白い結婚だけど、夜に手だけは握ってほしいらしい
「リリア、君との婚約を破棄させてもらう」
ヴァレンシュタイン伯爵家の屋敷までわざわざ訪ねてきて、アルベルトはそう告げた。
伯爵家令嬢のリリア・ヴァレンシュタインはため息をついた。
どうせこんなことになるだろうとは思っていたが、それが現実に起こったとなると、やるせない気持ちを抑えることはできなかった。
「ローゼンフェルト家の財産目当てで僕に近づいたことが判明した以上、君と結婚することはできない」
まるで判決のようだ、とリリアは思った。
「君の父上が、嫁入りの支度金として、法外な金品を要求してきた。僕は何かの間違いだと思ったんだ。君がそんな浅ましい人だとは思っていなかったからね」
その言い方が何か気に障り、それを要求したのは父の独断だとリリアは言いたかったが、そんな反論をしたところで、惨めなだけだと思ってやめた。
相手が誰であれ、まともに考えれば、ヴァレンシュタイン伯爵家はよほどの強欲か、よほど困窮しているか、どちらかだと思うだろう。そして、いずれにせよ、まともな家ではないと考えるはずだ。
「でもね、失礼ながら、いろいろ調べさせてもらったところ、ヴァレンシュタイン家は財政が破綻しかけていることがわかったんだ。それで確信せざるを得なかった。君たちの目的は金なのだと」
実際のところ、ヴァレンシュタイン伯爵家は破綻の危機に瀕していた。
伯爵家の握る権益による収入源は、関所での通行税や交易品にかかる税なのだが、辺境の戦争の激化により、関所を通る者が激減していたのだ。
父アウグスト・ヴァレンシュタインの財政管理の杜撰さもあり、瞬く間に財産は底をついてしまったのだ。
「……私はそんなつもりはございませんでしたが、仕方ありませんね」
別にアルベルトに愛情があったわけでもない。婚約破棄を受け入れること自体に気持ちの抵抗はない。
「婚約破棄を受け入れます」
ただ、今後の伯爵家のことを思うと気が滅入った。
「そうか、理解してくれて助かる。拒否したところでどうにもならんが、直接君に言うべきと思ってな」
「父はすでにこのことを知っているんですね」
「ああ、すでに話してある。なんでも、次の縁談を用意してあるそうだ」
「は?」
リリアは思わず声を上げてしまった。父はどうやらなりふり構っていないようだ。
「呪われた辺境伯だそうだ。いいじゃないか。君にお似合いだ」
アルベルトが意地の悪い笑みを浮かべた。
——王都から辺境に行かなければならないことがどれだけ屈辱的なことか……しかし、そうだ、アルベルトはこういう嫌味な人だった。こんなやつと一緒になるくらいだったら、辺境伯のほうがまだましかもしれない。
「せいぜいがんばってくれ」
そう言い残し、アルベルトは去っていった。
※
アルベルトが言ったとおりだった。
父のアウグストはなりふり構わず、手当たり次第に金持ち貴族家にリリアの縁談を持ち込み、軒並み断られ、ついには辺境にまで縁談を持っていったのだった。
その中で唯一、遠縁の辺境伯家の若き当主、レオンハルト・アイゼンヴァルトが縁談を受け入れてくれたとのことだ。
ただし……
「白い結婚が条件だそうだ」
父は悪びれる様子もなくそう言った。
「白い結婚? なぜですか?」
リリアは不審に思い、父に尋ねた。
「知らん。そんなことはどうでもいい。おまえはヴァレンシュタイン家のために嫁げば良いのだ」
父がこんな調子だから、伯爵家が傾いたのではないか、とリリアは心の中でため息をついた。
「どんな方なんでしょう……あ、お父様に聞いたわけではないですよ。どうせ知らないでしょうから」
「アイゼンヴァルト辺境伯家は我がヴァレンシュタイン伯爵家の遠縁だぞ。覚えとらんのか? 子供の頃に何度かレオンとは会っているはずだぞ」
