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北風の道  作者: きーち
第八章 ルッド・カラサは大いに笑う
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第一話 微笑み

 春が過ぎ、夏の光が社屋を温めるミース物流取扱社。民家を改装した程度のこの会社では、現在、春の内にひたすら請け負った運搬仕事の後処理を、社員総出で行っている。

 と言っても、社長のキャル・ミースを筆頭に、ルッドと護衛のレイナラ。そして留守番役のダヴィラスで全員だ。この総勢4人がミース物流取扱社の社員であった。しかもうち二人は期間契約である。

「………このトライブレラって町に運んだ………ニンニクか? 受け取りと商店への入品数が合わないみたいなんだが………」

 ダヴィラスが運搬物品についての処理を書いたメモ束を確認した後、それをルッドに見せてくる。

「あー、本当だ。書き間違えかな? 誰か心当たりある人!」

 ルッドもルッドで、運搬の仕事を依頼して来た商人達への報告書を作っている最中だ。ちなみにダヴィラスが指摘した問題のせいで、一枚書き直す必要が出て来た。

「ニンニク? あ、ごめんなさい! 多分、食糧だと勘違いして、幾つか使ったかも!」

 レイナラが手を上げる。彼女は事務仕事に向かないため、雑用をして貰っている。今はどんどん産出されている良く分からないメモや紙の束を一所にまとめる作業をしていた。

「ううーん。依頼人にはどう説明しよう……まあ、規定の額では売ったんだし、詳しく話さずその額を渡すだけってのもありかな」

「そこは正直に話そうぜ。案外、誠実さってのが伝わるかもだろ。責められたところで、幾らか返金すればそれで済むしな」

 社長のキャルは会計の仕事をしている。春先から今日までの儲けで、馬車代を差し引いても黒字が出る状況を、当初は喜んでいたキャルであったが、その分、管理しなければならない金銭が増えて、今は頭を抱えている。最近は社長としての自覚が芽生えてきたらしく、その行動も大胆さを増していた。

「そうだね、そうかもしれない。小さな組織なんだし、ミスくらいはある程度するって向こうも覚悟しているだろうから、そのほうが良いかも」

 キャルの意見にルッドは同意する。行動方針そのものは、キャルにある程度任せる時期にきているのかもしれなかった。そもそも、この会社自体、本質的にはキャルの物なのであるし。

「んじゃあ報告書もそういう風に書き直しといてくれよ……あ、そろそろ一旦休憩にしないか?」

 キャルが部屋の窓から日の高さを見て、そう判断する。すっかり昼時であり、昼食の時間帯でもあった。

「だね。レイナラさんもダヴィラスさんも終わりにしましょう。昼食、おごりますよ」

「あら、本当? まあ、お仕事の手伝いをしたのだから、それくらいの報酬はあって然るべきよね?」

 喜ぶ顔をするレイナラ。彼女らには護衛としての報酬だけで、今の仕事も手伝って貰っていた手前、こういう気配りをしていく必要がある。ルッド達が旅に出ない間は暇だからと事務作業を手伝ってくれているものの、あくまで金銭で繋がっている契約なのだ。

「飯を食わせてくれるのは有り難いが………本当に良いのか?」

 一方でダヴィラスはとても遠慮がちだ。ルッドにしてみれば、彼こそ昼食代を要求すべき人物に思える。何故ならば、ダヴィラスは事務仕事についてかなりの適正を発揮しており、ルッドと同じか、それ以上の作業量をこなしているのだ。

「ダヴィラスのおっさんは本当に良く働いてくれてるからな。こっちの稼ぎにもう少し余裕があるのなら、事務系の社員として雇いたところだぜ」

 キャルもダヴィラスの能力を認めているらしい。彼は一応、護衛業をしているのだが、そっちの腕はさっぱりである。それでも生業にできているのは、彼が生まれつきもっている顔の形のおかげであるのだが、だからと言って、護衛業に向いているとは到底言えない人間である。ミース物流会社でも、彼を留守番役でしか雇っていない。

 しかし、事務作業となれば話は別だった。書類がどういう種類のもので、どういう事が書かれているか。無駄な情報が書き込まれているのかいないのか。書かれた情報に齟齬が無いかなど、かなりの素早さでチェックが出来て、しかもまとめることができる。まさに事務員という能力で仕事を行ってくれた。単なる手伝いというのであれば出来過ぎの能力であったのだ。

