2章の2
「!」
「あ、僕が出るよ。多分ブーケの件だから」
心臓を圧搾されかけたクリスをよそ目に、ステフは颯爽と受話器を取った。
「はい、フラワーショップドルチェです! ええ、毎度ありがとうございます!」
遅れて振り返るクリス。広がりつつあった回顧は、我に返ると同時に意識の彼方へ吹っ飛ばされてしまった。
そう言えば、ステフの質問に答えていなかった。
クリスは色違いだがお揃いのエプロンを付けた少年を眺めた。
電話の向こうの相手にもにこやかに応答する様は、さすが一年でこの花屋の立ち上げから拡大までやってのけた人物だ。店の規模は小さいが、高い信頼と品質で広い客層を捉え、今や多くの上客が付いている。
小さな花屋の店主。それが自分の生業だとステフは言う。
しかし彼のもう一つの顔の方が遥かに、人々の興味と敬意を誘うのもまた事実だ。
「はい……はい。ええ。ご注文通り、春の花のブーケを五つ、お作りしておきますね。よろしくお願いいたします」
電話の向こうの客に向かって軽く礼をし、ステフは受話器を置いた。チン、と音が立つ。
ステフ、と呼ぼうとした。
すると、
「キーネ=フレイム=ヘリング」
「は?」
唐突に発せられた名に、クリスは首を捻る。初めて聞く名前だ。
こちらを振り返ったステフが加える。
「彼女が炎の忘却術を使える、世界でただ一人の魔術師だよ」
「炎の魔術師か」
頷くステフ。
ただ一人、と言い切れる根拠はクリスも知っていた。
自然界における四大要素、即ち炎、水、風、大地の結聖を操る資格は、世界に一人ずつしか与えられない。よってフレイムの名を持つ魔術師も、ステフが名を告げた人物しか存在しない。
「それで、炎の忘却術がどうかしたの?」
クリスは何とも返せないまま、無言で床へ視線を流した。
真白き炎を見たというマリーネの記憶が事実ならば、この件には炎の魔術師・キーネが関わっていることになる。
彼女は忘却屋ではない。魔術協会の登録を確認するまでも無く、クリスはそれを知っている。現在活動している忘却屋は自分を含めて二人だけだ。
忘却屋として術を行使したのでなければ、キーネは一体何のために真白き炎を導いたのか。
……少女を殺すため。
忘却術を意図的に暴走させれば、結聖は全部抜き取られ、その人間は死に至る。
何の痕跡も残さずに、人を殺すことができる。
「……っ」
ぎりっ、と歯を食いしばったクリスを、ステフは不思議そうに窺い見ていた。
「何でもない。別に大したことじゃないから、気にしないでくれ」
「……ふぅん」
ステフは少しだけ間があった後、何とも形容しがたい顔で頷いた。言葉の裏を見透かしたような瞳、とでも言うのだろうか。
何か勘づかれたかもしれないな……。
クリスは今更、まずかったかなと後悔した。
しかしそうであっても、これ以上事件が続かなければいいだけだ。マリーネの話に対する未消化感も、いつしか薄れ消えるだろう。
忘却術を使って人を殺す。そんなこと、許されるわけがない。
術者が誰であろうと、また、確固たる目的があろうと。
……俺にそう言える資格は無いのかもしれないけれど。
そんなクリスの迷悶を断つように、ステフはパンと手を叩いた。
「さ、おしゃべりはこのくらいにしようか。僕は注文のブーケを作らないと」
すぱりと切り上げ、作業台へと向かう。つられてクリスの思考も、花屋の店員モードに切り替えられた。
「俺はどうする?」
「裏に出してる鉢を全部倉庫に戻しておいて。今朝、クリスが寝てる時に届いたんだ」
背中で返事をするステフ。
また力仕事か。やらせるつもりで残しておいたな。クリスは心の中で毒づく。
しかしこの店では一介の従業員だ。店長には逆らえない。
「了解、店長」
不平不満を隠して快諾する。そして店の裏口に向かおうとしたその時、再び電話がベルを鳴らした。
「ごめん、その電話だけ取ってくれる?」
見ると、ステフはブーケ用だろうピンクとオレンジ色の花を両腕で抱え、作業台の周りをあわただしく歩き回っている。
クリスは受話器を取り、送話口に向かってはっきりにこやかに答えた。
「はい、フラワーショップドルチェです!」
これなら文句無いだろう、と自分で太鼓判を押したクリスだったが、電話先の相手が一言発した瞬間、花屋の店員としての向上心は一気にしぼんだ。
「……ああ、いる。今ちょっと手が離せないんだ」
とステフを見やると、作業台から姿が消えていた。倉庫に何か取りに行ったのだろうか。
「ああ。……そうか。わかった。伝えとく」
最後は「じゃあな」で締め、相手が切らないうちにこちらから受話器を下ろす。
相手が客ではないとわかった途端、我ながら見事な豹変ぶり。鬼店長が聞いていたら無言の雷が落ちていただろう。
いいタイミングでステフが戻って来る。
「あ、電話終わっちゃったの。ちゃんと守れたよね?」
「あのな……店員を信用してください」
ジト目で振り返るクリス。
「それに、客じゃなかったから」
「え?」
ブーケ用のカスミソウをこぼれるほどに抱えたステフは、作業台に戻ろうとしていた足を止めた。
「今度はお前に依頼だぜ、ブルーム」
瞬間、ステフの表情が動いた。
瞳が色を変えた、とでも形容できるだろうか。
「……そう」
泡雪のような花に埋もれながら、ステフは静かに頷き返す。
「花咲く忘却屋の出動は久しぶりだね」
と、少年――ステファン=ブルーム=スタンレイは、小首を傾げて微笑んだ。