リリアは怪訝な顔をした。レオンという名に聞き覚えがあるような気もしたが、はっきりと思い出せない。
リリアが子供の頃はヴァレンシュタイン伯爵家は、先代のルドルフ・ヴァレンシュタイン伯爵の辣腕により、伯爵家は社交界でも一目置かれるほど力を持っており、屋敷にも多くの来客があった。親戚や遠縁だかそういった類の有象無象の中に「レオン」はいたのだろう。
レオンについては思い出せなかったが、「アイゼンヴァルト辺境伯」について、一つの噂を思い出した。
「呪われた辺境伯……」
リリアがそう呟くと、即座にアウグストが反応した。
「迷信だ。気にするな」
誰もが気味悪がって、近づかない辺境伯。アウグストはそこに漬け込んだのだ。
「黒夜の辺境伯」の異名を持つアイゼンヴァルト辺境伯は呪いにより、夜になると人格が変わり、絶大な力を持って人を殺して回るという謂れがあった。
そんな辺境伯に好んで嫁入りしようとする者などいるはずがなかった。好んで娘を嫁がせようという親もいないだろう。
唯一の例外が、追い詰められたヴァレンシュタイン伯爵家だったというだけだ。
※
婚姻の手続きは恐ろしいほど早く進んでいった。アウグストがいち早く支度金を手に入れたがったこともあるだろうが、先方のアイゼンヴァルト辺境伯もそれほど急いでリリアを受け入れたいということでもあるのだろう。
アイゼンヴァルト家の用意した馬車に乗り、リリアは住み慣れた王都を後にした。辺境に赴くようなことになる人生など想像もしていなかった。
馬車が進むにつれ、王都にあった華やかさのようなものが薄れていくのを感じ、リリアの不安は大きくなっていった。
すっかり人家も周りになくなった荒野に、その屋敷はあった。
屋敷の建物は古風ではあったものの広大で整備がされており、アイゼンヴァルト辺境伯家が力のある貴族であることを感じさせるものだった。
当主のレオンは新妻のリリアを出迎えるため、わざわざ門にまで出てきて待ち構えていた。
王国の軍服を身に纏い、銀髪をなびかせたその男性は、どこか疲れ切っているようにも見えた。鉄のような色の瞳はリリアをまっすぐ見つめており、それが何か残忍で怜悧な魔物を思わせた。
それは「呪い」の信憑性を裏付けるような風貌であった。
馬車を降りたリリアは、不安をより一層強めていた。
「よく来たな。俺がレオンハルトだ」
その事務的な調子の言葉は心から歓迎しているようには聞こえなかったが、攻撃的でもなかった。
今すぐ取って食おうというわけではないか、と思いながらもリリアは警戒心を解くことはできなかった。
「リリアです」
レオンはわかっている、というように頷いた。
「今日からおまえはリリア・アイゼンヴァルトだ」
そうだ、自分は父に売られ、アイゼンヴァルト家に囚われた娘なのだと改めてリリアは自覚し、「はい」と小さく答えた。
それからレオンはリリアを屋敷に迎え入れ、自ら案内した。
屋敷の内装も質素ながら、広大で美しいものだった。広間から食堂や執務室など、主要な部屋を回った。質の高い内装や調度品などに、リリアは感嘆した。
すれ違う執事や侍女たちも、品位と礼儀があるように思え、不思議な感動を覚えた。
「ここが寝室だ」
寝室……。それを聞いてリリアは現実に引き戻された。この結婚の一つの重要な条件を思い出させたのだ。
「これは白い結婚なんですよね?」
リリアの問いに、レオンが彼女の顔を見て答える。
「そうだ」
「何か理由があるんですか?」
「君が知る必要はない」
レオンは冷たく言い放った。
そして少しの間、私の反応を伺うように待っていた。
「もう一つの条件についてはどうだ?」
リリアは戦慄した。「白い結婚」以外にも条件があったのか?
