1章の3
すしゃり、と金属のこすれる澄んだ音を立て、刃は外気へと身を露わにした。
細身の刃を秘やかに収めていた鞘――シャベルの柄と刃の部分を、クリスは雪上に放った。慣れた動作で引き抜いた剣を鋭く振る。
下方に流れた剣先をそのままに、クリスは雪上の人影を見据えた。
対峙した人影は初め、夏の陽炎のように輪郭を揺らめかせていた。徐々に揺らぎは収束し、ついには実際の人間と紛うほどに鮮明な少女の姿となった。
雪の結聖と癒合し体外へと引き出された、マリーネの結聖。忘却を望まれる記憶を抱いた結聖が、マリーネの体を抜けて外見を得た状態。それが少女の正体だった。
十代の半ばくらいだろうか。幼い雰囲気を残している。お下げ髪の可愛らしい少女だ。
外傷はほとんどないな。マリーネの話通りだ。少女をざっと見渡し、そう判断する。彼女の衣服は所々焦げ、手や足の数か所に火傷を負ってはいたものの、命に関わると思われる傷は見つからなかった。
しかし――少女は目を閉じ、苦しげに喘いでいた。
記憶にある映像の全てが反映されるわけではない。実際は体を横たえていたのだろうが、今、クリスの前に現れた少女は、今にも膝を折って倒れてしまいそうなほどに両脚を震わせ、両腕も力無く垂らしていた。
本当に瀕死状態だったんだな。
こんな状態の〝記憶〟を相手にするのは少々忍びなかったが、楽に終えられるのはありがたかった。
クリスは下ろしたままの剣に両手を添え、若干下げ気味の正眼に構えた。
「これは記憶だ」
人じゃない。
だから俺は彼女を殺すんじゃない。
「忘却のために壊れてくれ、結聖」
クリスが発した瞬間、少女の姿をした結聖は目を開いた。
交錯したまなざしの上を、クリスの瞳が一直線に突き抜ける。
手にした剣を一気に薙ぐ。両刃の刃が、残像さえも追えない速度で少女へと迫る。
しかし――手ごたえは無かった。
「っ」
クリスは刃を振り切り、流れた体を少女へと振り向けた。
「防衛本能か……」
少女の体幹は危なげに揺らぎ続けていた。
剣が首を分断する直前、彼女は身を後方へと引いた。反射的に忘却屋の刃から逃れたのだ。
結聖の有する防衛本能を、クリスは忘却屋の経験を積む中で実感していた。例え破壊を望まれているとはいえ、結聖は生物を成す要素の一部だ。主の生命を守るために、結聖自身が本能的に身を守る行為に出てもおかしくはない。
クリスは再び剣を構えた。
なんとか傾倒を免れた少女。うなだれた顔は苦悶に歪み、半開きの唇からは変わらず喘ぎが漏れる。
そのまま立ってるか、もしくは倒れるかしてくれ。そうすれば俺は一瞬でお前を壊せる。
クリスは雪面を蹴った。
相手が結聖だろうと劇的なまでの切れ味を誇る鉄の刃が、俊足に少女へと迫る。
終わりだ!
剣が薙がれようとした、その瞬間、
「くっ」
呻いたのはクリスだった。
少女の身から発した衝撃が剣を押し戻し、クリスの前進を妨害したのだ。
ちっ、とクリスは舌打ちした。崩れた構えを立て直し、結聖の少女と正対する。
間合いの先で、少女はついに膝をついた。雪上に座り込み、苦しげに肩を上下させる。
間髪入れずに踏み切ったクリス。しかし再び放たれた衝撃波に体を煽られ、あわや後ろに倒されかけた。
なんとか構えを維持するが、断続的な衝撃波に押され、踏みしめた足がじりじりとずり下がる。
「……やっぱり未練があるのか……っ」
記憶を残すも無くすも、決めるのは記憶を持つ本人次第だ。忘却の決心に揺らぎがある状態では、記憶即ち結聖は全力で自分を守ろうとする。
その状態にある結聖にとって、忘却屋は敵以外の何物でもない。
暴風並みの衝撃波に顔を歪めながらも、クリスは叫んだ。
「ためらうな、マリーネ! あんたがこの記憶に未練があるなら、記憶を抱いた結聖もそれに応えて俺を攻撃する! 忘却術を成功させたいなら心の底から忘れたいと願うんだ!」
どくん、と、取り巻く空気が震えたように感じた。
通じたか。クリスは期待を込めて思う。
座り込んだ少女を取り囲む結聖の障壁は、脈動のような変化を繰り返し、徐々に収束していった。
今だ。
クリスはためらい無く雪面を蹴り上げた。
「望まれるままに壊れろ!」
一瞬のうちに少女との間合いが詰まる。
と、
「何が、違う、なの」
呟く声が耳朶を突いた。
「え」
顔を上げた少女の目から、涙がこぼれ落ちた。
少女の言葉に、しかしクリスの反応は追いつかなかった。
