私の手紙が届いてすぐに返事を書いてくれたのだ。一緒に入っていた父からの手紙をほっぽりだし、喜び勇んで手紙を開けた私は、幼いながらに、父が言っていた意味をしみじみ理解した。
『アンです。
はながありました。』
なんのこっちゃ。
何はともあれ、名前は分かったし、文通が滞りなく……滞りあるが何とか開始されたのは理解したので、私は毎日わくわくした。
アンは、不思議な女の子だった。父曰く、あまり人とお喋りしたことがない子なのだそうだ。お話のやり方が上手でなくても怒ってはいけないよ。ミントが教えてあげればいいんだよと聞いている。だから、私は一所懸命考えてお手紙を書いた。手紙のやりとりを行うに当たり、一応軍属への手紙だから全て検閲されるという旨を聞いてはいたが、そこは大して気にならない。何せ子どもだったのだ。
戦場にいるお友達と文通していることも誰にも言ってはいけないよと言われている。幼いながらに、軍に所属している人物にありがちな「おとなのじじょう」なるものを朧気に理解していた私は、その約束をちゃんと守った。
だからその子は、私の秘密のお友達だ。
『かわいいおなまえですね。
どんなおはなでしたか?』
『じぶんにはなまえがないので、じょうかんがつけてくれました。
もうかれました。』
そりゃそうだろうなと思う。それにしても、名前がなかったとはどういうことだろう。幼心に、突っ込んでいいのか大変悩んだ。
『おはな、かれてざんねんですね。
おしばな、というほうほうで、ながもちさせられるそうです。
いぜん、おてつだいさんがいっていました。
おとうさんがそのへんにいるとおもうので、やりかたをきいてみてください。』
手紙の返事は五週間後だった。
『おしばなをつくったほんをおいていたばしょが、てきしゅうでやけたのでなくなりました。』
こころおれそう。
いま思えば、よく検閲に引っかからなかったなと思うが、その前に私の心もよく折れなかったなと褒め称えたい。
流石、「抜いても抜いても生えてくる上に、他の陣地まで侵略して埋め尽くす凄まじい生命力を持った子になれ」という意味を込めてミントと名づけられただけある。……気をつけないと厄災になりそうだから、私は控えめに地味に生きていきたい所存だ。
『アンは、なに色がすきですか?』
『どれも』
『どれもすきですか?
どれもすきではないですか?』
『どれもどうでもいいです。』
『そうだろうなとおもいました。
わたし、だいぶアンのことを分かってきたきがします。』
『ミントは何色が好きですかと聞けと言われました。』
『アンはとてもすなおですね。
わたしは、青がすきです。ふかい青も、とうめいな水色も、大すきです』
『そうですか。』
『きょうみなしですね。
すなおなのは、わかりやすくてとてもいいとおもいます。』
『アンは何色のかみをしていますか? 私はこい赤むらさきです。目は、うすいもも色です』
『白です。目は青です。』
『そういうことは、はやく言いましょう。』
『なぜですか。』
『私が、青がすきと言ったときに、ぜひおしえてください。』
『なぜですか。』
『私がよろこびます。』
『なぜですか。』
『私が、アンをすきだからです。』
『なぜですか。』
『なぜですかですね。』
『なぜですか。』
『いつからお手がみちゃんとよんでないか、正直にはくじょうしてください。』
『すみませんでした。』
『正直にあやまったので、今回ばかりはふもんにしょします。』
『今日はとてもさむかったです。
びひんの毛布はひとりいちまいしかないので、なかなかあたたまれませんでした。』
『それは、とてもかなしいです。
アンたちがたくさんあたたかくなれるといいなとおもいます。
私は、あたたかいおへやにいたのに、かぜひきました。
アンたちは、かぜをひかないようにいのっています。』
『上官がきたくようせいを秒たんいで出しつづけていました。』
『もうなおったので、こっちこないで、しっしっとお伝えください。』
『おたん生日おめでとうございます。
何かおくれと言われたのですが、何がいいか分かりませんでした。
面白い虫がいたのでおくります。
少ないより多いほうがいいと言われたことがあるので、足が多いほうをおくります。』
『たん生日プレゼント、ありがとうございます。
ムカデがおくられてきたのはそういうわけだったのですね。
お手紙をよむまではいろいろ考えましたが、アンが考えておくってくれたのでうれしいです。
ただ、もし次があれば、生き物以外がうれしいです。』
『生きていましたか?
