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鍋娘

作者: 華嵐三十浪

 射抜くような日差しをキラキラと反射させながら、銀の輪が軽やかな音をたてて薄ら青い空を漕いでいる。

横転した事を周囲に気づかれぬよう、自転車が自ら車輪を空回りさているようだった。

 その傍らで、膝を押さえて罰悪そうに中学生くらいの娘がゆっくりと立ち上がった。


その娘が立ち上がったのを見届けた途端、私の身体を安堵と脱力感が襲い、凍りついて滞っていた血液が自分の居所を思い出したように慌てて全身に駆け戻っていくような気がした。

ああ、生きてる。。。。それは私自身に感じたことなのか、立ち上がった娘に対して思ったことなのかわからなかった。しかし、確実な安堵を感じて思わず、ため息とともに車のハンドルに突っ伏した。突っ伏す前に目の端に移った助手席の妻は、まだ呆然としたままぴくりとも動かない。


 そう、ほんの数秒前のことだ。私の車の前に、目の前の娘が自転車で飛び出して来たのは。。。

幸い、道が狭かったのでスピードを出していなかったため、ハンドルを軽く切る事で接触を避けられた。

事故は一瞬で起こると免許の更新の際にしつこく聞かされるが、こんなに胆の縮みあがる一瞬だとは聞いていない。心臓がまだバクバクする。。。。

胸を押さえながら顔を上げると、娘は自力で立っていた。。。。マジでよかった。まだ、賞罰なしのクリーンな人生と胸を張って言える。


 はっ、ドキドキしてる場合じゃない。

まだ、心臓は力強く脈打っていたが、私には運転者としての義務が残っている。助手席の妻をチラリと見ると、目をぱちくりしているものの身体に異常はなさそうだ。女の子の方を確認せねば、とシートベルトを外すために身体をひねった。

 プンと、後部座席の方からおでんの匂いが漂い鼻をつく。匂いに導かれるまま目線を落とすと、香しい匂いを放ったおでんが後部座席にまき散らされていた。

 この事故の前に、私の実家から鍋ごと貰って来たものだ。

寸胴鍋にシートベルトは効かない。どこで役立てればいいのかわかららない経験値が増える。。。。むなしく散らばる、大根ちくわがんもどき厚揚げこんにゃく、中身を全てまき散らしても、まだ、ほのかな温みの残る鍋。


大惨事だな。。。


 ああ、こんな場合じゃない。おでんより、女の子だ。

「大丈夫?」

私は慌てて車を降り、膝を押さえている娘に声をかけた。

「はい、急に飛び出してごめんなさい。」

意外にも、娘は素直に謝った。素直に謝られると、飛び出して来た事を責めるよりも、娘の身体に異常がないかが気になった。

「頭打ってない?痛い所とかは?」

私の娘も同じような年齢だった。話しているうちに怒りよりも心配の方が勝り、娘の身体に触れようとして、はたと思い出した。

 はっ!いかんいかん!中年親父が、たとえ自分の娘でも年頃の女の子に触ったら、何の祟りがあるかわからないご時世だ。私は、慌てて妻を呼んだ。

「おーい、ちょっと来てよー。この子、怪我ないか見てやって」

車を見ると、妻が気を取り直したのか、後部座席に向かってひとしきり悶絶していた。食べられなくなったおでんを嘆いているのか、掃除の手間を嘆いているのだろうか。。。。

 私はもう一度妻を呼び、怪我を確認してほしいと頼んだ。二度目の呼びかけで、人心を取り戻した妻は、慌てて私達の方へ駆け寄って来た。


 幸い娘の怪我はたいした事がなく、車体は身体のどこにも当たってなかった。擦り傷も、見た所すぐに治りそうな感じのものだけだった。状況の確認を終えて、改めて妻と二人で胸をなで下ろした。

