第五話 何者
立ち上がった者こそが平民である。そう感じのは宰相だけではないだろう。格好や背筋、体型と服装の凸凹した珍妙な姿、今では見ることさえ稀になった平民である。移民の増加によって治安は悪化の一途を辿っている。このなかに平民街まで行って接しようとする者など皆無だった。平民の容姿にある者は懐かしさを覚え、またある者は嫌悪感を抱いた。
彼が口を開くより先に議長は述べる。
「平民に発言権は認められていない。この度はラングレス公爵家の推薦人と伺ったが、平民は言葉すら発せないことを、然と受け止めよ」
驚愕したのはハルバートただ一人である。滑稽な姿に皆が嘲笑を浮かべ、商人などは恥ずかしくて侮蔑した。エリナローゼは当然といった態度を取り、第二王女シルフィーナも違和感はなかった。
「この会議には言論はないのか」
「言論は権威の上に成立するものよ」
彼女は落ち込む相棒の肩を叩いた。勢いよく立ち上がって何の知恵もない、ではより一層恥を欠くだけだ。ならば推薦人として、堂々とした態度で助言をすれば良いのである。それがハルバートを連れてきた最大の理由なのだから。
「あなたは見えているのでしょう。答えを、ならば私が会議を動かすわ。信じてくれる」
「……そうだな。目的は変わらない」
彼は知らない。この会議が開催されるにあたってエリナローゼがした苦労と責任を。公爵家の権力を駆使してまで動かした力の大きさを。だからこそ彼女を信頼し、その小さな耳に口を寄せた。
「まあ……」
エリナローゼとハルバートの距離はまるで恋人のようであった。彼女は髪をかき上げて素肌と耳を晒すばかりか、平民の口を至近距離に置いている。シルフィーナは赤面した。あんなものは婚約してからする性交渉か、愛人との弄りである。いずれにせよ羞恥を感じて目を逸らした。少女が恥ずかしがる横で貴族たちも無礼な平民に顔を赤くした。
「では発言を再開します」
「待て。エリナローゼ嬢と平民は、愛人なのか」
「強いて言うならば、彼は忠臣です」
「そうか。……場を弁えよ。ここは議会である」
公爵令嬢は耽美な礼をした。ややあって議会は再開する。エリナローゼは冷静沈着な顔で、けれど額に汗を浮かべていた。宰相はあらゆる可能性を模索したが、どれも矛盾を否定できなかった。この時点で宰相は弁論の勝利を確信したのである。
「騎士団総隊長に質問します。騎士団が国王の剣であり、盾であるならば、移民は制限すべきでは」
「我々は数十年前から一貫して主張しているが人族同盟の根幹、陛下の王命、そして王国の繁栄を優先した結果に現在がある。変える理由はない」
「では不満であることに変わりはないと」
「王の勅命である。発言を訂正せよ」
視線は交差する。彼女は流れるように謝罪を繰り出して総隊長に会釈をした。だが顔を上げた先に騎士団総隊長はなく、代わりに宰相がいた。総隊長の隣に立つ宰相は背が小さく、格好も薄いが、身に纏う迫力は会議のなかでも王女を超えている。
「では宰相に質問します。王国規範第三章の国王代理では任期は五年までと制限がついております。ちょうど来週で任期が切れるはずです。その点については、どうお考えなのでしょうか」
「任期は続投する方針で王命を授かっている。数日後に開かれる任命式典において、再度五年の代理を努めることを決定する。またその際、王女殿下には代理権限内で規範改正をするものとする」
再び議会は混乱につつまれた。内容を知っていたのは元老院と一部の貴族のみである。王朝の存続は重要事項だ。それを会議で発表したばかりか、代理で規範の改正をするという。誰もが越権行為でないかと訝しみ、宰相は予定していた言い訳を述べた。
「王国規範には国王の勅命、または王の使命であっても元老院の全会一致があれば、撤回または停止することが可能である。同時に規範の改正は国王でなくとも、皇太子でなくとも、国王代理であれば元老院の全会一致があれば一部修正できる」