ころしきったつもりでした。
次は気をつけます。』
『そうじゃありません。』
『学校で、しけんをしました。
魔じゅつしの才能が、少しあったようです。』
『うれしいですか?』
『はい。できることがふえるのは、うれしいです。』
『よかったですね。
ミントがうれしいと、自分もうれしいです。』
『ありがとうございます。
私も、アンがうれしいとうれしいです。
どうか、けがも病気もせず、ずっと元気でいてください。』
『今日は、学校で少しいやなことがありました。
でも、家に帰ったらサシャがアップルパイを焼いてくれていたので、全然気にならなくなりました。
サシャのアップルパイは昔から絶品で、いつかアンにも食べてもらいたいです。』
『学校で何があったのですか。
ミントがいつもおいしいと言っているので、いつか食べてみたいです。』
『参観日に、両親が来ないことをからかわれました。
でも、仕方がないことだと分かっているし、お父さんに言ったらお父さんが悲しむから、内しょにしてください。』
『上官が、剣を片手に本部を出ていきました。
手遅れです。』
『あれから大変でした。
お父さんの前で手紙を読むのはやめてください。』
『今日は、特に何もなかったので部隊内で腕相撲大会がありました。
上官が、皆の腕をへし折りました。
医術師長が上官の腕をへし折りました。
医術師達が、仕事が増えたと嘆いていました。
騒がしかったです。』
『部隊の皆様には、父がご迷惑をおかけしておりますと、くれぐれもよろしくお伝えください。』
『今日、同じクラスの男の子から交際を申し込まれました。
驚きました。
黙っていたら美人だと言っていたのに、断ったらブスが調子に乗るなと言われました。
価値の急落が激しくて、忙しい人だなと思いました。
アンは、交際を申し込まれたことはありますか?
上手な断り方があれば教えてください。』
『殺せばいいと思います。』
『交際を断られた際の危険度高すぎませんか。』
『殺せばいいと思います。』
『上手な断り方はないということでしょうか。
世の人達は、こんな大変な過程を経て交際しているかと思うと、身が引き締まる思いです。
男の子が、私の悪口を言いふらしているようで、少し困りました。』
『殺せばいいと思います。
上官に伝えてもいいですか。』
『子どもの揉め事に親が出てくるのは最終手段ですし、こんなことで出てこられては困ります。
絶対にやめてください。』
『殺せばいいと思います。』
『この手紙をやりとりしている間に、件の男の子は隣のクラスの女の子と交際を始めたらしく、悪口を言いふらすのを止めたようなので解決です。
試験の前に平和的解決をみて、ほっとしました。
やっぱり平穏が一番ですね。
相談に乗ってくれてありがとうございます。』
『殺せばいいと思います。
ミントが平穏だと嬉しいです。
殺せばいいと思います。』
『平穏を物騒でサンドイッチするのはやめましょう。
全く平穏な気がしません。』
『殺せばいいと思います。
ミントは怒っていいと思います。』
『友達の男の子がその子に怒ってくれたので、もう気にしていません。』
『殺せばいいと思います。
殺せばいいと思います。
殺せばいいと思います。』
『物騒サンドイッチはもっとやめましょう。』
『巷で流行っているという小説を読まされました。
愛と檻の狭間でという本でした。
登場人物の男が「これからは俺の許可した相手としか喋るな」と言い、登場人物の女がうっとりしたという描写がありましたが、他者の権利を侵害するなら憲兵へ通報すべきではないのでしょうか。』
『時と場合と状況と気分と相手によるとは思いますが、現実で言われたらぶん殴ると思います。
そして、その題名は、成人婦女子を対象にした本だったと記憶しています。
貴方にその本を読ませたのは誰ですか。』
『上官です。』
『お父さんに、ミントからお話があるとお伝えください。
追って手紙を送ります。』
『上官が落ち込んで仕事にならないから何とかしてくれと頼まれました。』
『部隊の皆様には、毎度父が大変なご迷惑をおかけして申し訳ありませんとお伝えください。』
『お返事が遅くなって申し訳ありません。
死にかけていましたが、生きています。』
『お父さんから聞きました。
アンが無事で、本当によかったです。
返事も、どうか気にしないでください。
私は勝手気ままに送りますので、療養中の暇潰しにしてください。
欲しい物があれば送ります。