「本当にびっくりよねえ。人には幾らか才能があるって言うけれど、あなた、護衛業なんかじゃなくて、こういう仕事に就いた方が良いんじゃないかしら」

 レイナラの言葉には幾らか嫌味が混じっているのだが、ルッドも同感だと思う部分はあった。顔だけで実力に見合わない命を賭ける仕事を続けるよりも、どこかの事務所で事務員として働いた方がより堅実では無いかと思うのだ。

 能力的には不足は無いし、ダヴィラス自身の性格もそういう仕事を望みそうに思えた。だって彼はビビりなのだし。

「………実際、そういう仕事を志したことがある。親からも勧められたりもしたしな」

「へえ。じゃあなんで今は護衛なんて仕事を。当初の希望からかけ離れ過ぎている気がしますよ」

 素朴な疑問を、ルッドはダヴィラスに向けてみた。

「顔がな………面接とかする前に、向こうに泣かれるんだよ………勘弁してくれってな」

 なんというか、とても納得できる理由が返って来てしまった。




 近くの定食屋で食事を終えたルッド達は、再び事務所へと帰ってきた。手には各々、定食屋で入れて貰った飲み物を握っている。これらを飲みながら仕事を再開しようという考えであったのだ。

「ランチミーティングって言葉があるらしいけど、昼食の間まで仕事って、絶対に嫌よねえ?」

 リビングの椅子に座り、仕事を始めるでもなくだらだらしているレイナラ。

「休憩した後の仕事ですら、やる気を出し始めるのに少し時間が掛かりますからねえ。だったら昼飯時も頭を切り替えずに仕事を続ければ良いって話なんでしょう」

 別にそこまでしなくとも仕事が回るミース物流取扱社にルッドは感謝する。食事時は人間にとって癒しの時間なのだから。できればその時間は長い方が良い。

「うちがその点緩やかなのは、社員がそれほど多く無いからこそだな………その分、公私が近くて困ることもあるんだろうが………」

 なんだかすっかり事務員が板についてきたダヴィラスが答える。やはり何時かの時点で、そういう職として彼を雇いたいと思うルッド。性格的にも外見的にも、面白い人材なのだし。

「良いんじゃねえの? 仕事は楽しいほうがあたしは好きだな」

 社長自らがこういうので、暫くは昼食の延長線上みたいな仕事が続いた。といっても、徐々にみな、昼食前にあった仕事をするぞと言うモチベーションに切り替わっていく。

 そんな頃合いを察したわけでは無いだろうが、社屋の玄関から呼び鈴を鳴らす音がした。来客だろうか。最近はそう珍しくも無いが。

「お客さんみたいだな! 兄さん、頼む!」

「はいはい」

 来客対応はルッドの仕事だ。この場にいる中でもっとも向いているのがルッドなのである。キャルとダヴィラスは見た目からして論外であるし、レイナラはそもそも接客に向いた性格では無い。

 ルッドはノってきた仕事を一旦中止し、玄関に向かう。そして扉をゆっくり開けながら、来客への応対を開始する。

「ミース物流取扱社にようこそ。いったいどの様なご用件でしょうか?」

 玄関の先には若い男がいた。ルッドと同じくらいか少し上の年齢だろうか。ミース物流取扱社に仕事の依頼に来る人間と言えば、もう少し年配の人間が多いため、珍しい人種であろう。勿論、顔見知りというわけでも無い。

「失礼……私、ラージリヴァ国総領宅より派遣された事務兵のタックス・クスラトラと申します」

 一礼する青年。ルッドはとりあえず、彼が名乗った立場を飲み込むのに時間が掛かった。

「総領宅の事務兵………国の関係者の方ってことですか?」

 総領とは、勿論、ラージリヴァ国の国王と呼べる立場の人間だ。しかし、総領宅から来たという言葉は、別に総領の実家の人間を意味する言葉では無い。

 ホロヘイ周辺の統治を行うための機構そのものを指して、総領宅と呼ぶのである。そして事務兵というのは、機構を維持したり実際に動かしたりする実務者を指す言葉だった。事務兵の中には、戦闘技術を磨く者もいるにはいるが、その多くは名前の通り、事務関係の仕事が主であった。