「つまり元老院は全会一致をした、と?」
「そうだ」
「王女殿下も賛成されたのですか」
「国王代理に権限はない。運命が決められた」
つまり代理である第二王女シルフィーナは埒外にあった。彼女は不満そうな顔を見せずに、自分が見つめられていることを自覚して笑みを撒いた。続投すると意思表示しているようであった。何もかもが準備された舞台で一人踊る王女、そこに小さな違和感を抱いたのは議長のみであった。うっすらと忘れた何かを思い出そうと静かに目をつむった。
「では王女は賛成されているのですか」
「王女に諮問はできない」
「発言権はあるはずです。答えてください。国王代理シルフィーナ、あるいは第二王女殿下」
彼女は笑みを隠して顔をそむけた。議長は後ろを向くことなく、新しい規範写本をしまって、王国で最初に発行された規範の写本を取り出した。重たい表紙を開いて、古びた紙を慎重に捲っていく。
「私に意思はありません。元老院の決定と宰相の合意によって、王配を決定したと見做します」
「異議を唱えます」
「私も異議を唱える」
だが会議は一枚板ではない。完璧な予定調和など存在しない。先ほどまでは弁論に反対してきた騎士団長や法務官、宗教家などが一気に挙手をして発言を求めてきた。
「われらは国王の剣であって宰相の剣ではない。宰相や元老院が勝手に決めたとこに従う義理はない」
「宰相、そんな話など聞いていない。元老院からもだ」
「法を無視することはたとえ宰相であっても許されない。まして前例を批判したのであれば、あなたは規範にしたがって、次の代理誕生を決めなければならない」
宰相は何も答えず元老院と議長に対して一瞥するのみであった。
「次の代理だと?」
「まさか、宰相が代わるとでも言うのではあるまいな?」
「答えなさい。宰相殿」
エリナローゼの言葉に議会は停止した。静寂が広がる中で議長だけが動いていた。宰相は訝しむように彼女を見据え、シルフィーナはじっと考え込むように平民を見据えた。
「王国規範には専権事項があります。それは元老院や宰相の合意でも覆せないはずです。ましてや国王陛下が不在の状況で、王の勅命だといっても、どこまで効力があるかは未知数のはずです」
「貴様。王に反旗を覆す気か?」
「そうではなく、理屈を述べています。国王代理とは何を以てしての国王代理なのか。そうして与えられた権限は、なぜ維持されているのか。王朝の合意は元老院の合意と直結するのかと言う点です」
第三章第十三条。第一項。
国王が不在または不能に陥ったとき、後継者たる皇太子は直ちに戴冠式を開催しなければならない。そのさい元老院、宰相、五公爵家の同意を得た時点で教会は儀式を円滑に進める義務を与える。ただし後継者が不足した場合に、王政は国王代理を王族ないし五公爵家に任命する義務が生じる。
第二項、前文。
王族や五公爵家が不順となり、元老院や教会が暴走することはあってはならない。王朝とは王族のみが存続できる最高の権力だからである。
第二項。
国王代理は戴冠式と同様の合意を以てして選ばれる。代理は一代に限り、任期は五年とする。この条項はいかなる理由があっても改定することはできない。王朝の存続は国王の統治が前提である。
「第十三条第二項にはこう書いてあります。この条項はいかなる理由があっても改定することはできない。つまり規範改正は不可能なはずです」
宰相は血相を変えて目を泳がせた。そうして古い写本を開いていた議長のそばに寄って規範をのぞき込んだ。あるいは貴族や宗教家たちは慌てて秘書を走らせた。規範の乗っている本を探して。また元老院の重鎮たちも首を傾げるばかりであった。
「規範とは王朝が円滑な統治を行うための聖典に過ぎない。しかし、なんだこの条文は。私は初めて見たぞ。なぜ最初の写本にだけ書いてある!」