何でも言ってください。』
『ミントからの手紙が欲しいです。』
『任せてください。』
『小説より厚い手紙を、どうもありがとうございます。
ミントが毎日、無駄に元気な様子が手に取るように分かります。』
『もうちょっと言葉のナイフを鈍らせて褒めてください。』
『ミントは無駄に元気ですね。』
『何故研いでしまったのか、元気になってから問い詰める所存です。』
『今日読んだ本で、仲のよい友達は揃いの物を持つ、または揃いの格好をすると書かれてありました。』
『そうですね。そういう子もいますね。
せっかくだから、私達も何かしませんか?』
『はい。』
『物だと、戦場で万が一気を逸らす原因になってもいけませんし、髪型はいかがでしょうか。
たとえば、髪のどこか一部を三つ編みにするなどです。』
『しました。
部隊内では髭を三つ編みにする習慣が流行りました。』
『大惨事ですね。』
『上官もしていました。』
『その髭で帰ってきても赤の他人を貫きますとお伝えください。』
『引き千切っていました。』
『軍に入るのですか。』
『お父さんから説得しろと言われましたね。
聞きません。
確かに同級生では結婚する子もいますが、私は進学も結婚も望みません。
就職します。』
『軍はおすすめできません。
貴方には向きません。』
『今年の冬、そちらへ送られた魔術で編んだ毛布。開発したのは私です。
自動で発熱するので、どんなに寒い地域でも一枚で暖を取れるようにしました。
その功績で、魔道具の開発を主とする魔術二課へ誘って頂きました。
魔術師としては一課が花形なのでしょうが、魔術の性質も私の気質も向きません。
私だって、貴方と同じ十五才です。もう子どもではありません。自分の向き不向きも、軍に入るのがどういうことかも分かっています。分かった上で選べるほどには大人になりました。
泣くのも、歯を食いしばるのも、私はやってから後悔したい。
貴方達の無事を祈るだけでは、私はもう耐えられない。
お願いします、アン。結局、これまで一度も会うことが叶わなかった私の親友。
どうか、私の選んだ道を応援してください。
私は、貴方に会いたいのです。
戦争が終わらねば会えないというのなら、終わらせる為の尽力を、私にもさせてください。』
『ミントの馬鹿。
あの毛布のおかげで、今年の冬は温かかった、指先が凍えず、剣も弓も強く握ることができた。急襲にもすぐ身体が動いた。ミントのおかげで、死傷者は少なかった。
だから、ミントの大馬鹿者。
おかげで、これ以上説得できなくなりました。』
『ありがとう、アン。
一緒に戦争を終わらせましょう。
そして、戦争が終わったら、一番に貴方に会いにいきます。』
『こちらから行くので、王都で待っていてください。
道中は危険です。
旅慣れていない貴方には危険な旅路となります。
絶対です。
約束してください。』
『必ずです。』
『分かりましたか。』
『誓ってください。』
『約束です。』
『何通も届いたので何かあったのかと思いました。
そして、全く感動的にならなかったのは何故か、今後の課題にしようと思います。』
魔具の発達によって流通の便がよくなり、三週間だった間隔が三日に短縮されて久しいある日。長きに渡った戦争が終わった。
和解という形で迎えた終わりは、私が軍に入って二年後のことだった。
後ろ髪を緩く三つ編みにし、普段はペンダント状に縮めてある杖を忘れず、首からかければ準備は終わりだ。鏡を睨み、今度は何歩か下がって全身を眺める。問題ない、はず。いつもしている格好だ。三日徹夜した状態でもきちんと着こなせるくらいには慣れている。だけど今日はいつも以上に気を使う。
やっぱり一度サシャに見てもらおうと顔を上げると同時に、来客を告げる鐘が鳴った。
「お嬢様! お帰りになりましたよ!」
最近白髪が増え、節々が痛むと擦ることが多くなったサシャが、弾んだ声を上げた。返事をしながら階段を駆け下りる。玄関に辿り着いたのは、ちょうど外から入ってきた人が扉を閉めているところだった。
「お帰りなさい、お父さん!」
「ミント! 大きくなったなぁ!」
ぱっと笑って振り向いた数年ぶりに会う父は、少し痩せていた。私が軍に入ると決めたときも、結局は帰ってこられなかった。その数年前から帰ることができなくなっていたのだ。
軍服をきちんと着たまま、大きく広げられた両手に飛び込みかけて、はっと気付いて咳払いする。ついっとローブの端をつまみ、くるりと回ってみせた。
