セーフモード
会議室の空気が、まだ熱を持ったまま冷えていく。
神崎が去ったあとも、スマホの上の赤い帯――《通報件数が急増しています》だけが消えなかった。
宮本さん(LIV運用)が、机に肘をついて言った。
「このままだと、配信は“システムで”止まります。偽公式じゃなくて、本物の自動制限」
管理局の男が眉をひそめる。
「運用が止められないのか」
「止められません。機械は“多数の通報”を安全側に倒す仕様なんです。事故が起きたら終わるから」
女が短く言った。
「じゃあ、“通報”が効かない形に変える」
若い男が口を挟む。
「え、でも配信切ったら……」
「切らない。形を変える」
俺はスマホを握り直した。
《隔離:固定》はもう切れている。
だけど、さっきの【鍵】のおかげか、コメント欄はまだ二層に見える。
上:機械の洪水。
下:人間の言葉。
《支持率:72%》
針くらいの痛みで済んでいる。今なら動ける。
「宮本さん、できる?」
「何を?」
「コメント欄を“投票”にする。文字を自由に書かせない。コマンドだけにする」
宮本さんの目が動く。すぐ理解した顔。
「……できます。イベント配信の“コマンドモード”。普段は使わない機能だけど」
管理局の男が言う。
「そんな機能があるなら最初から——」
「普通の配信者には要らないからです」
女が俺を見る。
「コマンドが少なすぎると戦えない」
「必要なコマンドだけでいい。今の俺の武器は“多さ”じゃない。混ざらないこと」
宮本さんが、タブレットを開いた。
「じゃあ手順。今の配信は“継続”したまま、裏でミラーを立てます。
LIV公式が主催する“検証配信”として枠を作る。通報耐性が上がる。モデレーターも付ける」
「通報耐性?」
「公式イベント枠は自動制限の閾値が違う。悪用されないように、逆に強いんです」
……なるほど。
D-ストリームが“多数決”で止めるなら、土俵を変える。
女が言った。
「URLは?」
宮本さんが即答する。
「リンク限定。合言葉がないと入れない。配信内で合言葉を言うと敵も入るから——」
俺が続ける。
「合言葉は“毎回変える”。 しかも短時間で。固定しない」
宮本さんが頷いた。
「よし。視聴者には“移動”を案内しましょう。今の配信は“残す”けど、制限が来る前に避難させる」
俺はスマホのマイクに向かって言った。
「聞こえてる人。今から“安全版”に移動する。
コメント欄は自由入力じゃなくなる。選択式になる。
合言葉は——今から30秒だけ言う。『角砂糖・青・七』。これをメモして」
コメント欄(下側)に、人間の文字が走る。
【メモした】
【角砂糖青七】
【了解】
【応援】
上側には、すぐに模倣が出る。
【角砂糖・青・七】
【角砂糖・青・七】
【角砂糖・青・七】
……でも関係ない。
コマンドモードでは、自由入力は通らない。
《支持率:72%》
少しだけ上がる。痛みが薄れる。
「移動先は今から貼る。入れない人は無理しない。
入れた人だけでいい。俺は生きる」
宮本さんがリンクを送る。俺はそれを読み上げる形で案内し、数十秒のうちに、視聴者の空気が変わった。
“荒らし”が追ってこない。
追ってきても、暴れられない。
新しい配信枠に入った瞬間、画面が変わった。
チャット欄がない。
代わりに、五つのボタン。
【ライト】
【盾】
【煙】
【楔】
【隔離】
下に小さく表示。
《コマンドは投票で決定します》
《信頼度の低い反応は集計から除外されます》
《通報の影響:低》
俺は思わず笑った。
「……これがセーフモードか」
《支持率:—%》が、一瞬で安定して表示された。
《支持率:69%(安定)》
《悪意反動 軽減:小》
《具現化枠 回復:1》
左腕の痛みが、さらに減る。
針が一本抜けたみたいに、軽い。
女が肩を落とした。
「やっと息ができる顔になった」
管理局の男が言う。
「だが、敵はこれで引かない」
「引かせる」
俺はマイクに向けて言った。
「ここは“検証配信”。
俺を潰そうとしてるのは運営じゃない。
D-ストリームだ。偽公式、通報爆撃、支持率工作——全部やってる」
画面の右上、視聴者数は表示されない。
でも“反応”は増えていくのが分かる。投票が動く。
