ココロに太陽を ~ 真夜中のカウンセラー Karte01 ~
…午前六時を少し回った所だったろうか。
いつもの様にテレビを付けるまではすっかり忘れていた。
すぐさま北東を向いた窓を開け、空を見据えた。
太陽が…欠け始めていた…
2012年5月21日。『金環日蝕』
世紀の『天体ショー』の始まり、だった。
昨日の晩もチャットに勤しんでいたせいで、眠気が中々とれなかった。
でもチャットをした翌日は眠気が有りながらも何故か気分が良かった。
ハンネしか知らない人だけど、もう随分と色んなことを教えて貰った様な気がする。
僕はあの人の一言一句を胸に刻み、自分の言動を、自分自身を変えていこうとしていた。
病気を治す為に。病気に負けない為に。
…後悔しない為に。
『統合失調症』。
ひと昔前までは精神分裂病という名称だったが、差別的な意味合いが罹患者の社会復帰を妨げるという理由で、今の病名に変更になった。
しかし、病名を変えたからと言って差別が無くなる訳ではない。事実、僕は自分がこの病気であることを家族以外の誰にも明かさなかった。
今までは。
…あの人に出逢うまでは。
普段なら、向かいの屋根から差し込む柔らかな陽光を手で遮るのだが。
今日は気のせいか普段より少し大人しい太陽に向かって歩き出した。
元々は田畑しかなかった鄙びた土地に、アパートや一戸建て住宅、マンション達が創り上げた街。
そこに住む数えきれない人たちの命を、今日もその陽の光が育んでいる。
新しい朝が訪れようとする時、こんなにも陽の光が綺麗なんだと、どのくらいの人が知っているのだろうか。
そして、また今日は特別な太陽が訪れようとしていた。
家を出てから少し歩くと、月極駐車場と住宅地の間に細い通り道がある。
細い割りに人の行き来が多く、通っていると人とすれ違うことが多い。
人とすれ違う時は、お互いの体を横にしないと通れないくらい細い抜け道。
自転車も平気で通るが、自転車同士だとすれ違うことはもちろん出来ない。
そして僕は、人とすれ違うことがあまり好きではない、というか、恐怖に近かった。
すれ違う相手が僕をどんな風に見ているか、それを思う度に憂鬱な気持ちになった。
統合失調症の陽性症状で、幻覚や幻聴はもうなくなっていたが、人の視線が気になったりするのは未だに改善してはいなかった。
僕のココロはこの通り道のように狭いまま、だった。
抜け道を出ると、駅までの結構長い道のりに続く通りに出る。
駅に向かって真っ直ぐに伸びる舗装道路と並ぶように小さな川が流れていた。
フェンスの付いた小さな川の両側を挟む様にコンクリートの歩道があり、そのまた外側に互いに一方通行の2本の舗装道路が挟んでいる。
一方通行の細い道路だったが、駅に向かう側の道は朝には結構通勤の車が多い。
そんな道だったが、今日は車通りがやけに少なく、代わりに歩道には人がいつもより多かった。
皆、プレートらしきものを片手に空を眺めていた。
駅に続く道は東向きで、川を挟んで南東側、大きめのコーポの屋根のすぐ上にまだ欠けきっていない太陽があった。
んー、コンビニでプレート残ってないかな…。
しばらく歩いていると、歩道が途切れ2本の一方通行の道路が交わり、一本の道路になる。
二本の道路が交わるところから直ぐ近くに馴染みのコンビニがあった。
ふと足を止めて暫く悩んだ後、歩道を離れ道路を抜け、コンビニへと入っていった。
会社帰りに必ず寄る最寄駅近くのコンビニ。朝に来るのは久しぶりだった。
店に入るなりレジに駆け寄り、女の子に聞いてみた。
レジの女の子は、夜にみたことはない20歳前後の少し茶髪のポニーテールの子だった。
…こんな時でも、僕は相手の目を見ることが出来ない。
俯きながら、プレートのことを聞いてみた。
ポニーテールの女の子は、申し訳なさそうな顔で僕を見ながら。
「済みません。もう売り切れで…」
「どうも…」
目線を合わせないまま、あからさまに残念そうな声でお礼を言って、踵を返して駅に向かおうとしたその時、カウンターの奥にいたもう一人の女の子の店員に呼び止められた。
「あの…よかったら、使って下さい。私、使えませんので」
そういってカウンターから出で来た彼女の右手には、紙製のメガネタイプのプレートが握られていた。
使えない?ああ、仕事中だからか?
