【契約の答え合わせ】
――翌朝。ガルドの部屋。
朝食はあと。今はテーブルに向かい合って座っていた。
柔和な魔術師は、契約当初と変わらない笑顔で……そこにいた。
ガルドは己を恨んだ。元来慎重な性格だった。
『ひと月、付き合う』……そう試すように問いかけたのは、他でもない自分自身で。
『見限られれば、それまで』と、微笑みながらそう言葉を返したのは、他でもない、目の前の彼だった。
あの時のルシアンの笑顔は、今のガルドからしてみれば”仮面”で……今目の前にある笑顔も、それと、同じものだった。
「まずは、ひと月分の契約金の残りを」
小さな革袋が、木のテーブル、ガルドの面前に置かれた。
契約当初に渡された、試し金の金貨一枚。恐らくこの中身は、金貨四枚。あわせて金貨五枚が、この一か月の旅の護衛金だった。
…………手が、動かなかった。
これを受け取れば、全てが終わるように感じて……軽い小さな袋が、とてつもなく重く感じた。
そして、それきりルシアンは口を閉ざす。
ただ言葉の代わりに、ルシアンは自分のすぐ目の前に、同じ大きさの革袋を置いた。カチャリ、とかすかに音が鳴る。
”次”がそこに入っていることは、……明白だった。
終わりにするならば、手元の一つだけを取ればいい。続けるならば、二つの革袋を取ればいい。
ただその二つ目の袋は、手を伸ばせば届きそうで、届かない位置にあった。
しばし赤い瞳は、じっと袋を見ていた。まるで、それが爆ぜるのを待っているかのように。
息を飲むでもなく、言葉を吐くでもなく。ただ、右の手がわずかに震えそうになるのを押し殺していた。
――ひとつき。
特に意味のない旅路になる予定だった。気まぐれの依頼、試しの契約、暇つぶしの旅。
いつ終わってもいいと思っているはずだった。物好きに付き合ってやるんだと、たかをくくった。
けれど……、このひと月で、この男の背中を、何度と見た。微笑みを、幾度と受け取った。
沈黙を、何度もともにした。送り、託し、守り、揺らぎ、並び立ち……そのすべてを“護衛”で割り切れるほど、自分の頭は単純ではなかった。
(……俺、は)
ただの雇われ護衛か。それとも、もう少しだけ――……。
無言のまま、左手がゆっくりと伸びた。目の前の袋を掴む。チャリ。
……中で金貨がわずかに鳴った音が、部屋の空気を揺らす。……気がした。
そして――ためらいも、迷いも、吐き出すように、右の手で、もう一つの袋を、ぐっと引き寄せた。
ルシアンの顔は見なかった。だがその指先は、静かに袋を手中へ押し込む。……それが答えだった。
口になどしなかったが、言葉より重い、継続の意思。だが確かに、ガルドの前に座る男の目元が、ふわりとわずかに柔らいだ。
ガルドの大きな手の中に、金貨の袋はすっぽりと収まっている。ほ、と小さく息を吐いたのはルシアンで、……次の言葉が出てくるまでに時間がかかって、それが安堵の息だったことに気づいた。
「……ありがとう、ガルド」
そう言って微笑んだルシアンの顔は、この旅の中で、確かにガルドだけに向けられていた笑顔だった。
安堵や信頼を滲ませる、柔らかな微笑み。他の者には、決して向けられない、顔。
「試すようなことをしてすまなかった。……もう二度と、私からこんなことはしない」
「…………」
……ガルドは、――何も答えられなかった。
それは暗に、”二度と”ルシアンから手放すことはない、と……そう言われているようで。
手放すとすれば、それはガルドからだと、そう言われたも同然だった。
小さく舌打ちをする。
苛立ちからではなく、それほどに、必要とされていたのかという、照れ。
「……朝飯は」
ぶっきらぼうに言えば、ルシアンがおかしそうに微笑んだ。そのままに、そっと立ち上がる。椅子がきぃ、と小さく音を立てる。
全ての所作が、ただひたすらに、あまりにも自然だった。ここにいるということが、なにも特別ではないというように。続くことが、当然のように受け止められているふうに。
「朝食は一階の食堂でいただこうか。支度も終わっている頃だと思う」
柔らかな言葉とともに、ルシアンは振り返ることなく、部屋の出口へと歩を進める。
扉の前で立ち止まり、――ほんの少しだけ、肩が傾ぐ。
待っている。何も言わずに。
ガルドは、まだ手の中にあるままの袋を見下ろした。二つ目のそれが、いまや当たり前のように、そこにある。
……こともなげに、無造作に、煙草と同じポケットに突っ込んだが、……特別重たく感じた。
「……行くぞ」
淡紫の背中にそれだけを投げれば、その肩はわずかに揺れた。
振り向きはしない。けれど、足音が二つ、再び並んで廊下を進み出す。
少しでも早く、日常に戻りたかった。奇妙で、優雅で、振り回される、物見遊山に。
選ばれたのがどちらだったのかは、もうわからなかった。
――【契約の答え合わせ】