不可侵条文など聞いたことがなかった。王国で使用されている規範は王女シルフィーナが用意した新品の規範である。これは国王または国王代理が就任した際に発動される義務化した慣習だった。
それに答えたのは議長と王女である。
「聖典に過ぎぬからだ。王命であれば規範を改正しなければいけない」
そうしてシルフィーナがだけが笑みを浮かべる議場で彼女は言葉を発した。
「この条文を写本に書かないように決定したのは第二代の国王陛下でした。初版だけに乗っている、王国でもっとも奇異な条項です。王歴は三百年を越えましたが、誰も想定していなかったのでしょう。国王も皇太子もなく、ましてや教国が崩壊する事態など。だからこそ、代理は五年で終わる。それは王朝の崩壊を意味します」
「……それが「王政再編に関する不可視条項」であるならば、なぜ写本に記されながらも、三百年にわたり改正も抹消もされなかったのか。答えていただきたい」
「さあ、どうでしょうね。私にはわからないわ」
土台はすべて崩れた。シルフィーナは妖艶とした笑みを彼女たちに向けた。
エリナローゼが語っていたことを誰もが思い出そうとする。最初は部隊創設の話であった。それを総隊長が否定して人族同盟の話になった。国王と皇太子は同盟の掟によって五年間の不在を余儀なくされている。そして延期するはずであった国王代理は継承が不可能という珍事が現れた。あるいは国王の王命として強引に進めることも可能であるが、元老院発案による任期続投は単なる延命手段に過ぎないのである。
全ての者がエリナローゼを捉えていた。
「ラングレス公爵家より王女殿下に具申いたします。正当なる王朝は機能不全に陥りました。よって国王代理の地位を放棄していただきたい。そうして専制公に授任してくださいませ」
「あら。また不可視条約の話をするの? 貴女はもの好きねエリナローゼ」
第三章第十三条。最終項。
王朝が崩壊する事態があってはならない。王政は健全な状態で継承され、王国は安寧と繁栄を謳歌する義務がある。しかし何らかの緊急事態がおこり機能が不完全となったとき、王族は自らが律して統治する義務を負う。彼らには専制公の地位を与えるものとする。この専制公は国王と同等の最高主権での王朝の代理統治が可能となる。任期はなく、新たな国王が立てられるその日まで、任務を全うしなければならない。全てを王国の為に捧げるために。
「そうそう思い出したわ。国王陛下である父は最後に専制公の条文を削除しようとしていた。この事態を予見したのかもしれない。あるいは国王代理の限界を知っていたのでしょう」
血相を変えた法制官たちは飛び上がる勢いで席を立った。
「その記録は⁉」
「父の書斎にあるはずよ」
「つまり条文はまだ――生きている!」
シルフィーナは笑みをこぼした。宰相や元老院議員たちからの野次を無視すると決めていた。彼女は幼い頃から王女として育てられ、どこかの国に嫁ぐ運命にあった。けれど嫁いだ長女が王国もろとも滅亡してから嫁ぐ機会は無くなった。代わりにやってきたのは国王代理という名誉ある、とても退屈な日々であった。何も決められず、誰かの意志のままに動き、外交を任せることが仕事であった。唯一自我を出せたのはパーティーでのスピーチだけである。
第二王女は自らの手を見つめていた。とても小さく儚い手が、今は小刻みに震えていた。
――すべて計画通りである。五年間の集大成をいま見せるのだ。
「あなたと一緒に踊れてよかったわ。エリナローゼ。私の親友」
宰相は吠える。正しく意味を理解するならばこれは王朝の崩壊、つまり王国の滅亡に過ぎない。そんなものは宰相という大役をまかされた彼が許せるはずもない。
