What I know.
「いい雰囲気のお店ですね」
テーブルに着いたら今度は聖夜子がきょろきょろしている。
店内に他の客は見当たらない。雪宿り(?)はふたりだけのようだ。
「そうだね」
額装された古い写真。いつから貼ってあるのか分からないポスター。几帳面に掃除されていてもあちこち歴史を感じさせる内装。
ただおそらく毎日手書きされる黒板のメニューの“時計”だけが正しい。
「はい、どうぞ」
店主がお冷とおしぼりを運んでくる。
「ありがとうございます」
「それと」
と、灰皿を聖夜子の前へ差し出した。
「あ、タバコは吸わないです……よね?」
「あ、うん」
「あらそう?」
店主は少し不思議そうな顔をして灰皿を取り下げると、代わりにメニューを置いた。
「ご注文はしばらく後がいい?」
「ブレンドで。熱いのを」
祥子はそのメニューを見ることなく即決した。
「ブレンドホットと。えっと?」
聖夜子に。
「じゃ、わたしも同じのをお願いします」
「ブレンドふたつね。しばらくお待ちください」
「あ、メニュー見せてもらってもいいですか?」
下げられかけたメニューを引き留める聖夜子。
「どうぞ」
店主は微笑んでカウンターへ。
「ふふ♪」
聖夜子は早速メニューを開いて眺める。お品書き見るの好きだな、この子は。
「ブレンド一杯300円! お安いですね」
ほんとに。いつからこの値段なんだろう。
「おお!?」
「なに?」
ぼんやりしていた祥子もさすがに振り向く。
「見てください、すごくお高いコーヒーです。1,500円とかしますよ」
コピ・ルアク。
「あ……それか。珍しい豆だから、高いんだよ」
「ジャコウネコの糞から採れるんですよね」
長生きだから知識だけはあるのだ。
「祥子は飲んだことがありますか?」
「ないよ。希少ってだけでたいしておいしいもんじゃないって聞くし」
「そう、ですか」
聖夜子はメニューをたたむ。
「それより、注射は怖くなかった?」
そうだ。ふたりは病院帰りなのだ。
用件は聖夜子の健診。血液検査をしたり予防接種をしたりと、そこそこちくちくされてた。
「はい、ちくりとしましたが平気です」
「あはは、いい子だ」
平気というか、刺してるところをガン見するから看護師さんがちょっと引いてた。
「年末にも行きましたね」
「“新生児”のな。今回のは“三ヶ月児”健診」
実日数的には。
「おかげさまで、元気です。献血も出来ます!」
そういや病院の前で呼びかけしてたな。
「待てよ。…………よし、大丈夫だな」
指折り数えて何かを確認した祥子。
「でも予防接種した後だから、また今度な」
「はい」
「まぁ。ひとまず健康体なのが分かってよかったよ」
ほっとした表情。
「心配してくれてありがとう」
「そりゃ……モデルがモデルだからさ」
ええっと……ごめん。
「そういえば、血液検査でバレたりしないんでしょうか?」
「しないよ。身体はただの人間だもん。AB型のね」
あ、一緒一緒。
「あなたはB型だから、何かあっても上げられませんね」
「こっちもね」
おい、殺し屋同士の会話みたいなのやめろ。
…………………
「ブレンドふたつ、お待たせしました」
テーブルにカップが置かれる。
「お砂糖とミルクは?」
「あ、大丈夫です」
差し出されたポットを祥子は遠慮する。
「それじゃ、ごゆっくり」
「あの、わたしはお砂糖欲しいです!」
ポットを盆に乗せたまま下がろうとした店主を引き留める聖夜子。
「と、ごめんなさい」
慌ててポットを聖夜子の前に置く。
「ブラックはまだ苦手で~」
はにかむ聖夜子を見て、店主は気付いた。
「……あ」
「どうかしましたか? ひょっとしてお砂糖ミルクは別料金とか?」
「ううん。こちらが勝手に勘違いしてただけだから。あらためてごゆっくりどうぞ」
そう言って店主は、祥子をちらりと見て、少しばつが悪そうに笑みを浮かべて戻っていった。
「…………」
「…………」
聖夜子は砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。
祥子は黙って何も入れないコーヒーを飲んでいる。
「のえるさんはこのお店に来たことがあるんでしょうか?」
「な、なんで?」
カップとソーサーがカチャンと音を立てた。
「お店の人が勘違いだって。わたしをのえるさんと間違えたんですよ。灰皿を出したのも、お砂糖を出さなかったのも、きっとのえるさんがそうだったんです」
「そうなの、かな?」
「祥子も来たことがあるんですか?」
「……え、どうして?」
「お店に入ってからずっと変なので」
「ぐ……」
さすがに気づくよ。
「え、あ……そういえば見覚えがあるような気がするかも~」
「…………」
目力。
「い、一度だけね。でも、店に入ってからだよ、気づいたの!」
なんで慌ててんの、この人?
「のえるさんと、ですよね?」
「…………」
話すまで離さない顔だ。
「…………うん」
「5年前のクリスマスイブだよ。あの子と初めて逢った日」
初めても何もその一日しかないんだけどさ。
「降りてきたばかりのわたしに街を案内してくれたんだけど――」
「おお、デートですね!」
「なのかな。でも、すぐにあの子が疲れちゃってさ」
ごめん、そんときもう余命半日くらいだから。
「それでこのお店に?」
祥子はうなずく。
「この店はのえるの行きつけの店だったから。“いつもの”で注文が通るくらいの」
「だからわたしをのえるさんだと……」
ちらとカウンターを見る。店主は雑誌の続きをめくっていた。
「コーヒー飲んで、タバコ吸って、本読んで。授業をサボっちゃ入り浸ってた」
「不良ですね」
はっはっは。
「コーヒーはブラックだしね?」
それは“悪”なのか?
「だから祥子もブラックなんですか?」
「そだね、タバコと同じ」
「…………」
「でも、あの日初めて飲んだブラックコーヒーは熱くて苦くてね。思わず吹き出しちゃった」
「あわわ」
「そんで、のえるのマフラーにかかっちゃってさ。それ、帯の辺にうっすら染みが残ってるでしょ?」
「えっと……ほんとだ!」
コーヒーの染みは落ちにくいから。
「あとね、あの時はまだ入荷予定、だったんだ」
「え?」
「さっきのコピ・ルアク。今度飲もうって約束したんだけどね」
…………。
「……それからは一度も?」
肯く祥子。
「ほんとに忘れてたんだ、店に入るまで。どうしてかなぁ?」
祥子はそう言って、カップを飲み干した。
…………………
「そろそろ行こうか。雪もやんだみたいだ」
伝票を取って腰を上げる祥子。
「300円、ですよね」
バッグから財布を取り出そうとした聖夜子を祥子が制する。
「あの日はのえるが奢ってくれたんだ」
降りたばかりであなたは無一文だったから。
「奢らせてよ。あの子にはもう返せないから。あ、お勘定お願いします~」
カウンターに声をかけて、祥子はレジへと向かう。
「祥子!」
「なに?」
「また来ましょう。次はこぴ・るあくを飲みましょう」
「…………」
きょとんとした顔。
「わたしとじゃダメでしょうか?」
「……迷わずに来れるかな」
「わたしが案内します。覚えましたから」
「コピ・ルアクは高いよ?」
「貯金します」
「どうかなぁ、このあと散財するしなぁ」
「ああっ、ホワイトデーの買い物なのでした……」
「あはは。待つよ。お金が貯まったらまた連れて来てよ」
「はい!」
――チャリン。
ふたりが店を出ると雪はすっかり止んでいて、春らしい陽が差していた。