第一章2 小さなプライドと照れ隠し
家に入ると、昼の光が差し込むリビングで、ユノの母――ルアナがこちらを振り返った。
「ユノ、ちょうどいいタイミングだわ。話があるの」
ユノは靴を揃えながら小さく返す。
「ただいま。話って?」
ルアナは一歩近づいて、声を少し落とした。
「今日から数日ね、お父さんは首都の用事で出かけるの。私は村の祭りの準備で詰めっぱなしになると思うの。……だから、その間だけでいいから、ルイのことお願いできる?」
その隣に、父――エルメイドがいた。
エルメイドは短く頷き、ひと言だけ添えた。
「急で悪いが、頼んだぞ」
ユノはまばたきを一つして止まる。
「……ああ、うん。分かったよ」
返事は素直に返したが、思考は一瞬遅れて追いつく。
そのタイミングを見計らったように、部屋の隅から小さなかわいらしい声が聞こえた。
「……お兄ちゃんの……ばか……」
その声は、ユノの妹のルイだった。
視線を向けると、ルイが壁際で腕を組み、少しだけ頬をふくらませて立っていた。
淡い金髪は肩にかかる長さで、光を受けると白金に近く見える。
小柄で華奢な体つきが、少し大きめの服の中に収まりきらず、
不機嫌そうな態度とは裏腹に、どこか幼さがにじんでいる。
グレーブルーの瞳は伏せられ、ユノのほうを見ないまま、視線だけが壁と床の境目をさまよっていた。
「……また……急に……」
続きは言葉にならず、視線だけ床のほうへ逃げる。
ユノは苦笑をこぼし、小さく肩をすくめる。
ルイは間を置き、小声でぽつり。
「……どうせ……お兄ちゃん、私の相手……めんどいって思ってる……」
その言葉に、ユノの眉がわずかに揺れた。
「思ってないよ」
ユノらしく声に強さはなく、静かなままだが、それは即答だった。
ルイはその返答に反応したように、ほんの一歩だけ近づく。
それでも目線は合わせず、右手の指先をそっと服の端に触れさせる。
「……知らない……」
それを聞いてルアナが柔らかく笑った。
「ルイ、そんなこと言っても本当は嬉しいくせに~」
「……べつに……嬉しくなんかない……」
語尾を小さく濁しながら、ルイはソファの近くまで歩いて移動する。
駆け回る年齢ではなく、でも足取りに幼さが残る、9歳特有の小さな動きだった。
ユノはその様子を見て、ゆっくり息をつく。
「数日だけだし、大丈夫だよ。ちゃんと見る」
その言葉に、ルイはソファの陰から小声で。
「……だから……お兄ちゃんの……バカ……」
言葉は不機嫌なのに、心の距離は近い。
「はいはい。よろしくな」
ユノはその矛盾に慣れたように微笑んだ。
ルイは少しだけユノのほうを見て、唇を尖らせながらも否定しなかった。
その空間は、静かな空気だけが部屋に残り、その中心に二人が立っていた。
両親が出かけ、玄関を閉めて家に戻ると、室内は先ほどまでとは違う静けさに包まれていた。ルイは小さく息を吐き、わざとらしく視線を逸らす。
「……べつに……寂しいとかじゃないし……」
ユノは苦笑しながら靴を脱ぎ、声を落とす。
「まだ何も言ってないだろ」
ルイは一定の距離を保ちつつ、ユノの足音を確かめるように振り返った。
「……お兄ちゃん、今日……暇なの?」
「あぁ、もう今日の”仕事”は終わったからな。お前のこと見るようにって言われたしな」
ルイは腕を組み、むくれた表情のままユノに近づく。
「……じゃあ……わたしの相手、してよ……」
その声は不機嫌に聞こえるのに、どこか小さく頼っているようでもある。
ユノは軽く肩をすくめる。
「してほしいなら、素直に言えばいいのに」
「……うるさい、知らない……」
ルイは小声でぼそっと返し、ソファに腰を下ろす。
をちらりと見ながらも、素直には顔を合わせない。
ユノも隣に腰を下ろすと、ルイは少しだけ間を置いて――小さな声で付け足した
。
「……ひとりで家にいるの……きらいだから……」
ユノはその呟きに気づいたが、何も言わずに軽く頭を撫でる。
「分かってる。ちゃんと一緒にいるから」
ルイは撫でられた瞬間、微かに肩を揺らしたが、拒むことはなかった。
視線だけそっと膝の上へ落とす。
「……なら...べつに……いいけど……」
拗ね半分、安心半分が混ざった気持ちを乗せた声だった。
そして家の中には、二人の静かな気配がゆっくりと馴染んでいった。
村はずれの草原――
光の落ち方が柔らかくなる場所を、一人の少女が歩いていた。
背筋は細く伸び、足どりは小さく静かに続いていく。
足音は土に吸われ、存在だけが静かに縁をなぞる。
肩に触れる白銀の髪が、風に引かれるように揺れる。
その毛先には淡い紫の層が薄く沈み、光を受けた瞬間だけ残滓のように滲む。
光を受けた瞳には、淡い灰色の揺れがうっすらと滲み、視線は遠くを静かに追っていく。
近くで見ればほんのわずかな揺れが差分として浮くが、表情はその変化を語らない。
少女は草の縁に腰を下ろし、指先で草に触れ、柔らかさを確かめる。
鳥の声、川の流れ、乾いた土の匂い。
周囲は静かで、光の厚みだけが一定に保たれているようだった。
少女は、淡い灰色の目に映る景色を静かに受け取る。
それは考えるというより、そこにあるものが胸の奥へ沈む感触に近い。
(……ここは……静か……)
言葉にはならず、胸の奥をかすめた気配だけが静かに残った。
胸の奥にわずかにあたたかい揺れが灯り、その理由を探す前に、別の感覚に触れていた。
表情は変わらず、声も生まれない。髪が再び揺れ、淡い紫が一瞬だけ光に滲む。
影ではなく――
静かさそのものとして、光と草の境目にそっと存在していた。




