その4
ヴァーヴ・ヴィリエと言うのは、ベルトラム王国に所属している小さな村だ。
王都デネスの北にある、デュパール山の麓に広がるクレティエの森に囲まれた自然豊かな……率直に言うのなら、自然しかないと言いたくなる程の田舎になる。
ハンターギルドは、生活に欠かせないものとして陸人の国にはどんな規模の集落にもあるものだから、わざわざ脱退の手続きをする為にそんな片田舎に出向く必要など全くない。
……通常ならば。
そうでなくとも、チコリの故郷であるラグランの里は王都から歩いて何日もかからない距離だ。
だが、チコリは母の言葉を信じて駅馬車を乗り継ぎながらその村へと足を運ぶ。
旅費は……母が『出世払いしてくれればいいわ』と言って、大イノシシを売ったお金をポンと渡してくれたお陰で、なんとかなった。
流石に小さな村へは駅馬車が通っている訳もなく、最後の2日間は徒歩で進む。
2週間かけて辿り着いた村は、前評判通り。
夕日に照らされるデュパール山脈の雄大な姿の前にあるのは、ポツリポツリと民家がまばらに建っているだけの特に何にもない村だ。
丁度、食事の煮炊きをする時間帯にぶつかったのだろう。
家々の煙突からは煙が立ち上っており、美味しそうな匂いが風に乗って流れてきている。
奥の方に見える大きめの家は、村長の家だろう。
チコリは空腹を訴えてクゥと鳴いたお腹を押さえて、思わず周囲に視線を向けた。
周りに誰も居ないのは分かっていたモノの、どうしても気になってしまう。
ホッと息を吐くと彼女は、その大きめの家を目指して歩きだす。
小さな村ではハンターギルドの支店は、村長の家などの大きな建物にあるものなのだ。
村長の家かと思ったのは、村の宿だった。
大きめに切りとられた扉の横には、食事処を兼ねた宿を示すベッドとフォークを象った看板と並んでハンターギルドを示す弓矢の看板があり、チコリはホッと胸を撫で下ろす。
別に、村長に用事がある訳ではないからこれでいい。
何の気なしに周りを見回して、彼女は宿の扉を押し開くと食堂になっているらしい左の方から美味しそうな匂いがチコリの鼻を擽った。
カランカラン
軽やかな鐘の音が頭上で響き店内に来訪者を知らせると、先に食事をしに来店してた何組かの男女がチラリと彼女の姿を確認するように視線を向けてくる。
女が1人だと確認した彼等は、すぐに興味を失くした様にそれぞれの会話に戻っていく。
「いらっしゃい、ロベッジの宿にようこそ!」
美味しそうなソーセージの焼ける匂いに、思わずまた鳴きそうになったお腹を押さえた彼女に、給仕をしに出てきた20代半ば程の赤毛の女が笑みを浮かべながらそう告げる。
「もう、ギルドの方は店仕舞いでね。ここには宿は1軒しかないから……。」
「あ、はい。宿泊でお願いします。」
「あいよ。朝と夜の食事付きで、銀貨1枚だけどどうする? 酒は2杯目から別料金だよ。」
赤毛の女は右手にある、小さいほうのカウンターに入ると宿帳を取り出す。
どうも、彼女がこの宿の女将らしい。
もう一つある倍程の大きさのカウンターはシャッターが下ろされていて中を見る事は出来ないものの、シャッターに描かれた弓矢から、そこがハンターギルドの支店として使われている事が窺い知れる。
チコリが身分証代わりに使われているギルド証を出すと、彼女はソレを見ながら記帳して行く。
「とりあえず、2泊で。」
「ほい。そこの階段を上って右に2つ目の部屋だよ。鍵に刻んであるのと同じマークが扉に書かれているからね。」
「はい。ありがとうございます。」
記帳が終ると、彼女はカウンターの後ろから板鍵を取り出してチコリに手渡すと、にんまりと笑って付け加える。
板鍵なんて珍しい。
しかも、こんな田舎なのに。
高級な宿などでは使われていると言う、板状の鍵を手に、チコリは目を丸くした。
板鍵と言うのは、扉と鍵との双方に魔飾が施される為、どうしても設備を設置する時点で費用がかさんでしまう。
その為、チコリが今まで止まった事のある様な廉価な宿ではまず見る事が無いのだ。
「荷物を片づけて、汗を流したら降りておいで。すぐに食事は出せるからね。」
板鍵を手にぼんやりとしていたチコリは、自分のお腹の音を聞きつけられていたのかと、彼女の言葉に顔を赤らめると、慌てて示された階段へと向かった。