止まらぬ急行
つらい時、悲しいとき、ふと母を思い出す。
普段は親不孝者の自分でも、結局最後に思うのはこころの故郷なのであろう。
かつては会社をいくつも経営していた私であるが、その経歴はとても人に誇れるものではなかった。
当時の私はいわゆる札付きの悪で、レッテルや汚れた札が何個も何十個も付いていたのだ。
詐欺などを働き、そこで得た金が自分の土台となっていたのである。
「あ、おれおれ、事故にあったんで2百万円振込んで欲しいさ」
「え?2百万ね?肉まんじゃなくて2百万ね?」
「うん、できたら肉まんも振込んで欲しいさ」
「んだば、なんかあっといげねから、400送っとくから」
「うん、ありがと、んふ、んふっ」
貧しいながら懸命に働く母に対してこういった詐欺を働いた。
「もしもし、公彦ですけど、お母さん居ますか?」
「はい、少々お待ちください、て、私がおかっちゃんですよっ」
「なんだよっ、おかっちゃんかよ、うふふふ」
「びっくらしたけ?あははははー」
「あのさ、また事故っちってさ、400振込んでほしいさ」
「え?こんにゃくじゃなくて400ね?んだば、大きいの1本振込んでおくからよ」
「うん、ありがとありがと、あっ、あっ、あっ、ありがと」
このような事は日常茶飯事で、自分には罪悪感という概念が欠如していたんだと思う。
次第に犯罪はエスカレートしていき、悪い仲間を使って同じ事を強要した。
手分けしてそれぞれの母親に電話をするのだ。
やがて私一人だったのが、二人になり、二人が四人になり、倍々ゲームで人が増えていった。
次第に犯罪はエスカレートしていき、誰もが本来の自分を見失っているようであった。
「こっちは500いったぞ!」
「なに?こっちなんか800だ!」
「くそー、俺なんかバイト二つ掛け持ちでやっと30だ」
彼らの行動はどんどん過激になり、仕舞いには自ら親にお金を振込む者まで現われた。
激化する中、社会現象にまでなり、巨大掲示板にも彼らの事が書かれ始めた。
1名無し@犯罪者さん
最近あいつら調子に乗ってね?
2名無し@犯罪者さん
おかしすWWW
3名無し@犯罪者さん
これ、リーダー誰よ?
4名無し@犯罪者さん
あぼーん
5名無し@犯罪者さん
↑実名はだめですよ
6名無し@犯罪者さん
ヒントちょうだいWWW
7名無し@お母さん
公彦ちゃんの悪口書くんでねっど
8名無し@犯罪者さん
もすかすて、お母さま?
9名無し@犯罪者さん
馬鹿な子を持つと大変ですねWWW
10名無し@お母さん
あぼーんあぼーんあぼーんあぼーん
11名無し@犯罪者さん
↑通報すますた
12名無し@お母さん
公彦ちゃんは悪くねっど
13名無し@お母さん
12さんの言うとおりさ
14名無し@公彦ちゃん
おかっちゃん・・・
こうした母親の愛情にもかかわらず、我々の犯罪は徐々にエスカレートしていった。
母親以外に振込み以来の電話をするものが現われたり、(主に伯母さんやおばあちゃん)女子校の前を無意味にうろちょろする者まで出てきた。
それだけに留まらず、駅のホームの一番前に朝五時から陣取り、一心不乱に電車を激写する者もいた。
土日ともなると仲間がどこからともなく集まってきた。
二人が四人に、四人が八人とネズミ構式に拡大していき、彼らはその名をCHUCHUトレインと名乗った。
上の者は下の者から、下の者はさらに下の者から電車の写真を貰えるシステムで、ある程度の位までいけば、寝ているだけで電車の写真が増えていくのだ。
そうなると、もはや秩序と言うものは崩壊したも同然だった。
「馬鹿野郎!こんなんじゃ足んねーよ」
「はいっ!」
「死ぬ気で撮ってこい!」
「はいっ!」
「これは電車じゃなくてモノレールだろ!」
「はいっ!」
ノルマは過酷を極め、総動員で全店の人員が駆り出された。
「ノルマを達成するまで帰ってくるな!」
朝から晩まで撮影に追われ、始発で現場に行き、終電を乗り外す日々が続いた。
その頃になると神経が弱ってしまい、何が何だかわからなくなっていた。
自分が作った組織のはずが、いつの間にかだいぶ下のほうにいたのも気づかないほどに、正常な判断ができなくなっていたのだ。
間違えて回送電車を撮ってしまったり、B32型とA55型を混同してしまった。
おまけに隣に住む女子大生の下着を盗んだつもりが、よく見たらおばあちゃんのズロースだったり、あげくには女子風呂を覗こうとして間違えて男子風呂を覗いたりもした。
ぼろぼろになり、神経をすり減らし、気付いた時は終電が走り去った駅の構内にいた。
「今まで自分は何をやっていたんだろう」
そのような思いにふけっていると、一台の電車が入ってきた。
ガシャン
ガシャン
と乾いた機械音が静かに鳴り響くと、私の前にゆっくり止まった。