「如何でしょうか」
にこりと笑って問えば、父は浮かべていた笑みを鎮め、私に向き合う。
「見違えた。魔術二課所属ミント・アベルジア軍曹。貴殿は戦場における生還者の数を増やした。その功績を讃えて…………抱っこさせてくれー!」
「最後までキめてよもぉー!」
最後はぐしゃりと崩れた、大佐改め中将となった父に抱きかかえられる。私も、今日くらいいいかと、幼い頃に諦めた願望を解放した。
長い戦争は、和解という形で幕を閉じた。大々的に発表された後、開かれた戦端は閉じ、配置されていた兵達が帰還を始めている。父の隊も、その中に含まれていた。
数時間前まで王都を凱旋していた父は、城への挨拶を終え、忙しいだろうにわざわざ帰ってきてくれたのだ。凱旋パレードは、人が多すぎて父の部隊がよく見えなかった。だから、帰ってきてくれて本当に嬉しいし、照れくささもあるがこうして話せて誇らしいとも思う。しかし、十七になった娘をぐるぐるぶん回すのはどうかと思うし、交互に高い高いを混ぜるのはもっとどうかと思う。
どうかと思う。
十分後、私はぐるぐる回る視界と戦いながらサシャに背を擦られていた。その前では父が、まだ感慨深げに、先程まで抱き上げていた私の体重に頷いている。流石、長年戦場にたちつづけた現役軍人。十七になった娘を抱っこしてぶんぶん振り回しても、ぴんぴんしている。
「ところでミント。帰って早々だが、お前に相談があるんだ」
「相談……?」
そりゃ、話し合うべき事は沢山ある。何せ父は、アベルジア家のことはずっとほったらかしだったのだ。そうせざるを得なかったのは分かっている。流石に最前線で戦って留守にする軍人の家を、戦時中にかすめ取る不届き者はおらず、もしいても国が全力を挙げて守っていた。
だから今までこの家は静かなものだった。しかしこれからはそうもいかないだろう。
戦争中は控えめだった、権力争いをする暇が出来たのだ。色々と騒がしくなるだろう。政治は勿論、時代も大きく動く。
そう思って気を引き締めたのに、父はにこやかに笑った。
「結婚の話だ」
「再婚するんですか? まあ……お父さんもずっと独り身ですし、そういうお話もあるんでしょうね。ちょっと寂しいですけど、反対なんてしませんよ」
母が亡くなって十七年。新しい妻を娶っても、誰も反対しないだろう。
「馬鹿言うな。俺は一生セピリア一筋だ。お前の結婚だよ」
はて、父が突然理解不能な言語を話し始めたぞ?
きょとんと首を傾げると、父はへにょりと眉を落とした。
「お前なぁ。普通はもっと早い段階から親が用意を始めるんだ。これでも、ほったらかしになってしまってすまないと思っていたんだぞ」
「はあ。全く問題ないです」
完っ全に忘れていた。そうか、私も結婚する可能性があるのか。毎日魔具と部品と書類と薬品と薬草に塗れながら工具を握って寝落ちしている場合ではなかったらしい。
私だって軍人の娘に生まれ、自身だって軍属だ。指示があれば従うつもりはあったが、そんな気配は皆無、というより私も父もついでに周囲もそれどころではなく、すっかり忘れていた。
しかし一応、軍に入ったばかりの頃はちらほらそういう話もあった。大佐の娘が入ってきたら、取り入りたい人は一定層いるものだ。それでも私が「父がおりませんので」「父を通してください」「私の一存では決められません、父へどうぞ」と、簡単に取り次げない場所へいる父へ押し付けていたので、脈無しと見なされたのである。
おかげで平穏だった。しかし、これからはそうもいくまい。
「あー、なんだ。お前、好いた相手がいたりするか? それか、気になる相手とか」
「はあ。強いていうなら、被検体36番が大変気になります」
「被検体36番」
「数年前から二課で様子を見ている被検体です。本来は無害な植物なんですけど、魔物の死体に寄生した状態で発見されまして。その種子を研究していたら、発芽してからどうもだんだん自我を持ってきたみたいで。最近もっぱら二課職員の興味をかっさらっています」
「うん。それは大変に気になる。だが、今は措いておこう。恋愛として気になる相手はいないんだな?」
「まあそうですね」
人間への興味より、その他への興味が勝った二年間だった。いや、それをいうなら学生時代からそうだった。楽しかったし、今も楽しい。
「だったら、婚約者を用意しても構わないか?」