ふと、顔を上げると思い掛けなく目が合った。
可愛い子だった。大きな二重の瞳と今時珍しい黒髪のセミロング。背は160センチ位…かな。
青のストライプのコンビニの制服とジーンズがよく似合っていた。
うん、可愛かった。けれど、それよりも…
…朝から、眩しい様な笑顔だった。
僕がびっくりしたのに気が付いたのか、クスリと笑った。
僕は目線を直ぐに離したが、素直に嬉しかった。
ありがとうございます。いいんですか?
少し伏目がちになりながら聞いてみた。
「はい」
あ、ありがとうございます!
失礼とは思ったが目線を合さずにもう一度会釈をしながらお礼を言った。そしてコンビニの扉を乱暴に開いて駅に向かって急いで歩いた。
多分、霧さんならこんなことを言うかも知れないな。
「きっかけが出来たね」、と。
名前も知らない女の子との約束を守るという、”きっかけ”、が。
病気の最初の兆候は、周りの人が僕の陰口を叩いている、という感じからだった。僕は内向的な性格で人とコミュニケーションを取るのが苦手だった。
当時から実家を離れていて、一人暮らしの部屋でテレビやネットからの音声を切ると家の中は静寂に支配された。
そんな家に帰っても、誰かの陰口が聞こえる様になった。盗聴器か何かを仕掛けられているのかと疑ったが。家の中を徹底的に調べて何も出てこなかった。深夜を過ぎて、朝になり電車乗ると、また僕の悪口が…
コンビニを出て駐車場を小走りに駆け抜け歩道に戻った。太陽に目を向けると、自然と笑みが零れた。こんな気持ちになったのは、随分と久しぶり、だった。
歩道を少し歩いた大きな薬局の向こう側が駅になっていた。
駅に近づくと、プレート片手に太陽を眺めている人がちらほら。
東側の駅舎の少し上にかなり欠けた太陽があった。
心なしか、少し薄暗くなったような気がした。
僕も、貰ったプレートで太陽を覗いた。
もうすぐ、月が太陽の中央に来そうだった。
iPhoneのカメラにプレートを当て、太陽に向けてみた。
漆黒の画面に、白く眩く小さな太陽が写っていた。いける!
気配を感じたので振り返ると、同じ様にiPhoneを持った女性が。
24,5歳のOLだろうか?
スカーフ付きのベージュのブラウス、プリーツが大きめなひざ丈の紺色のフレアスカート、スカートと同系色の紺系のパンプス。
ブラウスと同じベージュのショルダーバッグ。右手に持っているのは白のiPhone4Sだろうか。
ただ、プレートの様なものは持っていなかった。
プレートを使わずに、撮るつもりだったのだろうか。カメラが壊れてしまう。
よかったら、使って下さい。僕も頂いたものですから
僕がそう声をかけると、女性はこちらを向いて不思議そうな顔をしていた。
貰ったばかりの、メガネ型のプレートを…少し躊躇いながら、真ん中で破いて。
ひとつを彼女に差し出した。
「いいんですか?」
はい、僕もそこのコンビニで頂いたんですよ。使って下さい。
「あ、はい、ありがとうございます」
笑顔だった。…そして、その時、僕も笑顔だったのだろう。
彼女は、僕の後ろでプレートを片手に太陽を眺め始めた。
僕も、カメラ越しと自分の瞳で環を眺めていた。
自分の瞳に、ココロに、しっかりと焼き付けるように。
笑顔で、惜しげもなく、使って下さい、と言ってくれた、女の子の分まで。
来た、ちょうど真ん中だ!何度もシャッターを落とした。
手がぶれない様に。ココロがぶれない様に。何度も何度も…
環が切れそうになった時、後ろを振り返って女性を見た。
彼女はまだiPhoneで太陽を観ていた。
気付かれる前に、そっとその場を後にした。
ひっそりとした足取りで改札を抜けて、ホームまでの階段をゆっくりと上がっていった。
会社を度々休むようになり、繰り返される幻聴に耐えきれなくなった頃、やっと心療内科を受診した。統合失調症と診断された。病気だと診断されたことである程度落ち着いたが、投薬やカウンセリングによる治療が始まると、本格的に自分を病人であることを認めざるを得なかった。
-精神疾患患者という病人であることを、だ。
いつもより何本遅れかの電車に乗って、少しばかり感傷的になっていた。
いつもの通勤時間帯より遅い電車は少しばかり空いていた。
LINEを開いて、霧さんに写真を送った。
何分後かに霧さんからの返信が届いた。
- オハヨ 笑
- おお、キレイに撮れてるね。
- 日蝕、見たんだ。僕はまだ寝てたよ 笑
語尾につける『笑』は癖みたいなもんだから、気にしなくていい、と言われてもう3か月。
僕は、今朝在ったことを伝えたかったが、今は言わず。
霧さん、今晩時間ある?
- 大丈夫だと思うよ。何かあった?
ああ、少しいいことがあったよ。
- ん、じゃあ楽しみにしてるよ 笑 マタネ!