 要するに、国家機関で働く事務員がやってきたということだ。

「その通りです。大変失礼かもしれませんが、お宅の……会社ということで宜しいですよね?」

 タックス事務兵はミース物流取扱社を見て、戸惑いが混じった様子でルッドに尋ねて来る。ミース物流取扱社は民家を改装した程度の外見であるため、本当にここがそうなのかと不安に思っているらしい。唯一会社らしきものはと言えば、玄関先の釣り看板くらいだ。もう随分と塗料が擦り落ちているが。

「ええ。ミース物流取扱社はこちらの建屋ですが………」

 さて、いったいこの事務兵は何が目的でミース物流取扱社に来たのか。ルッドがそれを探る前に、タックス事務兵がその答えを口にする。

「実は、こちらの社が少々不正な取引を行っているという通報がありましてね」

「うちが不正な取引を!? いったい誰がそんなことを!」

 驚くルッド。心当たりが無いわけではないが、まあ、比較的まっとうな商売をしているはずだ。

「申しわけありませんが、通報者は匿名を望んでいますので。ということで、私、急遽の監査を行いにやってきました」

 どうにもこの若い事務兵は、この様な民間組織に対する通報があった場合に、国が自らの目で確認するための仕事を担っているのだろう。要するに体の良い使い走りだ。道理で若い事務兵が来るわけである。

「監査ですか……えっと、今すぐ?」

「今すぐでなければ、監査にならないと思いますが」

 まったくの正論だ。相手が色々と隠す時間を与えて何が監査か。

「わかりました……とりあえずここじゃあ何なんで、中に入ります?」

「はい。それでは失礼させていただきます」

 再び一礼をしてから、タックス事務兵はミース物流会社へと足を踏み入れてきた。さて、いったいどの様な変化が訪れるのやら。




「帳簿を見させていただいた限り、幾つかの記入漏れや数値の不一致がある様ですね」

 山の様に積まれたここ最近の帳簿を、すさまじい速さで確認しながら、タックス事務兵がルッド達に告げる。

「まあ、急に仕事が増えたし、人が居ませんから………」

 答えるのは社長のキャルである。代表者なのだから仕方ない立ち位置なのであるが、やはりそれなりに緊張しているのか、元気が無い。すこし離れた場所にいるルッドが、会話の様子を窺いながら、適宜フォローをするつもりである。

 しかし緊張していると言っても、ちゃんと話せてはいるため、キャルの成長が伺えた。

「ねえ……あの娘、こっちにミスがあるって認めちゃってない?」

 一方でレイナラは不安そうにキャルを見つめていた。まるで保護者の如くである。キャル自身の年齢が若年も若年であるので、尚更だろう。

「実際問題、人足らずの状況で仕事ばっかりがありましたから、ミスが無いわけが無いんですよ。むしろここで完璧な帳簿を提示したら怪しまれちゃいますって」

 もしや監査に来ることがバレていたのかなどと勘繰られては、いらない厄介を呼び込みかねない。

 小さなミスなら、悪意のあったものでは無いと向こうも分かるだろうし、そこまでネチッこい事はしないだろうとルッドは考える。

「………帳簿そのものには、怪しさも改ざんしている部分もありませんね」

 見ていた紙束を閉じるタックス事務兵。これで終わりか、それともさらなる突っ込みがあるのか。どちらになるだろうとルッドは少しハラハラしていた。

「じゃあ……監査はこれで終わりってことで?」

 キャルがタックス事務兵の方へ身を乗り出しながら尋ねる。若い事務兵は暫しキャルの顔を見た後、その首を横に振った。

「帳簿には確かに怪しい部分はありませんでした。しかし、だからこそ可笑しなことがある」

 もしかしたら来るかもしれないと予感していた指摘に、ルッドは緊張する。少しでも目聡い者が居れば、すぐに気が付くはずの事だ。

「何故か春先から急に仕事が増えていますね? 恐らくはこの馬車の購入からこの会社の流れが変わっている様に思われる」

 紙束の山から、馬車購入前後の帳簿をすぐさま取り出す事務兵。やはり気が付いたらしい。

 現在ホロヘイは、各地の領主が治める領地に対して、物資流通に関する問題が生じている。国の信用が落ち、入念な検査を行わねば、国が関わる流通物品が流れない形になっているのである。