親が子どもの結婚を世話するのは当たり前のことだし、特に気にはならない。自由恋愛の有無も聞いてくれたし、その相手が私にいないのだから問題ない。軍人の娘として軍属の身として、何より私個人としても結婚に特段夢を持っていないのだ。嫌悪はないが、興味もない。
それ自体は問題ないのだが、結婚したことで今まで通り働けなくなるのは困る。
正直に伝えると、父は心配するなと笑った。
「仕事を辞めろなんて言わないさ。俺だって人の親だ。確かに傍にいられる時間はほとんどなかったが、お前が今を楽しく頑張っていることくらい分かる。お前の道を閉ざさせる選択は持ってこないぞ。……そんなの、軍に入るか否かを決めたあの時以外は、しないさ」
「……ありがとうございます」
あれだけ離れていたのに、抱き上げてもらった記憶なんて数えるほどなのに、この人からの愛情を一切疑わずにいられた。そのくらい、大事に愛してもらったのは分かっている。だから、全てのことに恨みはなかった。
「大丈夫だ。自分の人生を優先してお前の人生を閉ざさせるような奴じゃない。それは約束しよう」
そんな人が持ってきた縁談だ。きっと私に損はないのだろう。人を見る目もあるから、そういう意味で心配はしていない。
「でも、相手の方が困るんじゃないんですか? 上官からの指示で断れなかったとかでは?」
「俺が無理強いするわけないだろ。ちゃんと聞いたぞ。お前さえよければ娘と結婚しないかって。そしたら」
「そしたら?」
「剣磨きながら、こっちをちらりとも見ずに、淡々とした声で、『喜んで』だ!」
「喜んでいらっしゃる様子が皆無ですね」
「お前が問題ないなら、この話進めるな」
「はあ、お相手の方が問題ないなら構いませんが」
見ていないようで意外とよく見ている人なので、相手にも無理強いはしていないと思うのだが、今の話を聞く限り全く大丈夫に思えない。主に、相手の方の心情が。
「悪いとは思うんだが、諸事情で結婚を急ぐ。何せ、結構な実力者で、戦績では上位に食い込む上に、顔がだな。大層いいんだ」
「はあ」
「男臭くない綺麗な顔した、戦場上がりの十七の軍人。城がだな、荒れる予感しかだな」
まあ、そうだろうなと思う。戦時中であれ、戦後であれ、王城とは娯楽が少ないのである。目新しいものがあれば一斉に飛びつくのが世の常だ。それが美しければ美しいほど、苛烈さは増す。
歴史上、美女が国を騒がせた例は多い。けれど同じ程、美しい男が時代を揺さぶった事態も多いのだ。表に出るか出ないかの違いだ。しかし何にせよ、女が荒ぶると世が荒れる。恐ろしいものだ。
「しかし、そんな大層な御仁の妻が私で宜しいんでしょうか」
「本人たっての希望だ」
「奇特な方もいらっしゃるんですね。それか、月もスッポンも同じに見える人とみた」
「あー……まあ、当たらずといえども遠からずだが、この件に関してはちゃんと本人の希望だ。それと、あいつが他の女と結婚したら、それはそれでお前は複雑な気持ちになると思うぞ」
「何故初対面の御仁にそんな思いを抱かねばならないのか」
絶対あり得ない。
それにしても、私との結婚を希望するとは、お相手の目的は何なのだろう。父に声をかけられて、断れなかっただけだと本当に申し訳ない。私と結婚したら、中将の義理の息子になる。恐らく父は、更に出世するだろう。それは軍人に取ったら益になる。私と結婚する価値はその辺りに見出して頂けるといい。女として人としてに価値を探されると、私自ら「止めといたほうがいいよ……?」と心配してしまう事態となるだろう。
「更に、お前には申し訳ないんだが、少しの間しばらく結婚した事実は伏せてほしい。あいつのほうも、結婚した事実のみを公表する。相手は伏せる」
「つまり、妻という名義だけ貸して、将来は離縁の予定ですか?」
「どうしてそんな荒んだ提案を愛娘にせにゃならんのだ! 単にあいつが非常にモテることが予想されるから、様子を見て大丈夫そうなら普通に公表する。お前、軍内外の女性陣と敵対する勇気あるか?」
「必要なら覚悟を決めますが、しばらく仕事が忙しくなりますし、余計な手間は少ない方が助かります」
成程。これは色んな意味で少々気を引き締めてかからないといけないようだ。仲良くやれれば何よりだが、せめて険悪にならないよう、最悪でも疎遠な関係を維持できれば万々歳だろう。
「よし、じゃあこの話はお終いだ。次なんだけどな、いま外にアンがいるんだ」
「どうしてそれを早く言わないのですか! お父さんの大馬鹿者!」
私の結婚の話なぞどぉ――でもいいわ、どうでも!