ああ、じゃあまた夜に。
会社についても、中々落ち着かなかった。
頭の中は今朝の『太陽』のことで一杯だった。
仕事が殆ど手付かずのまま、定時が来ると逃げ去るように帰った。
最寄駅に着いたが、いつものコンビニには何故か寄る気が起こらず、店の前を素通りした。
それでも横目でカウンターの中を覗いてはみたが、今朝の女の子の姿はやはり見当たらず。
家に着いてから、自転車でいつものコンビニの反対方向にある別の系列のコンビニまで晩御飯を買いに行った。
晩御飯の弁当が入ったビニール袋を持ったまま家の中に入ると、着替える前にPCを付けた。
スカイプを起動して接続した。
参加していたSNSの中で精神疾患関係のコミュニティに入り、自分と同じ様な病気の人達と色んな話をした。その中でひと際目立っていて、人気のある人がいた。
他のコミュニティで副管理人を任されていたり、自分でもサイトを持っていて、コミュニティの中では皆に慕われていた。
自分のページでは、自伝と称して自身の過去を、かなり波乱万丈に満ちた人生だが、時に真摯に、時にユーモアを交えて綴っていた。
霧さんのこれまでの人生と比べると、自分の悩みなんて、と言ったことがあったが。
- そんなことはないよ 苦しいのは君も僕もいっしょ
- 人と比べることになんかに、大した意味なんか無いんだよ 笑
- 緊張したら、ゆっくり深呼吸、だよ 笑
いつも人の立場に立ってくれて、色んなことを一緒に考えてくれた。
いつの間にか、毎日のようにチャットをする仲になっていた。
副管理人を務めるコミュニティで霧さんがそこを辞める時、幾人かの僕の知らない人達、恐らく僕と同じ精神疾患患者だろう、がお礼の挨拶に訪れた。
皆、霧さんに世話になったこと、救われたことなどを、別れの挨拶と伴に残していった。
スカイプでの霧さんはたまにいないことが在ったが、スカイプのステータスは殆どがオンラインだった。
本人曰く、「ついてると安心するでしょ 笑」
その通りだ。今、心の底からそう思うよ、霧さん。
霧さんにメッセージを入れると、数分後にいつもの挨拶が返ってきた。
- オカエリ。 笑
いつも何分か待たされるのは、何かの作業中か、他の人と同時に、最大8人だそうだけど、チャットをしているせいだ。
はっきりしたことはいつもはぐらかされるけど、今でも大勢の人の相談に乗っているらしかった。
僕の、いや、僕らの『真夜中のカウンセラー』霧さん。
僕は饒舌に、思うように動かない指に苛立ちながら、それでも今朝の楽しかったひと時の事を綴った。
霧さんは、いつもの通り最初は相槌に従事してくれた。
一旦、伝えたかったことを書き終えると霧さんの方が書き始めた。
- よかったね。久しぶりの楽しいひと時だったね。
- でも、それで終わりなのかな? 笑
うん、ああ、聞いてくれてありがとう。
- ああ、そうじゃなくて、もう君は何もしないのかい? 笑
え?
霧さんの言っている意味がよく分からなかった…言葉を続けられずにいると、霧さんは続いて書いてくれた。
- その女の子は、本当はありったけの勇気を振り絞って、君にメガネを託したかも知れないんだよ?
- 君はその気持ちに答えようとは思わない?
その言葉に少しココロが熱くなった。そうだ。僕には貰ったプレートとあの笑顔に答える義務がある。こんな気持ちになったのは何日…何か月…いや何年ぶりだろうか。
…僕の手が止まっていることに気が付いたのか、霧さんは続けて書いてくれた。
- ん 何か思いついた? 笑
ああ、うん。やってみたいことがあったよ!
