その10
アニスの話は長くなりそうなので、宿の食堂で早めの夕飯を摘まみながら聞く事にした。
本人も空腹らしく、その案に乗り気だ。
アニスを先に席に着かせると、ミールは女将のロベッジと一緒に厨房を覗く。
そこではロベッジの夫のオレガノが、もうすぐやってくる客の為の料理を用意している。
「兄さま。」
「ん? どうした、ミール?」
「お昼抜いちゃって、物凄ーくお腹が空いてるの。チコリさんが帰ってくるまでに軽く摘まめるモノを二人分お願い!」
「二人分?」
馬鹿食いするタイプでも無いミールの注文に、オレガノの右眉が不審げに上がる。
だがそれも、ロベッジが楽しげに「町からお友達が来たんだよ」と伝える事で納得の表情に変わった。
「ウサギのレバーパテはどうだ?」
「素敵!」
保存庫の中から持ち出されてきたそれに、ミールは目を輝かせる。
その反応に気を良くして、早速盛りつけにかかるオレガノとソレを手伝うロベッジの邪魔しない様にグラスを二つと酒袋を手にすると、弾む足取りでアニスの元に向かう。
「私、まだお酒は飲んだ事が無いんですの……。」
アニスは自分の前に置かれたグラスに酒が注がれるのを、どこか嬉しそうに両頬を抑えながら呟く。
ミールもつい最近まではそうだったから、その気持ちはよく分かる。
こう……大人の仲間入りをした事を認められた様な、そんな気持ちだ。
「今、摘まめるモノも来ますから。」
ミールはアニスの正面に陣取ると、グラスを掲げて悪戯っぽい微笑を浮かべる。
「まずは、アニスさんの勇気を讃えて。」
「勇気?」
きょとんと眼を瞬かせるのにミールが唇の動きだけで『い・え・で』と伝えると、アニスの口元にもゆっくりと悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「それなら、この稀有な出会いに。」
互いのグラスが近付き、カチンと澄んだ音とほぼ同時にドアベルの柔らかな音が店内に響いた。
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「お見合いですか……」
アニスの家出の理由を聞いたチコリは、ぼんやりとその言葉を繰り返す。
ミールとアニスがグラスを合わせたのとほぼ同時に帰ってきた彼女は、手早く身支度を整えて二人の酒宴に仲間入りをしている。
急いでいたせいもあって、まだ髪が濡れているのはご愛嬌だ。
お摘みにと、オレガノが用意してくれた細長い固焼きパンを適当な大きさにポキンと音を立てて折ると、ウサギのレバーパテを付けて口に放り込む。
パンの香ばしい風味と、臭みのないレバーパテのこってり感が絶妙だ。
「お二人とも、良いお家の出なんですねぇ。」
「良いお家?」
アニスもチコリを真似て同じ様に固焼きパンを頬張ると、嬉しげに頬を緩めた。
「美味しい。」
「手が止まらなくなりますね。」
二人の間に流れるまったりとした空気に、これなら、下手に食い気味な自分が聞くよりも気分よくアニスが事情を話してくれそうだとミールはご機嫌だ。
暫くチコリに話を任せて見ようと、ミールは生ハムを巻きつけてあるものを手に取り、一口分を折りとると優雅に口にして満足げにワインを傾ける。
「私の出身のラグラン村ではお見合いなんてありませんでしたから。それに、そういったモノは陸人のある程度裕福なお家か、貴族同士でするものかと思って。」
実際、お見合いに対するチコリの感覚は割と一般的な認識と同じもので、裕福な商家が貴族を真似て自らの販路や商売の幅を広げたりする為に行うほかは、貴族達の間でしか行われていない物だ。
庶民の間には『お見合いおばさん』なんて呼ばれる人も居るけれど、貴族や商人達が行うモノと違って彼女等の行うソレには何の強制力もない。
お見合いおばさんは出会いの機会を作るだけで、彼女等に引きあわされた男女はなんのかんので自由恋愛をある程度楽しんだ上で結ばれるのが普通であった。
「まぁ……。私のところでは逆に、結婚の出来る年齢になったらどの家の子もお見合いするのが義務なんですの。」
チコリからその事を聞いたアニスは驚きに目を瞠った後、フッと視線を下に落とす。
酔いが回り始めて頬が赤くなってきている彼女の目に涙が浮かぶのを見て、流石のチコリも家出に至る理由に想像がついて来たらしい。
「義務……義務ですか。」
チコリの視線が傍らでグラスを傾けるミールを捉え、その首がゆっくりと横に振られるのを確認する。
その仕草に、目の前の山人だと言う少女の事情に、まだ彼女はそれほど踏み込んでいなかったらしい事を悟った。
なら、誰が聞いても似た様なものだろうと、一歩踏み込む。
「……それって、好きな人が居た場合でも強制なんですか?」
目の前の少女の瞳から涙が零れ出すのを見て、ミールと二人顔を見合わせる。
互いに考えている事はほぼ同じらしいと、その表情から想像がつく。
山人のお見合いって、横暴!
恋する相手が居るらしい娘にはなんて酷な話だ、と二人は同時に酒杯を空けた。