1章の4
さらさらと風が吹き、木立の枝先が風下へ誘われる。
いつの間にか流れてきた薄雲。水面に流した墨のように尾を引きながら、音無く夜空を広がっていく。
薄雲のヴェール越しに落ちる月明かりは、闇への唯一の抗いだった。雪明りを無くした広場は、上空から降り落ちる淡い光を共有する事で、ようやく周囲の景色と同化しつつあった。
しかしそれにも関わらず、広場にはいまだ異質な空気が残存している。
闇に慣れた目でなくとも、その影の動きは視認できただろう。
とん、と音を立てたのは、影の履いた靴と煉瓦の地面。おかしなことに、影の頭にはウサギの耳が生えている。
影は片膝と片手を突き、着地の衝撃を制していた。随分と小柄である。ゆっくりと起き上がり、右手を顔の高さに上げる。
「ち、やっぱ壊れた結聖じゃダメか」
右手の中には小ぶりの瓶。影はそれを眺めつつ、誰にとなく呟いている。
「あの医者追ってたら忘却術の現場にぶち当たってラッキー、って思ったけど、やっぱそう上手くはいかないか」
やれやれ、と首を振る。
「ま、始末する手間が省けたしいいのかなー。それに魔術師のじゃない結聖は、さして高くも売れないし」
踵を返し、広場の入口へと歩む。かつかつと鳴る靴音が、闇夜になりかけた空間へ警鐘紛いに高く響いた。
不意に、影はぴたりと足を止めた。
薄雲の切れ間から月明かりがこぼれ落ち、広場の様を一時的に浮かび上がらせた。
佇む影は、一人の少女だった。ウサギの耳の正体は、彼女の頭をすっぽり覆った黒いフードだった。
「スノウクリスタル……ね」
唇を笑みの形に歪ませながら、少女はその名を呟いた。
唐突に、その背へ別の声が投げられる。
「……そいつが今度の相手なの?」
知った相手なのか、ウサギの少女は驚いた様子もなく振り返る。
「来てたの? 別に追っかけてこなくてもよかったのに」
視線の先、闇に埋もれかけた木立から姿を露わしたのは、ウサギとさほど変わらない年齢の少女だった。
「そいつ、魔術師なんでしょ。早く記憶を探らないと」
まるで何かに導かれるように、かつん、と一歩を踏み出す。テンガロンハットの下にあふれる赤毛がふらりと揺れた。
「まぁ、落ちついてよ」
「早く探し出さないと。犯人を」
独り言のように唱えながら、赤毛の少女は歩み寄る。その双眸はひそめた声音とは正反対、計り知れない強さの意思を抱ていた。
ウサギは辟易したように肩をすくめた。
「あー、わかったから」
「行くわよ」
「行くって……居場所わかんないんだけど。ったく、落ちついてよね」
嘆息すると、ウサギは唐突に右手を突き出し、そのままぐっとこぶしを握った。
瞬間、赤毛の少女の体ががくりと揺れた。
「っ」
「大体アンタの魔術が派手すぎるから、目撃者ができたんじゃないの。後始末する身にもなってよね。これからは気をつけないと正体がバレるわよ」
「――」
「とにかく、スノウクリスタルって魔術師に関しては情報不足。今日の所は出直しよ」
赤毛の少女は、まるで見えない縄に縛られているかのように、うなだれたまま動きを止めている。
その様を見、ウサギ耳の少女は唇を歪ませた。
「……キーネ。アンタはその意思のまま、アタシに従ってればいいのよ」
雲が動いたのだろう。何の前触れなく、ふっと月明かりが遮られる。
少女たちの姿もまた、音無く落ちた闇にかき消えた。