路地
裏口を出た瞬間、冷たい空気が肺に刺さった。
夜。路地。湿ったアスファルト。遠くにサイレン。
背後では、拠点の正面口が破られる音。
金属が鳴って、人が怒鳴る。
「裏だ! 逃げたぞ!」
速い。
こいつら、段取りが良すぎる。
女が先に走り、角を曲がる前に俺の腕を引いた。
「ライトは使うな。位置が割れる」
「分かってる」
スマホの画面は、セーフモードのまま。
コマンドボタンと投票だけ。
【ライト】
【盾】
【煙】
【楔】
【隔離】
右上に小さく表示。
《イベント保護:有効》
《通報影響:無効》
《支持率:計測対象=コマンド投票》
……よし。
ここでは“言葉”が刺さらない。
代わりに、投票が命を支える。
画面の投票が一気に【隔離】へ寄っている。
視聴者の判断が、俺と同じ。
俺は息を吐いて言った。
「採用、隔離」
投票が確定する。
《採用コマンド:隔離》
《具現化枠 消費:1》
《具現化 残り:0/3》
空気が、また“膜”になる。
路地の音が遠くなる。街灯の光が少しだけ鈍る。
……完全な透明壁じゃない。位置の“手がかり”を削る感じ。
管理局の男が背後を振り返り、無線で怒鳴る。
「本隊、裏路地方面! 黒いバン一台、他二名。追跡中!」
追ってきてる。
黒い影が二つ。確かに動いていた。
角を曲がると、細い通路がさらに細くなる。
ゴミ箱、フェンス、段差。逃げるには最悪。追うには最適。
「こっち!」
女が手招きし、フェンスの隙間を抜けた。
俺も続く。盾を前に。
若い男が「うわっ」と声を上げて転びそうになるのを、管理局の男が引っ張った。
「声出すな!」
「む、無理だって……!」
そのとき、後ろから軽い足音がした。
人間の足音。走り慣れてる。しかも近い。
次の瞬間、フェンスの向こうにライトが差し込む。
眩しさじゃない。狙うための光。
「止まれ」
低い声。
同時に、金属が鳴る。スタンガンみたいな高い音が混じった。
女が即断する。
「煙!」
俺が言うより早く、画面の投票が【煙】に振り切れた。
《採用コマンド:煙》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
白い煙が、路地全体に薄く広がる。
さっきより濃い。視界が二、三メートルに落ちる。
ライトが拡散して、相手の位置がぼやける。
「チッ……!」
敵の舌打ち。
近い。煙でも距離は消せない。
管理局の男が叫ぶ。
「走れ! 交差点まで出ろ!」
女が言う。
「交差点は監視カメラが多い。逆に安全」
「なら出る!」
俺たちは走った。
煙の中、盾を構えながら。
画面の投票が【盾】に寄る。
俺は息を切らしながら言った。
「採用、盾」
《採用コマンド:盾》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
透明な盾が強く“固定”される感覚。
腕に吸い付くようにフィットして、走ってもブレない。
次の瞬間、背後でパスッという音。
――何かが飛んだ。
俺は反射で盾を後ろに向けた。
――コンッ。
小さな衝撃。
金属片が盾に当たり、地面に落ちた。
「針……?」
女が吐き捨てる。
「追跡用のタグ」
管理局の男が無線に叫ぶ。
「追跡タグ、使用! 回収しろ!」
若い男が叫ぶ。
「配信でこんなことしていいのかよ……!」
「いいわけねぇだろ!」
俺は歯を食いしばった。
D-ストリームは、“現実”で落とすと言った。
本当に来た。
画面の投票が、次は【楔】に寄る。
楔? 路地で?
コメント欄はない。説明はない。
でも視聴者は、何かを見てるのかもしれない。
俺は視線を上げた。
路地の先、古いシャッターの下に、細い隙間。
その奥が暗い。――人が通れそう。
「……隠し通路か」
女が同時に気づいた。
「入れる!」
投票が確定。
《採用コマンド:楔》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
手の中に、金属の楔。
俺はシャッターの隙間に突っ込み、盾の縁で叩き込んだ。
――カンッ!