次の瞬間、涙に濡れた二つの瞳は視界から消失した。
振り切った剣の先が勢いのままに雪面を薄く削る。クリスはそれに構わず、見開いた目で虚空を仰いだ。
少女の首は舞っていた。
だが、それも一瞬。クリスが瞬きを返さない間に、少女の首は輪郭から崩れ、ついには跡形なく消え去った。
ふわ、と大気が動いたように感じた。
クリスは足元を見た。
そこにあったはずの、残りの結聖の具象もまた、完全に消失していた。
終わった。
忘却術は成功した。
壊れた結聖はいつしか大気に溶ける。結聖を辿る術が無い今、それがどのくらいの年月を要するのかはわからない。
しかし確実に、記憶は破壊された。
「……」
少女の言葉は、声音までもが記憶にしみ付いていた。
驚愕と、疑念と、絶望。震える彼女の声は、それらの感情を一直線に伝達した。
どういう意味だ。
記憶が言ったということは、マリーネもそれを聞いたはずだ。先の説明で伝えなかったのは、彼女がさして疑問に感じなかったからだろう。
しかし――
出どころのわからない不安が、疑問の湧出を煽る。
『何が、違う、なの』
切れ切れだった少女の言葉。
何がって、何が……。
何を誰に問うたつもりだったんだ。そして何であんな声で……顔で。
――あの日の出来事にこれ以上関わるな。
どき、と心臓が跳ねた。
忘却術によって、マリーネは少女に関係する全ての出来事を忘れた。だから『これ以上関わる』ことは決してない。彼女は不審な輩の脅迫から逃れることができる。
……俺が知った。
俺が記憶を垣間見たということを、そんな奴らが知ったとしたら?
ふっ、とクリスは息をついた。
考えすぎだ。俺は何も関係ない。
俺はただ、一介の忘却屋として仕事をしただけなんだから。
「そうだ、マリーネを起こさないと」
この〝真白き雪〟は普通の雪と性質が違う。だから凍死や窒息の危険は無い。そして同時に、魔術師の手によって解き放たれない限り、溶けることは無い。
クリスはひとまず踵を返し、雪上に放られていた鞘――シャベルの柄と刃の部分を持ち上げ、抜き身のままだった剣を収めた。
かち、と快い音を立て、鉄の刃は姿を隠した。仕込みシャベルなどというこの変わった武器は、鉄の魔術師が作ってくれたものだ。完全鉄製の刃はどこまでも堅く、どこまでも鋭く、どこまでも丈夫で、そしてどこまでも美しく輝く。
クリスはシャベルと化した相棒を傍らに突き立てると、そこに片手を置いた。そして維持し続けていた雪の結聖への束縛を、一気に解き放った。
大気へと解放される雪の結聖――
雪の魔術師とて、結聖を目に見ることができるわけではない。それでもクリスは、自然操術から解放される雪の結聖を見送るように、春夜の空を仰いだ。
「うーん」
足元で漏れた声に、視線を返す。ちょうどマリーネが身を起しかけているところだった。
「……あれ? 私は何でこんな所に寝ているんだ?」
体の下にある煉瓦を撫でながら首を捻る。
地面に広がっていた真白き雪は、今やすっかり無くなっていた。雪解け水も残らないため、積雪の痕跡は一切窺えない。
クリスは手を差し出した。
「あ……どうもすまないね」
その手を取り、立ち上がるマリーネ。ぱんぱん、と服に付いたホコリを払い、そしてクリスをじっと見る。
放たれるは、軽い圧力のある視線。何か思い出そうとしている、そんな表情と共に。
しかし予想はできていた。
「……君は何者だい? こんな夜中に、そんな大きなシャベルを持って。それにその服装はいくらなんでも季節外れなんじゃないのかい?」
「あいも変わらず、遠慮なしに突っ込んでくるな……」
マリーネは首を捻った。
「人違いじゃないのかい? 私と君は初対面だ。間違いない。私は人の名前を覚えるのは苦手なんだが、顔は一度見れば覚えてしまうんだよ」
「……」
こう、なんだよな。
クリスはほんの少しの淋しさを、小さな嘆息に載せて吐き出す。
真白き雪と共に、記憶は全て消え去った。
忘却を望まれた記憶も、そしてそれを消した忘却屋の記憶も一緒に。
ぐっ、とシャベルを握る。
自分の正面に立てると、クリスはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「来年の雪かきの予行練習やってる、ただの変わりもんさ」
マリーネは目を丸くしてクリスを見つめた。
「そりゃあ……変わりもんだな」
そう呟くと、クリスの記憶の中にある笑みを返した。