 その様な状況で、小さく、国との関わりも薄い会社が社有の馬車を持っているというのは、随分と有難がられている。小さいからこそ、領地を越える際の検査も最小限です済むため、他の者達よりも素早く物品を流通させることができるのだ。

 そんな状況を、疑問に思う人間も当然ながらいるはずだ。なんでこいつらはこんな都合の良い時期に馬車を買ったんだと。もしかして各領地の関所なりなんなりが出来ることを、事前に知っていたのではないか、などというやっかみは当然ながらある。

 だってその指摘は真実なのだから。

「春以前に関しては細々とした仕事が入っていますが、それすべてが、この会社側から飛び込みで請け負った仕事に見えます。しかし、春を境に依頼人がわざわざ依頼に来る形での仕事が多数………時期的に見ても、些か妙なタイミングだと思われますが」

「それは……その、運が良かったというか………」

 キャルが横目でこちらを見てくる。そろそろ助け舟をくれとの合図だった。

「偶然馬車を買ったということでは………納得していただけませんか?」

 キャルが座る椅子の横に、ルッドも椅子を用意して座る。

「現在の状況になる少し前に、偶然馬車を購入し、偶然流通に不備が発生し、偶然多くの仕事を請け負える体制が整っていたと? 偶然が重なり過ぎに思われますけれど」

 こちらを睨むタックス事務兵の目を見て、ルッドはどう返したものかと思案する。ここを間違えれば、事態は思わぬ方向に進んでしまうため、良く言葉を選んで口に出す必要があるだろう。

「………偶然というのはそもそもそういう物、というわけにも行きませんよね?」

 はぐらかしどころか、実は何かあるぞと暗に伝える様な口振りで答えてみる。この言葉に相手がどう答えるかによって、相手の格の様な物を知ることができるはずだ。

「行きませんね。いったいどういう意図をもって馬車を購入したのか。明確に理由を示していただきたい」

 なるほど、つまりはその程度の返ししかできないわけだ。型一辺倒の相手というのは、要するにそれほど経験の浅い人間だということ。ここで皮肉の一つでも言って見せるか、立場を利用して威圧するくらいの気概があればまた違うのだが。

(この人じゃあ駄目だね)

 まだまだ下の人間だ。失礼な言い方であるが話にならない。もっと上の人間を引き出すにはどうすれば良いだろうか。

「クスラトラさん。この会社は商人の会社で、商売をしています」

「急に何を当たり前のことを………」

 ルッドの言葉の意図がわからぬ様子のタックス事務兵。この意味が分かる相手と話し合いたいのである。

「商人がどの様に儲けるか。それを明かすのは生命線を晒すのと同じ行為なんですよ。事務兵さんとは言え、いきなり来た相手においそれと話せる事じゃあない」

「つまり、あなたはラージリヴァ国に逆らうということですか?」

 下っ端の事務兵とは言え、タックス事務兵は国の仕事で来ているわけで、彼の意向に逆らうとなれば、それは国そのものにも反抗するということになるのだが………。

「国には逆らいませんよ。とんでもない話です。僕が言っているのは、目の前のあなたには言いたくないというだけです」

「だから! それが国への反抗ということになるので―――何を………」

 怒鳴りつけようとしてくるタックス事務兵の口元を、手のひらで制するルッド。まさか怒声のタイミングまで型通りとは思ってもみなかった。最初は紳士的な対応を、そして少しでも反感を見せたら権力を背景に脅しをする。典型的な権威の使い方という奴であり、経験を積んでいる人間ならば、やり方は変わらないだろうが、もう少し柔軟なやり口で責めてくるはずだ。

(うん……やり込め易い相手だよ、彼は。だけどまあ、それだけの相手だ)

