本気のキスに甘くすがって(R15版)5
「柚子のいいところは、誰に褒められなくても、人に尽くせるところだ。自分の頑張りを誰かが気付いてくれなくても、感謝の言葉をもらえなくても、それでも柚子は、自分じゃない誰かのために誠実に頑張れる。人が心地よく過ごせるように、自然と気にかけてやれる。見返りもないのにそれを続けるのは、普通の人には苦痛なんだよ。明確に報われなきゃやる価値もない、って思う人間は多い。でも柚子は、たとえ自分が報われなくても、人のために動ける。たとえ感謝されなくても、日々当たり前のように市民の生活に寄り添って支えないといけない地方公務員の仕事は、柚子に向いていると思うぞ」
「そう……でしょうか……っ」
なんだかずいぶんと大げさに褒められてしまったような気がして、柚子はいたたまれないと思った。自分は、そんなたいそうな人間ではない。賢人が言うようなことを、できている自覚もない。
「親父さんの価値観は、鞄だと思えばいい」
「鞄……ですか?」
賢人の言うことがすぐには理解できず、柚子は少しだけ間の抜けた表情になった。
「親父さんはこれまでの長い人生、その鞄を手に持ってずっと歩いてきたんだ。だからその鞄の中には、親父さんが生きるのに必要なものがあれこれと入っている。でもその鞄は、親父さん自身ではない。ましてや、柚子でもない。親父さんが柚子に価値観を押し付けてくるときは、自分が持っている鞄の中身を押し付けてきていると思えばいい」
「そんな……おかしなこと……」
「そう、おかしいだろ? おかしなことなんだよ。だから、気にしなくていい」
賢人がそう言うと、柚子は困ったような表情でくすっと笑った。
「柚子は柚子の鞄を持っているんだ。女には学が要らない、っていうのは、鞄の中に財布を入れるな、って言っているようなもんだ。そんなわけにはいかないだろ。逆に、柚子の鞄の中にも予備のネクタイを入れておけ、って言うのは変だろ。親父さんの価値観の押し付けは、とにかくおかしなことなんだよ。でも一方で、親父さんの鞄の中にも柚子の鞄の中にも、ハンカチやティッシュ、スマホや手帳……同じものも入っている。柚子が公務員になろうと考えているのは、親父さんの価値観に合わせたからじゃない。公務員はいいなと、きっとどこかで柚子自身が思ったからだ。たまたま同じ柄のハンカチが鞄の中に入っているようなもんだ。そういうふうに考えたら、少し楽になれるんじゃないか」
「なるほど……」
賢人にしては、ずいぶんと冗談めいた喩え話だ。失礼にもそう思ってしまったが、たしかに価値観を鞄に喩えると、少し違った気持ちで父の言葉を処理できるような気がした。
違う人生を歩み、違う鞄を持っているのに、その中身を全部父親と同じにするのはおかしな話だ。それを強要してくる父もまた、おかしな人だ。けれども、財布やスマホのように、同じものが鞄に入っていることは、何もおかしくはない。だから、父と同じものを選ぶということは、決して不自然なことではないのだ。
それに賢人の言うように、働きたい業界や職種が何も絞れないからこそ、逆に公務員はいいかもしれない。日々黙々と市民の生活を支えることは、「やって当然」と思われて、ろくに感謝もされないだろうが、自分はそのことを苦には思わない気がする。たとえ褒められなくても、やるべきことを淡々と行う。ストレスや不満なくそれを行えるのは、数少ない自分の強みのように思えた。それに、同じ地域に住む人々の生活を支えるということは、自分なりにやりがいを感じられるような気もする。
「それにな、柚子。エントリーシートとか面接とか、自分以外のみんなはできているように思えるけどな、みんなそれぞれ、うまく取り繕ってるだけだよ。本心は柚子と同じで、自分に足りないものと向き合うのを怖がってる。やりたいことなんて何もない、って思ってる奴も多い。立派なESを書いて、立派なことを面接で言って、立派な企業に就職できた奴がたった三カ月で辞めるなんて、よくあることだ。最初から名のある〝何者か〟だった奴なんて、ほとんどいない。最終的にはどれだけ長く、コツコツ、地道にその場で積み上げられるかだ。だから、まだ学生の柚子が空っぽでも、全然いいんだよ。そこを満たしていくのはこれからなんだ。まあ、一般企業の内定を勝ち取るためには、周りの奴らがやっているようにかなり取り繕う必要があるけど」
いびつだよな、この国の就職活動ってやつは――賢人はそう付け加えると、柚子の頭をやさしくなでた。
「よく言えたな。まだ言えていないこともあるだろうが……柚子がつらくて苦しいっていう弱音を言ってくれて……ちょっと安心した」
「安心……ですか?」
「ああ。お前はすぐ我慢して耐えるから、いつも心配だよ。どこかで限界がきて一瞬で壊れてしまいそうで……だから、こうしてちょっとでも、そのつらさを出してくれると安心する」
「でも……賢人さんは嫌ではないですか……こんな……学生の甘ったれた愚痴なんて……」
「全然? だって、相手が柚子だからな。ほかの女子大生の愚痴だったら絶対に聞かないが、柚子の愚痴だったらいつでも聞くよ」
賢人はそう言うと、柚子の唇に軽くふれるだけのキスをした。涙が伝ったせいか、ほんの少ししょっぱい。そのしょっぱさを舐め取るように舌をからめたいと思ったが、その欲望は抑えつけておく。
「まだ就活は続くが……頑張れそうか」
「はい……たぶん……」
「我慢の限界がくる前に、つらくなったら言えよ。電話でもいいし、メッセージだけでもいいし……いつでも柚子の味方でいてやるから」
ふと賢人は、そんなことを異性に言うなんて、ずいぶんと自分は変わったなと思った。一年前――柚子と出会う前の自分なら、決してそんなことは言わなかっただろう。女性の愚痴なんて、聞いたところで全部スルーしていただろうし、なんなら鬱陶しくてかなわない、とすら思ったかもしれない。こんなふうに異性をいたわる気持ちなんて、以前の自分はまったく持ち合わせていなかったはずだ。
けれど、柚子のことだけは本当に特別だ。できれば彼女には苦しんでほしくないと思うし、それでも頑張るというのならこうして応援してやりたい。柚子が自分を頼って弱音を吐いてくれると安心するし、そんな柚子を無条件に甘やかしたくもなる。
「賢人さん……ありがとうございます」
乾き途中の涙を全部ティッシュで拭いて、柚子はややぎこちない笑顔になった。
胸の中に抱えていたものを、全部出せたわけではない。賢人からもらった助言も、うまくこの先に活かせるかはわからない。エントリーシートを書くつらさも、面接で受け答えする際の違和感も、たぶん、今すぐ変わるわけではない。
ただ、賢人に対して情けなさを吐露できたこと。これまで他人に対してできなかった、弱音を吐くということ。それができた自分は、きっと以前の自分から少し変わった。情けなくて弱い姿のはずなのに、それを人に見せられた自分は、逆に少し強くなれたのではないかと思う。
大人の賢人に少しでも釣り合うように、少しずつでもいいからこうして、変わっていきたい。自立した大人になって、彼と同じ目線を持ちたい。その意欲を胸に、試験と就活に挑もう。
そう思いながら、柚子は自分からも賢人の唇にキスをした。心の底から賢人を想う、本気のキスを。