【応援】ボタンはない。
でも、投票が“応援”になる。
宮本さんが横で小声で言った。
「ここで“証拠”を出しましょう。さっきの神崎の画面、記録できてる」
「出す」
管理局の男が低く言う。
「名指しは戦争だ。覚悟はあるな」
「ある。逃げたら死ぬ」
俺が話している最中、画面の端に小さな通知が出た。
《外部からの通報:急増》
《影響:低》
……効いてない。
D-ストリームの“多数決”が通らない。
その瞬間、スマホが別の通知を受け取った。
知らない番号からのメッセージ。
「場所、分かってる」
「次は現実で落とすって言ったよね」
背筋が冷えた。
女が俺の顔を見て、すぐに気づく。
「来た?」
「……来た」
管理局の男が立ち上がり、無線を取る。
「警備、周辺確認。今すぐ」
若い男が青い顔でつぶやく。
「マジでリアルで来るのかよ……」
俺は深く息を吸った。
セーフモードに入っただけじゃ、終わらない。
でも――今度は“戦える”。
画面の投票が一気に動いた。
【隔離】が伸びる。
視聴者は、分かってる。
攻撃が来る。
俺は短く言った。
「コマンド、押して。今は【隔離】」
投票が確定する。
《採用コマンド:隔離》
《具現化枠 消費:1》
《具現化 残り:0/3》
空気が少しだけ“遠く”なる。
さっきの隔離に近い感覚。
この部屋の外と、内が切り分けられたみたいに。
女が窓のカーテンを少しだけ開け、外を見る。
「……車。黒いバンが一台、止まった」
管理局の男が即答する。
「避難ルート。今すぐ」
宮本さんが歯を食いしばる。
「配信、どうする」
「切らない」
俺はマイクに向かって言った。
「聞こえてる人。今、リアルに来てる。
でもここは“検証配信”。
俺は逃げる。逃げながら、証拠を出す」
宮本さんがタブレットを操作し、神崎が見せた“管理画面”の一部を配信に重ねた。
視聴者の反応が跳ねる。投票が揺れる。
【煙】が伸びる。
【盾】が伸びる。
女が言った。
「時間がない。外に出たら危険」
管理局の男が頷く。
「煙で視界を切れ。盾で守れ。——配信者、指示を出せ」
俺は息を吸って、言った。
「次、【煙】。その次【盾】。押して」
投票が確定する。
《採用コマンド:煙》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
白い煙が、室内に“薄く”広がる。
さっきの煙幕ほど濃くない。
でも、窓の外から見えづらくなる。十分だ。
外で、ドアを叩く音。
ドン、ドン。
「管理局さーん。安全確認でーす」
……同じ言い回し。
D-ストリームの連中だ。
管理局の男が低く言う。
「ここは施設だ。武装侵入は罪になる。だが——」
女が続ける。
「罪になる前に“事故”にする」
最悪だ。
こいつらは事故を作る。
俺はマイクに向かって言った。
「見てる人。今から俺は“逃げる”。
逃げながら、もう一回言う。
偽公式は運営じゃない。D-ストリームが使ってる。
通報爆撃も、支持率工作も——」
ドアが、ガン、と鳴った。
錠が揺れる。
管理局の男が叫ぶ。
「裏口へ!」
俺たちは走った。
煙の中を、壁沿いに。
その瞬間、画面に表示が出た。
《コマンド:盾(投票中)》
視聴者が勝手に押している。
判断が早い。
投票が確定。
《採用コマンド:盾》
《具現化枠 回復:1》
《具現化 残り:0/3》
透明な盾が、俺の腕に現れた。
走りながらでも、軽い。守れる。
裏口のドアが開いた。
冷たい夜の空気が流れ込む。
外に出る直前、俺のスマホが震えた。
今度は、見覚えのある通知。
《公式:LIV運用》
《緊急:あなたの配信を“イベント保護”に移行しました》
《通報による自動制限は無効化されます》
宮本さんが叫ぶ。
「間に合った! 公式で守れる!」
——守れる。
でも、敵も引かない。
裏口の先、路地の向こうに、黒い影が二つ動いた。
ライトが一瞬、こっちを舐める。
そして、聞こえた。
「見ーつけた」
俺の左腕が、針じゃない痛みで刺された。
支持率じゃない。現実の恐怖だ。
画面の投票が、狂ったみたいに【隔離】へ寄る。
視聴者も分かってる。
俺は歯を食いしばって言った。
「——次、隔離。押して」