長年の親友アン。お父さんに話せないことも、ずっと育ててもらったのに近すぎてサシャにすら話せなかったことも、全部話せたアン。一度も会ったことのない、遠く離れた場所にいた、私の友達。
戦争が終われば会いにいくつもりだった。けれどそれを見抜いていたらしく、アンは王都へ帰還する日を先に送ってきた。だから、そわそわしながら、飛び出して行ってしまいそうな自分を根性で堪え、待っていたのだ。
後で、父との話を終えたら、すぐにでも居場所を聞いて飛び出すつもりで。
それなのに、この扉の外にいるだと?
「お、大馬鹿者!?」
「当たり前でしょう! 話を先にするにしても、せめて中で待っていてもらうのが礼儀です! もう! なんてこと! 幾ら部下だからって失礼ですよ! そして私の友達にも失礼です! 初対面がこれだなんて、アンに嫌われたら恨みますよ! まあ、アンはこんなことで怒るほど小さな人間じゃありませんけどね! ただし私は小さな人間なので激怒します! お父さん、反省してください!」
「お、お前、早口凄いな」
「仕事が忙しくて鍛えられました。それより、もぉー!」
扉を背にするお父さんをポイ捨てし、扉を勢いよく開ける。
「ごめんなさいアン! お待たせしてしまって! 対面しては、はじめましてこんにちは! 私の名前はミントで…………?」
壊す勢いで叩き開けた動きに合わせ、背中の三つ編みが跳ね上がり、ゆっくりと背に戻ってくる。その重さで、いい加減髪を切らなければと、今は全く関係ないことを思ったのは一種の現実逃避だったのだろう。
黒い軍服を祭典用に着飾った人が、玄関から数メートル離れた場所で庭を眺めていた。一部だけ長い髪を細く三つ編みにした、白い髪。音に合わせてこちらを振り向いた青色の瞳。いや、違う。左目は青色だが、右目は赤紫色だ。
「むら、さき?」
「ああ、俺の瞳は左右の色が違う」
さらりと答えられたが、聞いていない。全部、何もかも、聞いていない。
「…………アン?」
「アンペロプシス、通称アンだ」
「アンペ……野ブドウ?」
「上官が俺を拾ったとき、そこに生えていた物の名をつけた」
「お父さんっ!」
振り向けば、サシャを盾にこそこそ奥へ逃げていくところだった。追いかけたいところだが、今はそれどころではない。再び視線を戻す。
のんびり距離を詰めてきた相手は、いつの間にか私の目の前にいた。
細身で華奢だが、どう考えても低い声。ひょろ長い手足のおかげで、薄い身体でもそれなりに身長があるようだ。彼が動く度、細い三つ編みがゆらゆら視界に入る。
「…………アン?」
「纏まったようだから、改めて挨拶する。今から君の婚約者になった、アンペロプシス、通称アンだ。よろしく頼む」
「待って?」
「何がだ」
「待って……」
「待っている」
首を傾げると、通称アンも首を傾げた。
「今から、何だって?」
「君の婚約者だ」
「アンが?」
「そうだ」
「男の子だった?」
「俺は生を受けた段階から男だ」
無表情できっぱり言い切られた。
「男の子」
「そうだな」
「婚約者」
「そうだな」
「目が、赤紫……」
「重要だったか? すまない。一色伝えればいいかと思っていた」
全く纏まらない思考がぐるぐる回り、口からこぼれ落ちた混乱の欠片に律儀に返答が返る。
それは幸か不幸か、今の私には判断できない。
「……………………なんで?」
「何がだ」
そして、私の婚約者兼誰より親しい私の親友が、何故この疑問を理解できないのか、理解できない。
「ちなみにこれが婚姻届だ。署名を頼む」
「全速力過ぎません?」
「式は後日だが、これは今から提出する」
「今から」
「上官の指示で、司祭を門の前で待たせている」
「更なる外で新たな被害者が!」
「今から俺達は夫婦だ。よろしく頼む」
「友達期間に対し、婚約期間短すぎません?」
「友達はこれからも延長される。よろしく頼む」
「兼任」
「よろしく頼む」
そうして、私達の四分における婚約期間は終わりを告げた。