 急に道路脇から飛び出して来たとはいえ、これが自分の娘だったらと思うと冷や汗もんだ。顔なんぞに怪我をさせなくてよかった。

「おうちはどこかしら?親御さんはご在宅かしら?」

妻が娘の制服のほこりを払ってやりながら、もっともらしく彼女の自宅を聞いている。

謝りにいくのかな?と思ったが、女が妙にかしこまった口調の時は、だいたい何かろくでもない事を思いついた時だ。なんだか嫌な予感がする。


 娘が自転車で先導するというので、私達はおでんの匂いの染み付いた車に乗り込み後を着いていった。

 夫婦になれば、おおよそ何を考えているかが予想がつく。

おおよそ、だ。

妻の様子を見るからに、あまりよい事ではないのは察しがつく。とりあえず、世間様に迷惑をかけそうかどうかだけでも確認しておこう。

「なにするんだ?親御さんに謝るの?」

私は運転をしながら、助手席で怪し気なオーラを放つ妻に、さりげなく聞いた。

 妻に限らず、まず、女性相手には予測の着いた答えの可能性の低い方から聞くようにしている。女性は心情と違う事を予測されると、自らの心情を事細かく滔々と語ってくれる場合が多いからだ。それと、最初に目的がわかると、すごくショックな事があるため可能性の低い予測でワンクッションおくためだ。

「今日、お義母さんにおでんを貰った時はすごく嬉しかったわ。だって、夕食作らなくていいのよ!あなたと二人で庭掃除して蛍光灯変えただけで、お義母さん、鍋一杯のおでんをくれたのよ。」


オマエ

オレガケイコトウカエテ

ニワソウジシテルアイダ

オカントイッショニ

イモヨーカンクイナガラ

ツウハンザッシミテタロ。。。。


 ここ数時間の事が脳裏に去来したが、何も言わなかった。ここ十数年で、男の人生とは忍耐だと学んでいた。この先も続く忍耐街道を思えば、ここ数時間の事など夢幻の如くだ。

私が虚無感を感じている間にも、妻の弁論は続いていた。

「それが、あの子が飛び出して来たおかげで全部パーよ!怪我がなかったのはいいけど、我が家の夕食補填してもらわないと収まりがつかないじゃない。あの子は未成年だから親の責任よ。交通ルールは教え込んどくべきだわ!」

 私の虚無が深くなる、目の前が暗くなっていくのは気のせいか。会社の健康診断は年の割にはオールグリーン。。。。。。イカンイカン、運転中に目の前が滲んでいくところだった。

セーフティドライブは安全運転と。。。。。。。。。。


確かに、左右確認せずに脇道から飛び出して来たのはあの娘が悪い。しかし、こちら側にも回避努力を行わなければいけない義務もある。一概に、あの娘ばかりが悪いとは思えない。そう言おうと思った時に、妻が運転免許を持っている事を思い出し、更に目の前が暗くなった。


 妻を思いとどまらせるべきか、家庭内での自らの身の安全を計るべきかを考えている内に、娘は自転車をとある一軒の家の前で止めた。

「ここです。両親は出かけてますけど、すぐに帰ると思います。」

「そう。そしたら私達外で待たせてもらうから、あなたは怪我の消毒をした方がいいわ。」

妻は娘を促して家の中に入らせた。

 食い物の怨みと思いやりは、まったく別の所に存在するものなのかと思いながら妻の後ろ姿を見ていた。

すると、30分もしないうちに私達の車の後ろに1台のワンボックスカーが静かに止った。車の中で、私達と同じ歳位の男女が驚いたような顔をしてお互いの顔を合わせていた。そして、しばらくしてから女性の方が、ゆっくりと窓から顔を出した。

「すいません。娘さんの事でちょっとお話が・・・」

車から出された顔に向かって妻は一気に捲し立てる。めちゃめちゃな理論だから、相手が怒り出すのではないかと思たが、相手はこちらが拍子抜けする程に素直に謝意を示した。

 あの娘も素直に謝ってたから、やはり素直な心根は素直な両親から育つのだろうか?

深く虚しさを感じながら、我妻の後ろ姿を眺めていた。何故か、まぶたの裏が熱くなり鼻の奥が痛い。。。

女の子のご両親が深く頭を下げているのを見ていると、自らの卑小さと罪深さを感じずにはいられなかった。私は、家庭内での身の安全を選択したパブリックエネミーだ。。。。。もうしわけ。。。。。


「すいません。娘がご迷惑を・・・」

そう言いながら、娘のご両親はアルミの寸胴鍋を私達に差し出した。その時、妻が捲し立てていたのは、私利私欲を交通道徳で虚飾した話だった。夕飯の補填交渉は、まだされていなかった。

