何者?
この街では、誰もが何かを発信していた。
スマホをかざし、動画を撮り、何気ない日常を“映え”というフィルターに通して、拡散する。コーヒー一杯、服のタグ、夕焼けの色。すべては記録ではなく、「見せる」ための素材でしかなかった。
篤人は、それを少し斜めから見ていた。
「いや、別に否定してるわけじゃない」
そう言いながらも、彼はいつだって集団の端に立っていた。仲間たちがスマホを向けて「〇〇してみた」「○○を食べてみた」などと騒ぐたび、心のどこかが冷めていくのを感じていた。
「ねぇ、篤人も出てよ。バズるかもしんないじゃん?」
大学の友人・葵が差し出したスマホのカメラには、自撮りモードで笑う数人の顔。その中心に、ついさっき“バズってた”というTikTokネタを真似た動きが展開されている。
「……いや、いいわ」
愛想笑いと共に軽く断ると、周囲の空気が少しだけ動いたのがわかった。咎めるでもなく、強く誘うでもない。ただ、「あ、ノらないタイプか」と判断される、あの独特の沈黙。それに慣れていた。むしろ、心地よいとさえ思っていた。
──“あの人がやってたのを真似してみました”
──“バズってたから、自分もやってみた”
──“今のトレンドはこれらしいから”
何かを選ぶときの理由が、いつのまにか「誰かがやったから」に変わっていく。
それを恥じるどころか、誇らしげに語る空気が怖かった。どこにも“自分”がいないのに、まるで“自分らしさ”を演出できているつもりでいる。
篤人は、昼間のカフェで何気なく聞こえてきた会話を思い出していた。
「こうすれば再生数伸びるらしいよ」
「〇〇がそう言ってたから間違いない」
「とにかく、今はこれやっとけば正解っしょ」
誰が言ったかが重要で、中身はどうでもよくなっていた。思考は委ねるもの、価値はコピーするもの。そんな空気に満ちている。息苦しくなるのは、気のせいなのだろうか。
ある日、大学のゼミで「自己表現」についての発表があった。
数人の学生たちが、“インフルエンサーによる価値観の形成”というテーマで熱弁をふるっていた。そこには、流行語、人気の投稿傾向、フォロワー数のグラフまで用意されていた。
だが、そのどれもが“他人の発信”を語っているだけだった。
「君たちの“自己”って、どこにあるんだろうね」
篤人の呟きに、隣の学生が怪訝な顔を向けた。
「え、何が?」
その“何が?”という一言が、すべてだった。
誰も“自分の意見”を持っていなかったわけではない。だがそれを育てる時間より、“共感されそうな何か”を拾って拡散するほうが効率的だった。
篤人はふと思った。
“自己”とは、「他人から見て整っているもの」でなくてはならないのか。
誰かの真似をして、同じ角度で、同じ声で笑って、同じ編集の仕方で、同じ音楽を乗せて。それを“表現”と呼ぶなら、表現者でない者なんてこの世界にはもう存在しない。
彼は夜、スマホの電源を切った。
静寂の部屋に、何も通知は鳴らない。誰かのストーリーも、流行の動画も、見えない。
“取り残される”ことへの焦燥は、確かにあった。だがそれ以上に、自分が誰かの言葉で“何かになったような錯覚”をしそうになる瞬間が、怖かった。
本当に“何者か”になりたいなら、
「何者でもない自分」をまず、受け入れるところから始めなきゃならない。
それは一見地味で、孤独で、まわりと違って見えるかもしれない。けれど、そこには確かな“輪郭”があった。
翌朝、篤人はノートを開いていた。スマホの代わりに、ただのペン。
書きつけたのは、他人の言葉ではなかった。
バズらなくてもいい。誰の記憶にも残らなくてもいい。
それでも自分の心が動いたことだけを、黙って綴っていく。
──君は、何者になりたいんだ?
誰かの後ろで踊ることに飽きたなら、自分のリズムで歩き出せ。
静かに、しかし確かに、自分という存在の中心に向かって。