その⑥
ガサガサ…と、背後で、音がした。
一瞬は、風で芝生が揺れる音だと思ったが、すぐに、誰かが芝生を踏みしめている音だと気がつく。誰かが、土手を降りてこちらに向かってきているのだ。
そう気づいた瞬間、僕は海に潜る前のように、息を止めた。
後ろめたいことなんて一つもしていないのに、脈が速くなり、体温が一度上がる。
「………」
誰だ? 誰が後ろにいるんだ? 僕みたいに感傷にふけりにきたのだろうか? いや、釣り禁止の河原で夜釣りか? それとも…。
咳払いでもして僕の存在をアピールしても良かったのだが、タイミングを失ったような気がして、それ以上音を発することができない。
動くこともできず固まっていると、足音はみるみる近づいてくる。
そして、背後から歩いてきた者が、僕の横を通り過ぎた。
町の明かりでぼんやりと照らされたそのシルエットを見たとき、僕は、はっとした。
それは若い女だった。
華奢な身体をしていて、髪は長い。風に吹かれたそれは、烏が翼を羽ばたかせるように揺れている。身に纏っているのは紺色のブレザーで、川の臭気を押しのけるようにして甘い香りを漂わせていた。
「………」
女? 高校生か? なんでここに?
困惑する僕に気づく様子を見せず、女はさらに一歩踏み出した。そして、ふう…と大げさな息をつくと、持っていた鞄を落とす。
ぴょんっ! と、目の前のコンクリートブロックに跳び移った。
足場の悪いブロックの上で、まるで踊るようにステップを踏む彼女。奥へ、奥へと進んでいった。
そこで初めて、僕はこの光景が異様であることに気づいた。
はっとして、女が落とした鞄に目を向ける。よく見てみると、それは、僕のものと同じスクールバッグだった。紐の色は…薄闇でわかりにくいが臙脂色。つまり、僕と同じ二年生のもの。
河原に、女の子。しかも、危険なコンクリートブロックの上に立っている。
そして、僕と同級生?
その瞬間、僕は掠れた声で叫んでいた。
「おい!」
僕の声に、女の子が振り返る。その拍子に、ぐらっとバランスを崩した。
「あ…」
僕が声をあげた瞬間、女の子のシルエットが視界から消えた。
遅れて、ドボンッ! と、白い水しぶきが、藍色の夜空に向かって吹きあげられた。
全身の血が凍るような感覚がした。
「あ…、くそ!」
電気に触れたみたいに立ち上がった僕は、悪態をつきつつ、学ランを脱いで放った。
ズボンのポケットから財布を取り出し芝生に投げ捨てると、息を吸う間もなく、地面を蹴って飛び出す。コンクリートブロックの上に飛び乗り、足元なんてろくに見ないで、その先にある泡立つ水面に一直線に駆けた。
「ああああああっ! くそっ!」
ここで、少し例え話をしようと思う。
昔々、あるところに、二十六人もの罪のない者を殺した殺人鬼がいたとする。
その殺人鬼は、虐殺を行った後、自らの喉を突いて自殺したとする。
ある科学者が、その殺人鬼の細胞を使って、クローンを作成したとする。
そうして生まれてきた子どもは、殺人鬼と同じ姿をしているとする。
その子が冷然たる虐殺を行ったわけではない。
それでも人は、彼のことを「殺人鬼」と呼ぶのだろうか?
それでも彼は、「殺人鬼」と同じ人生を歩むことになるのだろうか?