5話
4ヶ月もの放置、申し訳ありませんでした。
聞き慣れた電車の発車ベルが鼓膜を刺激して、電車のドアが閉まる。ギリギリの所で電車に飛び乗った僕は息が整う前に、すっかり暗くなった外を眺めつつ、空いている座席を探して腰を下ろし、通学カバンを下に置いた。
「ふぅ……」
つい漏れてしまったため息。そのため息の原因は、今日から時折見せた謎の「不整脈」であった。どうして、突然あの不整脈が起こったのか。しかも、その不整脈が起こる時、どうして近くに柊さんがいるのか。紙飛行機を青春に分類している僕にとって、その原因が分からなくて、ついもやもやとしてしまう。
結局、今日の会議はほとんど頭に入らず、このことばかりを考えてしまっていた。気がつけば会議が終わって生徒たちが解散していて、柊さんの「終わったよ?」という一言が無ければ何時間でもあの教室に居続けていたと思う。
「……」
ズボンの裾ポケットからスマートフォンを取り出して電源を入れる。画面に光が生まれて、素っ気ないシンプルな壁紙に大きく現在時刻が表示された。
「困ったときは、友達に相談しなさい」という親からの教えが頭の中に蘇って、僕はスマホの画面に指を走らせ、電話帳を表示させる。電話帳に登録されているのは両親を除けばごくごく僅かな人数に思わず苦笑してしまう。その少ない中で僕の目に止まったのは「笹山一樹」という名前だった。
「……」
相談、してみようかな……。しかし、一樹にこの悩みを打ち明けた所で、僕のこの悩みは果たして解決されるのだろうか。
しかし、かと言って両親に相談するのも気恥ずかしい。ほら、なんていうか、両親に具合が悪いことを言うのが少し照れくさい、といったような。我ながら情けない羞恥心だな……。不整脈は立派な病気である。両親に心配させたくないという気持ちも手伝って、両親に相談するのは本当の最終手段としたい。
そうすれば、結論は一つしかないわけで。僕は仕方ない……と自分に言い聞かせながら、「笹山一樹」の名前をクリックするのだった――。
◆◇◆◇◆◇
「――だはははははははっ!」
先月までが夏だったと思わせない大分涼しくなった夜。近所のコンビニを出て第一の一樹の行動は、僕を笑い飛ばすことだった。
「な、何がそんなにおかしいんだよ……」
こちとら真剣だというのに。一樹は「悪ぃ悪ぃ」と苦々しい表情で言ったあと、右手に持っていた熱々の肉まんを一口かじった。
「ひー、ひー……! 腹いてぇ……っ! お前、本当にその不整脈の正体に気づいてないのか?」
「気づいてないからお前に相談してるんだろ!」
笑われた理由すらも分からず、僕は顔を赤らめて憤りの叫びを上げる。
「いやー、さすが紙飛行機を青春とする残念ボーイ」
語尾に「(笑)」がつくような言い草に、僕はむっ、と渋面を作って、一樹と同じ肉まんにかぶりついた。熱さが口の中全体に広がって、思わずはふはふ、と口の中に冷たい空気を送る。肉汁、具がたっぷりで、さらに安い。僕と一樹は小さい頃からこのコンビニで売っている肉まんにお世話になっていた。最近ではこのコンビニに立ち寄ることも少なくなって、久方ぶりの肉まんの味は格別で……と、肉まんの美味しさなんて語っている場合じゃなくて。
「一樹は分かるのか? この不整脈の正体が」
「――あったりめーよ」
ふふふ、と勝ち誇ったような笑い声のあと、一樹がえへんと胸を張る。その顔つきに「嘘」は見えず、どうやら本当に自分の答えを用意しているようだった。
「とりあえず確認するけど、お前のその不整脈は今日、突然起こったんだよな」
「あぁ」
「そんで、その不整脈は柊さんの前じゃないと起こらない、と」
「たまたまかもしれないけどな」
「……普通気づくと思うけどなー、それ」
何だか僕が皆とは違っている、と言われているような気がしてどうも気分が悪い。
「じらさないで教えてくれよ」
「よろしい。教えてしんぜよう。……その代わり、さっきの約束は果たして貰うからな」
「律儀な奴……」
僕はジト目を作って財布から100円玉を取り出してふんわりとそれを投げる。「ほい」と一樹の手の平に落ちた100円玉は、そのまま一樹のポケットの中に吸い込まれていった。
先程、コイツに電話で「相談したいことがある」と話したら、「肉まん1個で手を打とう」という一樹らしい答えが返って来て、不整脈の悩みは思った以上に大きく、いつもなら「じゃあいいです」と躊躇なく電話を切ってしまうところを必死に堪え、肉まん代である100円を彼に払うことに決めたのだ。
