6. 常識
「(お、おい、やめろ、こっち見るな。そんな目でこっちみるな!)」
数多の視線を感じてパニックになりかけるカール。
「あ……うるさくして申し訳ございません!なんでもありませんから!」
マリアがペコペコと周囲に謝罪することで店内は徐々に元の落ち着きを戻してゆく。
だが、カールの心臓は早鐘を打っていた。
まともな思考ができない。
今すぐこの場から逃げ出したい。
全身から汗が噴き出ている。
呼吸が荒い。
空気が重い。
吐き気がする。
ヒソヒソヒソヒソと自分の悪口を言っている声が聞こえる。
「(止めろ、止めろ、止めろ、ヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロヤメロ!)」
カールの心がマイナス思考でオーバーフローし、暴走という最悪の結果が生み出されようとしていたその時。
「精神静一」
優しく耳障りの心地良い声が脳裏に響いてきた。
その声の温かさが動揺した灼熱の脳内にじんわりと広がり、パニックになりかけていた心がゆっくりと落ち着きを取り戻してゆく。
いつの間にか焦点が定まっていなかった視界も徐々に力強さを取り戻し、平穏状態とまではいかなくとも、冷静に物事を考えられる程度には回復していた。
「薄緑……」
思わず口にした言葉から出たのは、自らの体を薄く纏うオーラのようなものの色だった。
「とりあえず、紅茶を飲みませんか?」
慈愛に満ちた笑顔のマリアを見て、別の意味で心臓がドキリと震え、言われるがままにいつの間にか来ていた紅茶を一口飲んだ。
「美味しい」
砂糖もミルクも入れていないが、渋みが柔らかくて口当たりが良く、そして何よりも心が落ち着くような香りがする。
カールの精神的不安定さを見越してマリアが頼んでいたものだった。
有能すぎるだろ。
「(さっきの魔法は……)」
落ち着きが戻ったカールが最初に疑問に思ったのは、マリアが使ったと思われる魔法のことだった。
おそらく精神を安定させる魔法。
だが、その魔法をカールは知らない。
「他人の心を落ち着かせる効果がございます」
カールが喉から手が出るほど渇望していた『心を落ち着かせる魔法』
これがあればコミュ障の自分でもまともに街で生活できるのではないかと思っていた。
しかし、カールの職業『ぼっち』ではそのような魔法を習得することが出来なかった。
洗脳などの他者からの精神攻撃を防ぐ魔法はあるけれども、通常時に自分の心を落ち着かせる魔法は存在しないからだ。
マリアの魔法は "他人の" 心を落ち着かせる魔法。
カールは一人用の魔法しか習得していない。
この魔法は一人用では無かったのだ。
「(そりゃあ覚えられないわけだわ。神様も、一人用のも用意してくれれば良いのになぁ)」
ひょんなことから悲しい事実を知ってしまったカール。
だがそれも、対話が出来ていればすぐに知ることが出来た事実なのだということに気付かない。
「カール様。先ほどのお話ですが……」
照れくさそうな表情に戻ったマリアがカールの様子をうかがうように話を切り出した。
「(さっきの話って、マリアがビッ……)」
「違います」
先ほどの二の轍を踏まないように小声でカールの考えを静止する。
「私だって素敵な男性を見つけられればとは思いますが、このような服装をしてまで得たいとは思ってないのです。ただ、友人からこれを着るように勧められて断れなくて……」
『マリアったらせっかく可愛いんだから、こういう服を着て良い男を捕まえないと。ほらほら、これ買ってあげるから私が出かけてる間にこの街の男共にアピールしなさい』
少々強引なところがある友人に押し付けられて着てしまったということ。
それで襲われてしまったのは運が悪いのか、地味な服装の時から目をつけられていたのか。
「(なんだ、そういうことだったのか。あれ?なんで俺ほっとしてるんだ?)」
そんなカールの内心に気付いたからなのか嬉しそうなマリア。
実はこの言葉はブラフで本当はカールを狩ろうとしているのかもしれないぞ。
マリアが極悪人で、カールをそそのかして世界を滅ぼそうとしていたとしたら、恐らく成功するだろう。