「ZP63型か」
ZP63型は今年で廃車になる事が決まっている、一番古い型だった。
その姿は大きな側面を自分に見せ、とても誇らしげに胸を張っているように見えた。
「ZPさん・・・」
自然と涙が頬を伝うと、ZP63型のドアが静かに開いた。
「え?・・・」
私は促されるままに車内に歩を進めると、四人掛けの席に座り車内を見回した。
現役で走る中で最古の車両は、自分がしてきた仕事を自慢げに誇示しているようだ。
がっちりむっちりした座席、これでもかと言わんばかりにびんびんにそそり立つ手摺り棒、恥ずかしいほどパックリ開いた席と席の連結部分。
そのどれもが、ベテランストリッパーのような最高のフォルムを形成していた。
私はカメラを取り出すと、無我夢中で車内を撮りだした。
「いいよ、綺麗だよ」
カシャっカシャっ
「そうっ、その調子」
カシャっカシャっ
「そこもうちょい開いてみようか」
カシャっカシャっ
「おほっ!もう我慢できねーよ」
辛抱たまらず車体に抱きつくと、ZP63型は私の掛け声に答えるように恥ずかしげに、ピーっピーっと汽笛を鳴らした。
うぶな女子高生のような黄色い声を聞き、自らのボルテージも必然と高まった。
もう迷うこと何もない。
私はシャッターを押して押して押しまくった。
ノルマなんか関係ない。
自分が欲するままに、目の前にある最高の被写体を撮り続けた。
そう、それこそが純粋に電車を愛する自分の姿である、そのように思い出させてくれたのである。
そして
そこで撮った写真は、「最古の車両の最後の日」と銘打たれ、NP通信により全世界に配信されたのである。
私は奇跡の写真家として脚光を浴び、一躍時の人となった。
連日テレビや雑誌の取材を受け、街を歩けば知らない人はいないほどである。
思えばあの日に死んだも同然だった私を、ZP63型が救ってくれたのだ。
命の恩人。
そうZP63型を呼んでも過言では無かった。
あの日あの時あの場所がなければ、今の自分も有り得はしないのだ。
そう胸の中でつぶやきながら、モノクロの電車の写真にそっと手を合わせた。
「どうやってあんな素晴らしい写真が撮れたんですか?」
「電車に対する思い入れを教えてください」
「今後の活動をお聞かせください」
記者会見ではカメラのフラッシュと質問の嵐であった。
私はそれらの質問に丁寧に、優しく答えた。
「あの電車は私の宝物なんです」
「電車の素晴らしさを全国の子供達に伝えていきたいですね」
「銭金でやってるわけではないので、売上は全て寄付したいと考えております」
そういった私の謙虚な姿勢は、大手新聞やTVニュースで取り上げられ連日世間を賑わわせた。
やがて、私はそういった運動を拡大すべく、賛同する人間を集め、組織を法人化した。
皆、新聞やニュースを見て、私の活動に感動を覚えた人たちである。
私は集まった社員に、写真とは何たるか、電車とは何たるかを切々と説いた。
若い人間を育てるためである。
「よーし、とりあえず何でもいいから撮ってこい!」
「電車がなかったらモノレールでも何でも撮ってこい!ばか」
「写真が金を生むんだわ!」
「金、金、金、金なんだわっ」
「谷でも金、電車でも金でございます、あーはっはっは!」
やがてノルマは激化し、疲れ果てた社員は一人二人と去っていった。
気付けば200人はいたはずの社員は誰もいなくなっていた。
人々の笑いに満ちていたオフィスは静まり返り、床にはばら撒かれた無数の写真が残されているだけであった。
私のやってきたことは間違いだったのか。
人と人の間に生じる心のすれ違いに、縮んでしまった胸が張り裂けそうになった。
そう、結局、全ては虚構だったんだ。
あれから3年の時が過ぎた。
仕事も失い、貯金が底をついた現在、みすぼらしいただの汚いおやじに成り果てた。
思えば色んなことがあった。
思い出すのはつらいことばかりだが、忘れてしまった記憶の奥には楽しいこともあったのであろう。
そんな切ない気持ちになると、いつも故郷の母を思い出す。
かつては真っ白だった自分の象徴となる存在だ。
久しぶりに母の声を聞きたい。
素直にそういった感情が心の底から湧き出てきた。
緊張で張り裂けそうな胸を必死に叩きながらダイヤルを押した。
「も、もしもし、お母さんですか?」
「はいはい、公彦ちゃんのおかっちゃんですよ」
「あ、あのさ、大きいの2つほど振り込んでほしいさ」
「はいはい、んじゃ、4つほどいっとくから」
「ううっ、ありがとちゃんこ」
母親とは頼りにする人ではない。
頼らずにすむような人間に育て上げてくれる人である。
D・C・フィッシャー
米国の作家、社会活動家、1879~1958
読んでいただいてありがとうございました。