——あまりに恐ろしい条件だから、父はリリアに事前に伝えなかったのではないのか……
「もう一つの条件とは何のことでしょう?」
「何? 聞いていないのか?」
その時、初めてレオンは戸惑ったような、いや、何か恥ずかしがるような表情をした。
リリアはその表情が少し可愛い、と思った。
——しかし、相手は呪われた「黒夜の辺境伯」だ。油断してはいけない。
「聞いておりません。どのような条件でしょう?」
レオンは答える代わりに赤面する。
「くそっ、アウグスト伯はなぜ伝えていないのだ」
「何なんですか……?」
レオンは観念し、聞き取れないほどの声で何か呟いた。
「…………を……ほしい」
「え? 何ですって?」
「夜に手を繋いで寝てほしいのだ!」
真っ赤な顔で叫ぶレオンとその内容に驚いて、リリアは固まってしまった。
しばらくすると何かおかしくなってきて笑ってしまった。
父は、きっとどうでもいいと思ってリリアにそれを伝えなかったのだと思った。
「いいですわ。手を繋いで寝て差し上げます」
レオンはまだ顔を赤らめたまま、「ありがとう」と呟いた。
※
その日、リリアは豪勢な食事でもてなされた。伯爵家では口にしたことがないような料理も出て、どれもおいしかった。
食事中もレオンは無愛想で、一言も話さなかったが、リリアがおいしそうに食べる様子を見て、満足しているようでもあった。
リリアも、想像していたのと異なるよい待遇に、歓迎されているのだと感じた。
そしてときおり「手を繋いでほしい」と顔を赤らめるレオンを思い出し、笑みが溢れた。
食事を終えると、レオンは席を立ち、リリアには今日はゆっくりするように言った。
リリアは言われたとおり、紅茶を飲みながらくつろいだ。
時間ができるといろいろなことがリリアの頭に浮かんでくる。
「白い結婚」にも関わらず、手は繋ぎたいというのはどういうことなのだろう。いくら考えてもまったく理解できず、何も浮かんでこない。
ともかく伯爵家に残るよりは生活が安定しそうで、リリアの当初の不安は薄れてきていた。
リリアは湯浴みを済ませると、夜着に着替えて、いよいよ寝室に入った。
そこにレオンがベッドに座って待っていた。
レオンも湯浴みの後のようで、横に置かれたランプの灯りに、少し湿った銀髪が艶めかしく光っていた。
「白い結婚」なのだから緊張する必要はない、とリリアは自分に言い聞かせた。
——でも手は繋がなければならないのよね。もし、レオンが本当に呪われているのだとしたら、その接触を通じて呪いが感染したりしないのかしら。
そう考えるとリリアは急に緊張してきた。
「どうだ、リリア。ここでやっていけそうか?」
レオンが尋ねてきた。
「はい、ヴァレンシュタイン伯爵家よりもずっとよい生活ができそうですわ」
リリアはぎこちない笑顔を返した。
「そうか……なんだ、緊張しているのか? そんな必要はない。何もしないんだ」
レオンが怪訝な顔をして言った。
「はい、わかっています。でも……」
「ああ……」
レオンがまた少し顔を赤らめた。
「大丈夫だ。それは君に何の害も与えない。……だが、どうしても嫌ならしなくてもいい」
そう言って、レオンが寂しそうに俯いた。
リリアはそんなレオンを見て、何かいたたまれない気持ちになり、覚悟を決めた。
「いえ、大丈夫です」
リリアはベッドに入り、横になった。それに合わせ、レオンが手元のランプの明かりを消し、横になる。
真っ暗になった寝室は「黒夜」の辺境伯の異名を思い出させ、リリアはまた少し慄いた。
ただ月明かりだけが弱々しい光を室内に運んでいた。
「では……」
リリアは天井を見上げながら、レオンの手を探った。
と、すぐに手のひらどうしが当たる。
意を決して、リリアはその手をそっと握った。
レオンの手は冷たかった。何かそれを不憫に思い、リリアは温めてあげたいと思った。
思えば、そんなふうに男性の手を握るのは初めてで、リリアは恥ずかしいような、愛おしいような気持ちになった。
リリア自身の身には何も起きていないようだった。
——呪いなんて迷信だったんだ。
リリアは胸を撫で下ろし、手を繋ぐことで芽生えた愛おしさを噛み締めた。
リリアはなかなか寝付けなかった。
慣れていないベッドということもあったが、それ以上に、隣に別の男性がいて、手を繋ぎ続けていることが、リリアの緊張と興奮を次第に増幅させてしまっていた。
夜目に慣れてきて、寝室に差し込む月明かりがうっすらとレオンの顔を浮かび上がらせた。