楔が噛み、シャッターがわずかに持ち上がった。
十分だ。人が潜れる。
「入れ!」
俺たちは順に潜り込む。
中は狭い倉庫みたいな通路で、奥に非常口の表示。
背後で足音。
敵が煙の中から追ってくる。
「そこだ!」
ライトが差し込んだ瞬間、俺は盾を正面に向けた。
また、パスッという音。
今度は二発。
――コン、コン。
盾が受ける。
床に金属片が落ちる。
敵の男が、煙越しに笑った。
「盾、便利だねぇ。けどさ——」
言葉が途切れた。
次に来たのは、言葉じゃない。
――ドンッ。
重い衝撃。
煙の中から突進してきた影が、盾ごと俺に体当たりした。
「っ……!」
身体が壁に打ち付けられる。
肺の空気が抜ける。
女が叫ぶ。
「格闘型! 近い!」
管理局の男が叫び返す。
「押し返せ! 出口へ!」
画面の投票が【隔離】に戻る。
視聴者は冷静だ。
俺は咳き込みながら言った。
「採用、隔離!」
《採用コマンド:隔離》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
空気の膜が厚くなる。
“外の情報”が削られる。
敵のライトが弱くなる。音も鈍る。
突進してきた影が、一瞬だけ動きを止めた。
「……何だこれ、視界が——」
今だ。
管理局の男が敵に組み付き、壁に押し付けた。
女が手早く腕をひねる。
若い男が震えながらも、落ちた追跡タグを足で蹴って奥へ飛ばす。
「これで追えない!」
「ナイス!」
非常口のドアを女が開けた。
外は細い階段。上へ続く。
俺たちは階段を駆け上がった。
背後で敵が叫ぶ。
「逃げても無駄だ! 配信者! お前の配信、止められる!
お前が“合言葉”を出すたび、こっちは学習する!」
……学習。
そうだ。敵は視聴者と同じように学習してくる。
合言葉は万能じゃない。
階段を上り切った先は、ビルの裏口。
人通りのある通りに出た。車のライト。コンビニの明かり。
ここなら、さすがに手は出しづらい。
管理局の男が息を切らしながら無線を入れる。
「確保失敗。だが接触は確認。D-ストリーム関係者、暴力行為あり」
女が俺を見る。
「大丈夫?」
「……死んでない」
スマホを見ると、セーフモードの表示が出ている。
《イベント保護:有効》
《追跡タグ:検知(近距離)》
検知?
まだ近くにいる。
さっき回収したのは二つだけ。撃たれたのは二発以上だった。
俺の喉が乾いた。
「……まだタグ、刺さってる」
女が即座に俺の背中を確認する。
裂けた服の下、肩のあたりに小さな針が刺さっていた。
「くそ……」
管理局の男が低く言う。
「これで位置を追われる。拠点に戻れない」
宮本さんが青い顔で言う。
「配信、どうする……?」
「切らない」
俺は歯を食いしばり、スマホに向かって言った。
「聞いてる人。俺は今、現実で襲われた。
D-ストリームは本気だ。
——だから次は、“先手”を取る」
画面の投票が揺れる。
【隔離】が伸びる。
でも、もう隔離だけじゃ足りない。
管理局の男が俺に言った。
「今夜中に、証拠を押さえる。相手の“現場班”を逮捕できれば勝てる」
女が頷く。
「タグを追えば、相手の拠点に繋がる可能性がある」
若い男が震え声で言った。
「え……逆に追うの?」
管理局の男が冷たく言う。
「そうだ。逃げたら終わりだ」
俺はスマホを握った。
視聴者の投票ボタンが、じわじわ【ライト】に寄っていく。
暗い夜道で、追うならライトは必要。
でもライトは敵にも位置を教える。
俺は言った。
「……ライトは最後だ。
今は、追跡タグを抜く。証拠として確保する」
女が頷き、ピンセットを取り出した。
タグを慎重に引き抜く。
――スッ。
小さな針。先端に微かな光。
確かに“追跡”の匂いがする。
管理局の男がそれを受け取り、袋に入れた。
「これで勝てる。……ただし」
男は俺を見た。
「内通者がいる」
「……は?」
「拠点の裏口を即座に押さえられた。
移動も、面談も、タイミングが良すぎる。
管理局か、運営か、どっちかに“漏らしてるやつ”がいる」
空気が凍った。
宮本さんが顔を上げる。
「……僕らの中に?」
女が低く言う。
「そう。だから次の作戦は、誰にも漏らさない」
管理局の男が言った。
「配信者。視聴者にも言うな。合言葉も、次は現場で変える」
俺は頷いた。
「分かった。……じゃあ、次はどうする」
管理局の男が短く答えた。
「タグの発信元を追う。
D-ストリームの現場班の車を特定して、押さえる。
今夜中に、決着をつける」
俺のスマホが震えた。
セーフモードの下に、新しい表示。
《追跡信号:送信中》
《発信先:—》
まだ見えない。
でも繋がっている。
画面の投票が【隔離】から【煙】へ移る。
視聴者は、次の追跡に備えている。
俺は息を吸って言った。
「……行くぞ」