「ふむふむ」
「肉まん奢ったんだから、変な答えだったら許さねえぞ」
不良のようにガンを飛ばして僕が脅すように言うと、
「分かってる分かってる。俺は仮にもお前の幼馴染だぜ? 幼馴染が困ってれば、そりゃ助けるって」
幼馴染なのに100円を払わなくてはいけないというのはどうだろうか。
「ズバリ、その不整脈の正体――それは、『恋』だっ!!」
ドドン、という効果音が聞こえてきそうなほど、一樹の答えは単刀直入であった。
「……鯉……。なるほど、原因は鯉にあったのか……」
「普通気づくだろ」
一樹は無邪気そうに笑う。
「でも僕、鯉なんて一度も食べたことないぞ?」
「……つくづく可哀想な奴だな……。そっちの鯉じゃねえよ。――『恋』。える、おー、ぶいー、いー。LOVEってやつさ」
「なるほど、恋か……」
不整脈は柊さんの前で起こる。不整脈の正体は、恋。
「――って、恋!?」
僕が驚きのあまり手に握っていた肉まんを落としそうになる。
「そうだよ。簡単なことじゃねえか。お前は、柊さんに恋してるんだよ」
「ななななな……!」
「ついにお前にも好きな人ができたのかー。お前はもう紙飛行機と結婚するのかと思ってたよ、俺。いやー、お母さん嬉しいわ」
お母さん言うな。
「で、でも僕……好きなんて思ったことは……」
「そりゃお前の頭が麻痺しちまってんだよ。紙飛行機が青春だなんて言ってる奴が、女の子のことを好きになってる、なんて思わねえだろ」
「そ……そうだったのか……」
「そうだ。よーく覚えておけよ? お前のそれは不整脈なんかじゃない。『好き』っていう感情だ」
心臓の動きのリズムが変わったような、そんな感覚。脈拍のリズムが乱れて不規則になったようなこれは――
(これが……『好き』?)
僕は柊さんに恋している。そう断言されたものの、まだまだ自分が本当に彼女に恋しているのかが分からなかった。何せ、僕は青春の日々を紙飛行機に捧げてきたような男――一樹の言う、「残念ボーイ」だ。恋に盲目とはまさに自分のことを言うのかもしれない。
「でも僕は……どうすれば」
「恋愛マスターの一樹様がマジレスするとだな」
「初めて聞いたよ」
「――ま、さっさと告白しちゃった方がいいと思うね」
「……こ、告白!?」
数秒考えて、一樹に言われたことを理解して顔が真っ赤になる。何か今日は真っ赤になってばかりだなぁ、僕。
――告白。則ち、今の自分の気持ちを相手に伝えることだ。いくら脳が紙飛行機に支配されているからと言っても分かる。体が感じている。――恥ずかしいという気持ちを、感じているのが、分かる。
「さすがにそれはちょっと……」
「あ? じゃあお前はずっと片思いでいるつもりか?」
「片思い……」
「お前は綺麗さっぱり柊さんのことを諦めるつもりか?」
「そんな……」
「お前に待っている道は2つだ」
一樹が指で数字の「2」を作って、数秒の間を空ける。
「告白して結ばれるか、告白せずに俺と付き合ってBL説を疑われるかの、2つだ」
「おい2つ目」
何その最強最悪のバットエンド。誰もが望まない誰得な展開だよそれ。
「いやー、可愛いなお前。不整脈を病気だと思ってたとは」
「だ、だって普通びっくりするだろ! 突然心臓が痛くなったっていうか……不安になるし」
「心臓が痛くなったんじゃなくて、胸が痛くなったんだよ。ま、病気って言えば病気の一種なんだろうけどな。――『恋の病』っていう、発展した化学力を使っても治せない、不治の病さ」
「恋の病なんて実在するんだな……。ドラマだけの世界だと思ってたよ、恋愛は」
「恋がドラマだけだって言うんだったら、この世に子供は生まれてこないことになるだろうが」
「……でも、どうして僕は柊さんのことを突然好きになったんだ?」
恋愛に疎い僕にはどうしても分からない。4月から同じクラスであった彼女を、半年以上経った9月に好きになるなんてどうもおかしいじゃないか。
――と、そんな疑問を口にしてみると、一樹は「お前は馬鹿だろう」と言わんばかりの表情で僕を見た。例えるならば、燃えるゴミの入ったゴミ箱が目の前でひっくり返ってそのままになっている状態を見るような、そんな目つきだ。
「お前は馬鹿だろう」
本当に言いやがった。
「今日一日を振り返ってみろ」
「起きて朝飯を食べた」
「巻き戻りすぎだ」
「お前が数学の時間に寝てた」