あ、マリアは裏の無い聖人ですよ。
「私の誤解が解けたところで、本題に戻らせて頂きますね」
「(……本題って何だっけ?)」
パニックになりかけたこともあり、元々の話を忘れてしまったカール。
そもそもこの店に入るきっかけとなった話は……
「(なんでもしますから?)」
胸のラインを見て、マリアが赤面する。
最初に戻った。
「本当にカール様のような素敵な男性に出会えるとは思わなかったので、チャンスだと思って積極的になってしまったんです。だからその、本当に良いのですよ?」
何が良いか、なんて無粋なことは聞かない。
「ただ、カール様は私が何故積極的なのか理解されていらっしゃらないようでしたので、もう一つ私がお役立ちになれるかと思ったことがございます」
女冒険者の常識を、同じ冒険者であるカールが知らなかったこと。
そしてコミュニケーションが苦手そうだということ。
そのことをすぐに理解したマリアが提供することは。
「私が常識を教えて差し上げるというのはいかがでしょうか」
常識。
それも、人と人との触れ合いの中でしか手に入らないもの。
女冒険者の常識を知らなかったように、カールが全く手にしていないもの。
この先ハーレムを作るのであれば、女性と関わるのであれば必要となるもの。
それを、マリアが教えてくれる。
しかも、自分の意を汲んで話をしてくれるし、こちらが無理に話かける必要が無いように心遣いをしてくれる。
カールにとってこの上ない提案であることは間違いない。
後はカールがここまでおぜん立てされた状況で、マリアの手を取る勇気を出すだけだ。
「例えば私の職業についてですが、この服装は少し色気を出すために加工はされてますが、典型的な魔法職のための服装です。さらに、服の色が白い場合はほぼ間違いなく回復職です」
「(へぇ、そうだったのか)」
「この手の常識は、もしかしたらカール様にとって不要なものかも知れません」
確かに、積極的に話をしないのであれば、問題なく生きては行けるかもしれない。
「ですが、私がこの手の常識について随時フォローすることができれば、多少は安心できるのではないでしょうか」
安心。
コミュ障にとってそれは非常に重要な要素。
『こいつこんなことも知らないの?ププっ』と見下される不安感。
あるいは『こんなことも知らねぇのかよ。うぜぇ』と厄介者扱いされる可能性。
そういった精神的ダメージを軽減するための手段として、最低限の常識を知っておくこと。
最早カールに断るという選択肢は無かった。
「よ、よろしく」
マリアの目を見ることは相変わらずできなかったが、この一言は伝えることが出来た。
カールを変化させたマリアこそ、ハーレムに関係なくカールにとって最も必要な人物なのかもしれない。
「あ、それはそれとして、今晩はよろしくお願いいたしますね」
「は?」
なんでもしますから、の答えは常識をカールに教えることでは無かったのか。
「ひ、ひとつだけだなんて言ってないですよ」
それに、私にとってもご褒美ですから。
と小さくつぶやくマリアを見たカールの下半身は誰にも見せられない事態になっていた。
カールがテーブル席から立ち上がるには、まだ少々時間が必要だった。
―――――――――――
「今のままで十分ですよ。どうしても気になるようでしたら宿の方にお願いしてお水を買って汗を流すと良いです」
「あまり気にしないとは思いますが……臭いのキツイお肉は避けた方が良いと思います」
「そんな、今のままで十分ですよ、それ以上の上等な服はこの街には売ってません!」
「防音魔法を使うのが一般的でございます。一晩のみ効果があるスクロールが売ってますので、それを買って好きな場所で……といっても普通は宿ですが」
「子供を産んで欲しいですか?ああ、冗談です冗談です。ちょっと本気ですが。って何でも無いです。魔法でなんとかなるので好きにしてくださって結構です」
なんという羞恥プレイだろうか。
いや、冒険者ギルドで部屋を借り、二人っきりで会話をしているので誰かに見られているというわけではないが。
とはいえ、情事について、しかも相手の女性からマナーを確認するなど、どちらにとっても恥ずかしい事この上ないことだ。