すると、レオンもまた穏やかなどころか、苦しみに耐えるような苦悶の表情になっている。そして、「うぅっ」と小さな呻き声まであげた。それは、リリアの感じていたような緊張と興奮によるものとは明らかに違っていた。
リリアはとっさに守らなければと、レオンの手を強くしっかり握った。レオンの手も反応し、リリアの手を握り返してきた。
そうしていると、レオンの表情は次第に落ち着きを取り戻していき、やがて静かな寝息を立てるようになった。
リリアは安堵し、手の指をしっかりと絡ませたまま、やがて疲労がどっと押し寄せ、眠りについた。
※
翌朝、目が覚めると、隣にレオンの姿はなかった。窓からは明るい日の光が入ってきていた。
リリアは慌てて起き上がり、ガウンを羽織って寝室を出た。
食堂にレオンがおり、上機嫌な様子で紅茶を啜っていた。
リリアの姿を認めると笑顔を浮かべていた。
「おはよう、リリア。と言ってももう昼か。
よく眠れたみたいだね。昨晩はよくやってくれた。ありがとう」
リリアは何を感謝されているのかよくわからず、曖昧に笑顔を返した。
それからもリリアは辺境伯家で何不自由なく過ごした。
ときおり屋敷の広大な敷地を散歩したり、外出して辺境の自然を見て回ったりもした。
レオンは執務を行うでもなく、領民も見当たらず、ときおり町から物資を運ぶ荷馬車や、王都の役人が面会に来る程度だった。
リリアは法外な嫁入りの支度金を払ったり、不自由のない生活をするのに、どこから収入を得ているのか不思議に思った。
そしてリリアは、夜には毎日必ずレオンの手を握って寝た。
出会った当初は疲れ切った様子のレオンだったが、日に日に顔色がよくなり、活力を取り戻しているようだった。
リリアのレオンに対する気持ちもまた、日に日に温かいものになっていき、噂されていた「呪い」のこともすっかり気にならなくなっていた。
そんな明るい日々が続く中、不穏な報せがリリアの耳に入った。
——隣国の大群が王国に迫っている。
※
レオンは報せをもたらした使者を帰し、振り返った。
リリアは不安そうにレオンを見つめていた。
「どうするんですか?」
「ああ、聞いていたか。心配ない。ただいつも通り過ごしていればいい」
そう口にしながらも、レオンの表情は暗いものだった。
「でも……隣国の軍が攻め込んでくるのであれば、この辺境が最初に狙われますよね? 辺境軍は勝てるのでしょうか?」
レオンは虚をつかれたような顔をした。
「辺境軍? そんなものは存在しない。いいから、リリアは気にするな。……いや、君は俺のことだけ気にしてくれていればいい」
そう言うレオンが何か壊れてしまいそうで、愛おしくなり、リリアはレオンに駆け寄り、その手を取って握った。
レオンは小さく微笑んだ。
「そうだ。君はただ俺の手を握っていてくれ。そうすればすべてうまくいく」
※
その夜、いつも通りリリアはレオンの手を握って寝た。
しかしその日はレオンの様子がおかしかった。
リリアが手を握っていても、苦悶の表情で大きな呻き声をあげていた。
「旦那様、大丈夫ですか?」
リリアが声をかけてもレオンは苦しそうに呻き声を上げ続けるだけだった。意識はないようだった。
「レオン様!」
リリアは思わず大声を上げた。
すると、レオンの体に覆い被さるように女の姿が立ち上ってきた。
長い黒髪の、怪しい美しさの女だった。
女は、その漆黒の瞳でリリアを睨んだ。
悪霊だ、とリリアは直感した。「呪い」の噂は本当だったのだ。
リリアは恐怖に身体を動かせなくなり、一瞬レオンの手を離してしまった。
その瞬間、レオンが「ぐああああ」と大きな声を上げ、のたうちまわった。
そこでリリアは我に返った。ここで逃げてはいけないような気がした。レオンを一人で残したらもっと恐ろしいことになる気がした。
何よりもレオンを失うことが、リリアにとってもっと恐ろしいことのように思ったのだ。
リリアは再びレオンの手を取り、両手でしっかり握った。
「足りない」
女のその艶かしい声は、耳を通してではなく、直接リリアの頭に響いてくるようだった。
リリアはレオンの手を強く握ったまま、再び目を開き、女を見た。
女はレオンの額に口をつけ、何かを吸うようにしていた。
「何をしているの!?」
リリアは女に怒鳴りつけたが、女は微動だにせず、レオンの額を吸い続けた。
やがてレオンから離れると、不気味な笑みを浮かべた。
「今日は特においしかったわ」