 話を続けたところで発展するものもあまりあるまい。だからここらで次の段階へ進むべきだ。

「例えばあなたに私どもの商売内容を話せば、あなたがその合法違法を判断して、あなたがその結果を私どもに伝える、というわけではありませんよね?」

「当たり前です。国家の機構というのは単純なものでは無い。幾つもの段階を踏むことで、はじめて公正な判断というものが―――

「つまり、私どもの商売について、今ここであなたに明かしてしまえば、その上にいる何人もの人間についても、同様に内実を明かすことになる。商売人の私どもとしては、そのリスクは極力減らしたいのです」

 もう少し立場が上の人間と話せないものかとルッドは提案する。本来であれば、舐めた口を叩くなと怒声が返ってくるはずのこの物言いだったが、もしかしたら別の返答があるかもしれないとルッドは期待していた。

(彼の経験の浅さに期待しよう。断られたら断られたで、別の手を考えれば良いし)

 なんとも失礼なことを考えながら、ルッドはタックス事務兵の返答を待つ。しかし何故か彼は口を開かない。何の感情も抱いて無さそうなその表情であるが、ルッドはそこに微かな焦りを読み取ることができた。

(………想定外の状況に対応できるだけの余裕が無いんだ。想像以上に新米なんじゃないか、この人)

 考えてみれば、ルッド達ミース物流取扱社は出来たばかりの組織であり、最近は仕事も多く入ってきたとは言え、まだ規模も小さい。

 不法な取引があったという通報があったとして、その監査にあまり労力を投入できる相手では無いのだろう。その様な事情の結果、新人を向かわせることになったのかもしれない。

 ならばあと一押しだ。彼の思考を誘導させてやろう。

「もし、ここで結論を出せない様であれば、私どもの方からそちらに伺わせていただきますが。こちらだって、不正があると疑われたまま、何も弁解をしないという状況は堪えられません」

 あなたじゃあ話にならないから、もっと別の人間をこっちで探す。こんな言葉にはさすがにタックス事務兵も反応した。

「ちょ、ちょっと待ってください! 参ったなあ………わかりました、わかりましたよ。上役に話を通せばそれで良いんですね?」

 ずっと引き締まっていたタックス事務兵の表情が、どんどん崩れていくのをルッドは見た。

 仕事中であるという緊張を維持できなくなったのだろう。彼の内心がどの様に変化していったのかを、ルッドは容易に推測することができる。

(事態がややこしくなってきたせいで、上司に相談するか、それとも自分の判断でこの場を抑えるか、その二つの重りが、心の天秤の中で揺れてたんだろう。そこに僕がさらなる無茶を言ったせいで、それどこじゃあ無くなったってところだね)

 しかもその無茶は、相手に反抗するタイプの物で無く、むしろ相手の意向に沿う形で、尚且つ話す相手を自身で決めさせろという物であった。

 ふざけるなと無下にすれば、こういう監査があったのだけれどと、同じ仕事をしている別の人間に苦情を言われるかもしれない。そんな危機感からタックス事務兵は、こちらのもっと上の人間と話しをさせろという要望を吞むことにしたのだろう。どうせ上司に相談すべき案件になってしまったのだしと。

「ただし、これらの帳簿は一時的に預からせていただきます。疑うわけではありませんが、改ざんされる可能性も無いわけでは無い」

 タックス事務兵は目の前にある帳簿の山を見てから話す。もしかしてそれ全部を持ち帰るつもりなのだろうか。なんとも生真面目な男である。

「帳簿に関してはどうぞ。最後に一応聞いておきたいのですが、こちらで行われている不法な取引というのは、具体的に何を指した物だったのでしょう?」

「確か……不正に手に入れた石椀を取引材料に、多くの業者から見返りとして仕事を請け負っているとか………まあ、実態を見る限り、そんな様子はありませんけれど。では、今後の予定は追って通告させていただきます………」

 すぐに席を立つかと思ったタックス事務兵だが、少し溜めを置いてから、深々と息を吐いた。

「はぁ……上司には話を通しますが、次回はこの様な要求は遠慮してくださいね?」

「まさかの話です。こちらの要求が通った以上は、さらに無茶を言うなんてことはしませんよ。ありがとうございました」

 ルッドはそう言ってタックス事務兵に礼をする。頭を下げるその仕草によって、表情が一時的に相手から隠れるその瞬間。ルッドは微かな笑みを浮かべていた。




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