この部屋にベッドがあれば即開戦していたのではないだろうか。
この部屋は冒険者同士でゆっくりと会話をするために借りられる場所であるため、テーブルとイスしか置いていない簡素な部屋であるが。
「(本当に今日会ったばかりの俺なんかで良いのだろうか)」
「カール様が良いのです。例えこの先何があろうとも、今この瞬間、私の心はカール様で占められています。それに……」
「(それに?)」
「いえ、なんでも……」
それに、カール様はこれから間違いなく多くの女性にアプローチされます。
その一番になりたいんです。
などとはマリアの口からは言えなかった。
マリアにとってカールに抱かれることについて一番好ましかったのは、顔や体格や性格よりも『清潔さ』だった。
上質な服に、男性にしては潤いが多めの肌。
髪も冒険者であるにも関わらず全く傷んでいるようには見えない。
そしてほのかに香る野性味あふれる男の香りも決して嫌な感じがしない。
良いものを食べている証拠でもある。
一目惚れした当たり男性に抱かれたい。
積極的では無いと言いつつも、マリアも冒険者としての考えを持つ一人の女であった。
ちなみにカールの清潔さはすべてスキルによるものであった。
上質な服は、服飾スキルによるもの。
肌や髪の質感は建築スキルで作成した風呂に毎日入っていること、料理スキルによるバランスの良い食事、健康スキルによる早寝早起きの生活、製薬スキルによる効果の高い石鹸の利用、モンスター狩りでの適度な運動など、人として理想的な生活を一年以上も続けてきたからだ。
コミュ障が治ればハーレムなんて簡単に出来るんじゃない?
治れば、だけど。
カールが借りていた宿はあまり大きくないため普段から静かである。
一方マリアの宿は大規模で夜は酒場も兼任しているため遅くまで騒がしい。
また、マリアは友人と二人で一つの部屋を借りている。
その部屋で致すのはどうか、ということもありカールの宿が選ばれた。
「静かにな」
一晩だけマリアが一緒に泊まる。
そう、"マリアが" 宿のおっさんに説明したときの一言である。
百戦錬磨のおっさんだからこそ男女が一緒に泊まって何をするかなんてすぐに分かった、なんてことはなく、二人とも真っ赤になっているのを見れば誰だってこの後何をするかは分かる。
変にからかわないのがこのおっさんの良いところでもある。
カールはあの喫茶店からずっといっぱいいっぱいだった。
都度マリアがリードしてここまで来たが、これから女性と事を致すと思うと緊張で体の震えが止まらない。
妄想の中では何度も女性を無茶苦茶に汚したくせに、情けない。
マリアだってはじめてで怖がっている。
出来る男ならはじめてでもちゃんとリードしてあげるべきであるのだが、カールがそのような甲斐性を持っているわけがない。
そもそもマリアに手を出せるのだろうか。
「あの……よろしくお願いします」
入り口で立ち尽くすカールをよそに、マリアは着ていたローブを脱いで下着姿のままベッドの上に座った。
「(ローブの下って下着だったんだ)」
妙なところに思考が及び現実逃避し、一歩も動けないカール。
恥ずかしさの中、精いっぱいアピールするマリア。
このシーンを見たら世の中の男性諸君はカールのあまりのヘタレっぷりに激怒するのではないか。
同感だ。
だが、それでこそカール。
この状況でまともに行動出来たらコミュ障ではない。
一つだけマリアにとって幸運だったのは、あまりにもコミュ障が重度であり、カールがまともな思考を出来ていなかったことだろう。
もしカールに冷静さが少しでも残っていたならばきっとこう思っていたはずだ。
これは罠じゃないのか、と。
本気でカールのことを想ってくれている女性に対して心底失礼ではあるのだが、全てを否定的にとらえるコミュ障ではありえることだった。
そう思う余裕が無いカールだからこそ、理性を捨てさせ、情欲の赴くままにマリアの肢体を貪る可能性は残されていた。
「カール様の……好きに……して……」
上目遣いで告げられたその言葉に、カールの理性は崩壊した。
おせぇよ。