- そう。良かった 笑
僕はそれ以上は何も語らなかった。
そこでその日のチャットは終了した。
カバンの中からiPhone取り出し、PCに接続し、今日撮った画像を転送した。
PCの画面に今日撮影した太陽を表示した。
闇の中に煌く炎のような赤い太陽。
PCの画面であらためて今日の日蝕を眺めると、何か胸の中で小さく、しかし激しく燃える情熱の様だった。
撮った映像をA4サイズの写真用紙に印刷した。
ジィジィと音を立てながら、プリンタが太陽を印刷しているのをずっと眺めていた。
印刷されたものを手に取り、椅子に座り込んで、また写真をずっと眺めていた。
そして、太陽越しにあの女の子の笑顔が浮かび上がった。
朝になって、朝食を食べながらまだ悩んでいた。
結局、写真を封筒に入れて家を出た。
久しぶりに、本当に久しぶりに…病気になって初めての勇気を振り絞った。
家を出てから少し歩くと、いつもの通り道に着いたが。
少し速足で細い道を駆け抜けた。いつもの恐怖を感じている余裕は無かった。
一方通行の道路を渡って歩道に乗り、速足で駅の方に向かった。
-いつものコンビニに向かって。
コンビニの前まで着くと、中から見えないようにレジカウンターを覗いた。
カウンターの奥の方に…背中を向けていたが昨日の彼女だと分かった。
入口のドアを、チャイムが鳴るのをいまいましく思いながら、レジから見えない窓側の食品棚に隠れながら店の奥まで行った。
店の一番奥にある冷蔵庫の中から、ダミー用のボトル飲料を見もせず選んだ。
緊張で胸が破裂しそうだった。
ボトル飲料を片手に真っすぐ商品棚の間を、彼女が待つレジカウンターまでゆっくり歩いた。
僕が近づくと、彼女は顔を上げていたが昨日の笑顔は無かった。
恐らく僕が物凄く緊張した面持ちだったからだろう。
胸の高鳴りを抑えながら、レジにボトル飲料を置いて言った。
あのう…昨日、メガネを下さった…
「あ…はい」
彼女は、気付いて笑顔を向けてくれた。
…よかったら、受け取って頂けませんか。
封筒から、昨日印刷した写真を出しながら言った。
「え、いいんですか?」
あなたから頂いたプレートを使って撮れたんです。宜しければ、是非。
「ありがとうございます!大切にしますね」
…また、笑顔。
「あ、こちらをお買い上げですか?」
すっかりボトル飲料…普段飲まないブラックコーヒーだったが、まさか『ダミー』だとは言い出せず…
…あ、はい。お願いします。
彼女は、クスリと笑って、その時僕も自分の表情がやっと和らぐのが分かった。
コーヒーをビニル袋に入れた後、彼女は笑顔とともに言ってくれた。
「行ってらっしゃい!」
僕も笑顔で返した。
行ってきます!
普段より、一本遅れの電車の中で様々な想いが交錯していた。
人は、太陽無しでは生きていけない。
というよりも太陽がなければ、存在さえしていない。
太陽が見えない夜でさえ、月越しに光を届けてくれる。
そして、人も太陽を持っている。
『ココロ』と『笑顔』という。
自分を、内側から照らし出す為に。
周りにいてくれる人達を、笑顔にする為に。
古い映画の名台詞のオマージュだ。
笑ってくれてかまわない。
「人は、『笑顔』無くしては生きてはいけない。
『ありがとう』が言えなければ、生きていく資格がない。」
そして、今朝。
家のすぐ近くの、月極駐車場と住宅地の間の細い通り道が見えた時。
見慣れない高校生くらい、制服は着ていなかったが服装と身長からするとそのくらいの女の子、の後ろ姿が見えた。
僕が近づくと振り向いて、そして驚いたように笑顔を向けてくれた。
「この近くに住んでるんですか?」
僕は、彼女の瞳を真っすぐに見ながら言った。
ああ、ここ毎日通るんですよ、この狭い道。
「今日は少しバイト遅れちゃって。私も毎日通るんですよ。この狭い道」
それをきっかけに、まるで僕に話したかったかの様に、彼女は自分のことを色々話してくれた。
あのコンビニは両親が経営する店であること、夜も時々バイトに入っていて僕を何度か見かけていたこと、写真はわざわざ写真立てを買って入れて置いてくれていること。
彼女は何度も振り返りながら、笑顔を向けてくれた。
「この道、本当に狭いですよね」
彼女は、しかし楽しそうにそう言った。
…僕は少し考えてたから、答えた。
少し前まではそうじゃなかったけど、この道、嫌いじゃないです。
彼女は、振り返って僕を見つめて、言った。
「あたしも…嫌いじゃないです」
彼女は踵を返して歩き出すと、ポツリと呟いた。
「はぁ、勇気振り絞って良かったぁ…」
え?
眩い陽の光は、人のココロを温めてくれる。
狭い道は、人との距離をより縮めてくれる。
あの日の出来事は、寂しく狭かった僕のココロを、少しだけ温かく、少しだけ広げてくれた。
翌日は、一人でこの狭い道を通った。
小学生の少年が向こうから、歩いてくるのが見えた。僕を見るなり不安げに顔が曇った。
すれ違う時に、互いに半身になりながら、できる限りの笑顔で、言った。
ありがとう。
少年も、少し緊張した面持ちで微笑んで言ってくれた。
「ありがとうごさいます」
…そして。
川沿いの一方通行の道を渡って、駅に向かう。
駅の途中にある馴染みのコンビニに寄る為に。
…朝から眩しいくらいの笑顔を見る為に。
あの日、僕らと同じ様に、『金の環』を創った人々が、沢山いたのかも知れない。