「ちっげーよ! 委員会の会議の時だよ!」
そしてあれは睡眠学習だ、と密かに付言しつつ、一樹がボルテージを上げて叫ぶ。
「会議……」
「不整脈が起こった時のことを振り返れって言ってんだよ」
やれやれコイツは面倒くさいぞ……と言いたそうな顔つきで一樹が言葉を吐き捨てる。言われた通りにして、僕の記憶が数時間前に飛ぶ。
不整脈は二度起こった。まず最初は、柊さんが僕の手を引っ張って教室に入った時だ。あの時は二人の心がシンクロしたというか……何と言うか、言葉にし難い快感を得た。
二度目の不整脈は、柊さんが本当の自分をさらけ出した人が、僕であったこと。僕に本当の柊さんを見せてくれて本当に嬉しかった。
「……幸せだ」
「そういうのはどうでもいいから。で、どんな時だったんだよ?」
どうでもいいのかよ……。僕は一樹に不整脈が起こった状況を一字一句説明してやる。
「なるほど。もうそれは完全な『恋』ですな。で、お前がどうして恋しちまったかって言うと、あれだよ。女子の可愛い仕草を自分に魅せられて、『あれ?もしかしてコイツ、俺のこと好きなんじゃね?』って勘違いする男子特有のアレが働いたせいだよ。
――で、好きな人に手を握られたりすると、自然と人はドキドキするもんさ。胸の鼓動が早くなるんだ。大体そういう現象が起こるのって女子なんだけど、女々しいなお前」
「うるせぇ!」
にやりと笑う一樹に思い切り怒鳴りつける。コイツに言われると何かものすごい屈辱を受けた気分になる!
「いやー、何度も驚くけど、都人が恋かー、時代は変わるもんだよな」
「そこまで僕は恋愛に疎かったのか……」
「疎いも何も、お前の恋の発展はまだ縄文時代だと思ってたから」
「16000年前!?」
疎いと実感していたのだが、まさかそこまでとは……。せいぜい昭和時代だと思っていた自分とはなんだったんだ……。
「お前のパソコンで『こい』って打ち込んで変換すると、魚の『鯉』になりそうだもんな」
「それは関係ないだろ」
「いやいや、実は結構関係あったりするかもよ? リア充は『恋』って言葉を使う機会が多いからな」
「時に恋愛マスター様」
「む?」
「恋愛マスター様は、さぞかしたくさんの女の子と付き合ったんでしょうね」
「うっ………………も、もちろんあるともー」
今呻いたよね。呻いたよね恋愛マスター。
「ふーん……」
今までの屈辱・恥辱をぶちまけるかのようににやにや笑う僕に、一樹は肉まんを食べきって、ペラペラの紙とレシートを一緒にゴミ箱の中に投げ入れる。
「ほら、もう夜も遅いし帰ろうぜ……?」
「やっぱり一人も付き合ったことのある女の子はいねぇのか……」
「うるせぇよ!」
「あはは、安心したわ。お前だけ先に行って欲しくなかったし」
「この野郎……お前のこと助けてやんねぇぞ?」
それは非常に困る。縄文時代を生きる人間が突然この平成の世の中に放り込まれれば路頭に迷うのは目に見えている。
「それだけは勘弁してくれ……! これが恋だと分かった以上、何としても恋を成功させたい……!」
「さっきと言ってること違うじゃねえか! 告白しねえんだろ!」
「お前がリア充経験したことないから僕が先にリア充になってみたいと思った」
「ふざけんなーっ!」
僕と一樹の小さすぎる子供のような言い争いは、帰路につくまで続くのであった。
◆◇◆◇◆◇
風呂上り、ぬくぬくと体の芯から温まって僕が自分の部屋へ入って、ふと机に目をやると、机の上に置かれているノートパソコンがスリープモードになっていることに気がつく。
社会の課題のためにインターネットで調べる必要があって付けたパソコンであるが、調べてスリープモードにしたまま風呂に入ってしまい、シャットダウンを忘れていたのだ。
「シャットダウン、シャットダウン……」
マウスを動かしてパソコンをシャットダウンさせようとした所で、ふと、さっきの一樹に言われた言葉が頭の中で再生された。
『お前のパソコンで『こい』って打ち込んで変換すると、魚の『鯉』になりそうだもんな』
「まさかそんなはず……」
僕はワードを立ち上げてから、キーボードに指を走らせる。「こい」と打ち込んでから、小さな緊張と共に変換キーを勢いよく押した。ッターン! と清々しい音が響いて、画面上で文字が変換される。
『鯉_』
「くっそ……」
いつか、一撃で「恋」と変換できるような男になろう。そう決心して、僕はパソコンの電源を落とすのだった――。