女がそう言ったかと思うと、遠くで多くの人の悲鳴が聞こえたような気がした。
女の黒い瞳から、何かの光景が見える気がした。
夜の闇の中、兵士たちが闇より黒い影に追われ、食い殺されていくような光景……
リリアは再び目を閉じ、レオンの手を握り直し、強くレオンの無事を祈り続けた。
※
リリアは一睡もしないまま祈り続け、やがて窓からは日の光が差してきた。
その光を受けて、レオンが眩しそうにして、目を開けた。
リリアはそれを見て思わずレオンに抱きついた。
「リリア……眠らなかったのか……?」
レオンの肩で、リリアは啜り泣いていた。
レオンはリリアに手を回し、背に触れた。
「あれを見てしまったんだね。今回は特別大きな力が必要だったから顕現したのか……。でも俺は無事だ。きっと君のおかげなんだろうな」
「何も覚えてらっしゃらないのですか?」
「ああ……見てしまったなら……いや、そもそも君には最初から話しておくべきだったな」
そう言ってレオンが身体を起こし、リリアの顔を見て話した。
「君が見たものは『悪夢喰』という夢魔の一種で、上位魔族だ。アイゼンヴァルト辺境伯の家の当主は代々その呪いを引き継いでいてね。先代が亡くなってから俺も毎晩のように悪夢を見て、『悪夢喰』に喰わせているのだ」
「そんな……それで毎晩うなされていらっしゃるのですね」
レオンが頷く。
「夢は喰われてしまうから、覚えてはいないんだがね。それでも毎朝起きると強い疲労感と倦怠感があった。夢も精神と肉体に強い影響を受けるからね」
「そんな恐ろしい呪いが……」
心配そうにレオンを見るリリアにレオンは優しく微笑む。
「でもリリアが来てから、それが和らいでいった。君が手を握ってくれるおかげで、悪夢にも強く立ち向かえるようになったと思う。本当にありがとう」
リリアは首を振る。そして気になっていたことを尋ねた。
「ひょっとして、その呪いが『白い結婚』とも関係があるのですか?」
レオンは少し躊躇ったが、やがて口を開いた。
「ああ、そうだ。『悪夢喰』は伝染する。関係を持った相手にね。だから代々、アイゼンヴァルト辺境伯の妻も『悪夢喰』に苦しめられ、衰弱して早逝することも少なくなかった。でも俺は君を悪夢で苦しめたくないから、『白い結婚』を条件にしたんだ」
リリアは少なからず驚いた。「白い結婚」はリリアを遠ざけるものではなく、リリアを守るためのものだったのだ。
「そうだったのですね……。でもなぜ私のことをそんなに気遣って大事にしてくださるのですか?」
そのリリアの問いに、またレオンは少し躊躇ってから答えた。
「……君は覚えていないかもしれないが、俺はずっと君のことが好きだった。子供の頃にヴァレンシュタイン伯爵家に訪ねたときに、誰からも気味悪がられていた俺の手を取って、何も気にせず遊んでくれたんだ。その時からずっと君の手の感触と温もりが忘れられなかった。アイゼンヴァルト家を継いでからもその気持ちは変わらなかった。
そこに先日お父上が縁談をお持ちくださって……本当は『悪夢喰』のこともあったから迷ったんだが、ヴァレンシュタイン家も困っていたようだったから『白い結婚』を条件に縁談をお受けさせてもらった」
リリアはそのことをはっきりと覚えていなかった。しかし、ヴァレンシュタイン家が華やかだった子供の頃は天真爛漫で、誰とも仲良くしていたことは覚えている。その中にレオンもいたのだ。
「それなら最初から仰ってくれたらよかったのに……」
「不安に思わせたくなかったんだ……」
リリアはレオンの優しさに触れた気がして、また彼を抱きしめた。
※
その翌日、アイゼンヴァルト辺境伯家の屋敷に、行列での客がやってきた。
その行列を率いてきたのは、国王フリードリヒだった。
リリアは何が起きているのかわからず戸惑いながら、レオンとともに国王を出迎えた。
「この度は隣国の大軍を殲滅してくれたことを直接讃えて褒賞を渡したくてな、来てしまった。今回はどうなることかと思ったが、よくやってくれた。この王国はアイゼンヴァルト家のおかげで外憂に悩まされず、繁栄しているようなものだからな。
美しい妻も娶ったようで何よりだな、これからもよろしく頼むぞ」
国王は一方的に謝辞を伝えて、従者らに大量の金や宝玉などを運ばせると、嵐のように去っていった。
「何だったのでしょう? なぜこんな褒賞まで……」
そう言うリリアに、レオンは不思議そうな顔をしたが、何かに気づいたように言った。