腕を振り、唾を吐き、充血した瞳で王女の説得を続ける。だが脳裏にあるのは己が過少評価していた国王代理、第二王女のことである。あの女は自分が何をしようとしているか理解していないのだ。
一体いつから仕組まれていた。王女はただのお飾りではなかったのか。
「殿下。専制公の前例はありませぬ。このような危険な制度など受任されてはいけない。これまで通り我々にすべてを託されれば良いのです!」
シルフィーナは初代国王と規範に携わった法学者ベルナール・ドートネスの遺言を思い出していた。
『このなかに絶対に使われてはいけない条文を入れてしまった。だが私は後悔していない。その条文を受け入れる王族こそが、真の統治者だからである』
『一度も使われぬ法律は二つある。第十三条第二項と最終項である。これが発動されるとき、王朝は滅亡の一歩手前にあるだろう。滅びの刃か、それとも継承の楔か……いずれ、選ぶのは王族自身である。実に笑えない話だ』
『王が法であるなら、法も王であるべきだ。王国が千年続くために、我々は規範を残すのだ』
シルフィーナはつぶらな瞳を開いた。
「国王代理!」「第二王女殿下!」
そうして静かに言葉は紡がれた。
あの条文こそ、かつて法学者ベルナールが『王族を試すための毒杯』と呼んだ最後の選択肢。
「私は、第二王女シルフィーナは今この時をもって国王代理の権利を放棄し、自らが専制公に君臨することを宣言します。王が法である限り、私は新たなる法として王になる」
エリナローゼとハルバートは真っ先に臣下の礼をとった。議長が立ち上がると貴族や宗教家たちも次第に腰を上げていく、そうして誰もが新しい君主に左膝を着けて頭を垂れる。元老院議員も負けを悟って重い腰をあげ、忠誠を捧げる。
宰相だけが立っている議会で、彼は目を左右させながら、ようやく第二王女を視界に収めた。そこには深い闇が広がっていた。感動や勝利、正気などはなく今後訪れる苦肉を、深謀遠慮で理解していたのである。彼女は身を国に捧げることを覚悟していた。
「だが、忘れてはなりません。ベルナール・ドートネス殿が遺した教えを――『法を王とせよ』と。ゆえに、この「専制」の地位に、法の枷を我が手に嵌めます」
この王国に国王と皇太子はいない。
「これより制定される「統治令」において、私は次の制限を自らに課します」
【シルフィーナ統治令案】
第一条:任期制限
「専制公たる地位は三年の任期とする。以降の延長は、元老院および教会、五公爵の三分の二以上の信任によってのみ可とす」
第二条:軍事行使の制限
「非常戦時を除き、軍の編成・派兵には宰相および議会の承認を要する」
第三条:戴冠式の期限
「戴冠式は、専制公任期満了の年内に必ず挙行されなければならぬ。しない場合、専制公の地位は自然解消とし、元老院に統治権を移譲する」
第四条:法制会議の招集
「規範改正に向けた法制再編会議を一年以内に召集する。目的は王権と議会権の明文化、元老院と教会の機能統一である」
第五条:統治諮問院の設立
「専制公の決定を補佐するためにこれを設立する。法案、予算、軍務をする場として王国の中枢を委ねるものとする。議長は専制公であるが表決権は持たず合意を導く監督者にとどまる。議員は五公爵家より一名ずつ、元老院より二名、教会と法制官僚を一名召喚する」
最後に礼をとったのは最大だったはずの忠臣であった。
「ここに王女シルフィーナは、専制公を委任したことを感謝する。諸君らは立派である。王朝はまだ続くでしょう。我々の栄光が地上を照らす限り」
王国の歴史はその日、動いた。
三百数十年使われることのなかった幻の規範は正当な形で行使された。ただ一人、シルフィーナは拳を震わせ、その重責を受け止めようとしていた。
王国歴354年。10月中旬。
第二王女シルフィーナは専制公に就任する。
王国史において、これを「再編の宣誓」と呼ぶことになる。
――私は王ではない王になったのだ。