私達は何故か当たり前のように、差し出された鍋を受け取り礼を述べてその場を去った。鍋を受け取った時にすべての儀式が終わりを迎えたような感じがしてならなかった。鍋からは、ふわりとカレーのいい匂いが鼻をくすぐっていた。



 おでんがカレーになったが、夕食を作らなくても済むという事実と無理くり弁論が罷り通った事で、妻はかなり満足しているようだった。

「ねぇ、あの時、車からおでんの匂いもしたのよ。」

帰宅途中、ふと思い出したように妻がしゃべり出した。

「?、うちのおでんカーの匂いじゃないの?」

「そうかもしれないけど、でも、この寸胴鍋を車から出してたわよ。」

妻にそう指摘され、なんだか不可解だと思っていた事が連鎖のように思い出された。

 そう言えば、娘のご両親は一度も家に入らなかった。娘の話を聞くでもなく、妻の屁理屈を聞いて鍋を出して来た。私達不審者に対して怒りの声を上げることもなく、黙って鍋を出した。。。。それに、カレー鍋を持ち歩いてるのか。。。何かがおかしい。。。。。


 それを思い返すと、最初に出会った時の表情もおかしかった。不審というより驚愕、そう驚きだ。普通、見知らぬ訪問者に不審の眼を向ける事があっても、驚きはないだろう。


 そんな事を考えている内に自宅に着いた。着いたのだが、家の前に見知らぬ外車が止まり年配の男女(絶対夫婦だろう)が立っていた。

 私と妻は思い当たる事が多すぎて、お互いに無言のまま顔を見合わせ、チラリと後部座席の鍋に目をやった。そして、その時にこの後、私達はどう行動するべきか。が理解できた。いや、腑に落ちた。と言った方がいい。

自分でもすごく落ち着いているのがわかる。これから私と妻は何をすれば良いのか、どう行動すれば良いのか、まるで予行演習をなんども行なったようにすべてが分かっているように思えた。

あの時の娘のご両親もこんな気持ちだったのだろうか。

私は流れるような自然な動作を心がけながら、外で待つ夫婦に向けて妻をうながした。誰が望んでいるのかすら定かではない予測の結末に向けて行動する事にした。


妻が窓から顔をゆっくりと出す。すると、待っていたかのように年配の女が勢いよく近づいて来た。

「すいません。娘さんの事でちょっとお話が・・・」



 「あのカレー鍋、どこまで行ってるのかしら。」

やはり、あの年配の男女は夫婦で、うちの娘が車の前に自転車で飛び出していた。年配の婦人がひとしきり交通道徳の虚飾を語っていた。

 妻と無言の内に推察した通りの展開になったので、素直に謝意を示しカレー鍋を差し出した。

 妻と年配の夫人がやり取りしている間、ふと年配のご主人を見ると目頭を押さえていた。もっともな反応だろう。。。。

 年配のご夫婦が帰った後、確認してみると、うちの娘も自分で転けて脛に青痣を作った程度の怪我で済んでいた。なんとなく分かってはいたが安心した。

「さぁなぁ。あの人達が食べてるかもしれないよ。」

家の前で、おでんの匂いの染み付いたシートをゴシゴシ洗いながら答えた。

 妻には、そう答えたが、あの人達も他所へまわしたような気がしてならなかった。私は、奇妙な高揚感とともに、この怪異を解きほぐしたい衝動に駆られていた。


しかし、その手立てはない。


 最初はどこから始まったのか、最後に行き着く目的はあるのか、車内でこぼれたのは全すべておでんだったのか、車の前に飛び出すのはすべて娘なのか、すべて自転車で飛び出してくるのか、気になる事はたくさんある。


だが、誰にも答えられない。


 この怪異に巻き込まれた者は、悶々とした気持ちを抑えながら黙っておでんの染み付いたシートをこすり続けるしかないのだろう。私も、それに準じるしかない。


 妻と二人で黙々とシートをこすっていたら、意外と時間が経っていて周りが薄暗くなっていた。

「おかあさん、晩ご飯お弁当でも買って来ようか?」

昼間の一件から、妙に気を使うようになった娘が妻に尋ねにきた。私達は間髪入れずに応える。

『出前にしよう。』

『出前にしましょう。』


お楽しみいただけたら幸いです。

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