「そういえば『悪夢喰』についてちゃんと話していなかったか。
やつは俺の悪夢を喰う見返りに、この辺境を脅かす敵や魔物を撃退してくれるのだ。あの日は強い悪夢だっただろうから、近くに駐留していただろう敵軍は一息に殲滅させられたはずだ。国王自らいらっしゃるということは過去にないほどの危機だったのかもしれないな」
「……そうだったのですか。でしたらアイゼンヴァルト家は王国の守り神ですね」
「君のおかげだよ、リリア。今回は特にね」
そうして二人は微笑みあった。
※
国王自らの訪問もあり、アイゼンヴァルト辺境伯家の噂は王都でも大きな話題となったようだった。
何日か後、リリアの父アウグストから書状が届いた。
褒賞の話を聞いたのか、何も取り繕うことなく、金の無心をする内容だった。
その書状を読んだリリアは、レオンに何も告げず、ただその紙を破り捨てた。
書状の紙は王都の貴族のものとは思えないような粗末な紙だった。きっと支度金も借金返済と散財ですぐに消えてしまったに違いないと思った。
ヴァレンシュタイン伯爵家はもう終わりだ。あんな家を残しても仕方がないと思った。アイゼンヴァルト辺境伯家と比べると、まるで王国に巣食う害虫のように思えた。
そしてまたその翌日に、ローゼンフェルト侯爵とその令息のアルベルトが訪ねてきた。
アルベルト——リリアの元婚約者だ。
リリアはアルベルトと顔を合わせるのが嫌で、応接室の外で隠れて会話を聞くことにした。
「ぜひ我がローゼンフェルト侯爵家と懇意にしていただきたいと思い、伺いました。奥方のリリア様と愚息のアルベルトは、以前、婚約者で仲良くしていた縁もございます」
侯爵はレオンと面会するなりそう言った。
王都でも高名となったアイゼンヴァルト辺境伯家と関係を使って、王都での地位を高めようという意図が感じられた。
そのために以前、婚約関係にあったリリアを利用しようと言うのだ。
レオンは一つ咳払いをしてから口を開いた。
「妻のリリアをずいぶんと侮辱されたと聞いています。直ちにお帰りいただきたい」
「いや、そんなことは……」
アルベルトが言い訳をしようとすると、レオンがローゼンフェルト侯爵とアルベルトに向かってすごんだ。
「俺の力はご存知ですよね。お帰りいただけないのであれば、ローゼンフェルト家をアイゼンヴァルト家の敵と認めますよ」
怯えたアルベルトが応接室の外に出てくると、そこには怒りに満ちた表情をしたリリアが立っていた。
アルベルトは「ひっ」と情けない声を出して悲鳴を上げ、走って逃げていき、後から慌てたローゼンフェルト侯爵が令息を追っていった。
二人の姿が見えなくなると、リリアは大笑いを始めた。
その後、リリアの父のヴァレンシュタイン伯爵家とローゼンフェルト侯爵家は、ともにアイゼンヴァルト辺境伯家を怒らせたという噂が広まったことで社交界でも距離を置かれるようになり、静かに衰退していくことになる。
※
「君の手はとても落ち着く。それは魔力なんかよりもよほどすごい力だと思う」
食後の紅茶を飲んでいたレオンが唐突に言った。
「ふふっ、そうでしょう?」
リリアが微笑んで返した。
「……私、旦那様の呪いを引き受けたいと思うの」
レオンが口に含んでいた紅茶を吹き出した。
「それはどういう……」
「旦那様の言うとおり、私には特別な力があると思うんです。だからきっと『悪夢喰』にも負けないですわ。それにアイゼンヴァルト家を途絶えさせるわけにもいかないですし……」
「『白い結婚』の契約を解消するということか?」
リリアは顔を赤らめて頷いた。
「しかし……」
「心配しなくても大丈夫です! 私がそうしたいんです」
リリアが今度は怒ったように強く言った。
「……ありがとう。いつか『悪夢喰』がいなくてもよい世の中になるといいんだがな」
レオンの指先が、無意識に動く。リリアの手を探しているようだった。
リリアはそっと手を伸ばし、レオンの手の上に重ねた。
レオンの手は冷たい。けれど、リリアの手が温めてくれる。
「では、旦那様が私の手を探さなくても眠れる夜が来るようにしましょう。魔物も隣国も滅ぼしてやりますわ」
リリアは笑って言う。
「それはやり過ぎだよ」
レオンも笑う。
「それに、そんな日が来ても君の手を繋いでいたいな」
そう言ってレオンはリリアの手を握り返した。
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