その②
その瞬間、僕は目を覚ました。
「……良かった」
夢であることを安堵し、ぽつりとなぞる言葉が、1LDKの部屋に無機質に響く。
目を動かして、棚の上のデジタル時計を見ると、六時三十二分だった。
まだ起きる時間じゃないけれど、身体がものすごく汚れているような気がして、たまらず上体を起こす。俯いた瞬間、頬を伝って、粘っこい汗が布団に落ちた。ツンとした臭いが鼻を突き、腹の底で内臓が溶けているかのような感覚。
窓辺で鳴く鳥の声に混ざって、耳の奥で心臓が動いている。逸っているわけではないが、爆発するような拍動だった。
「くそ…」
夢でよかった。とは言え、手の中にはまだ、人を殺した時の感覚が鮮明に残っていた。
途端に吐き気を覚えた僕は、トイレに駆け込み、便器に顔を寄せて激しくえずいた。だけど、胃の中は空っぽで何も吐き出されることはなかった。ただただ、体力を消費しただけ。
出ないものは出ないのだから、諦めて立ち上がり、シャワーを浴びる。身体を洗った。特に、手は念入りに擦った。
それから台所に立ち、乾いたフライパンを熱して、適当に目玉焼きを焼いた。
炊き立ての、宝石のようなご飯をお茶碗によそい、インスタントの味噌汁に湯を注ぐ。
勉強机に皿を並べると、大げさに「いただきます」と呟いて手を合わせた。
ふわっ…と立ち込める湯気を吸い込み、箸を掴む。
さあ、食べよう…と思った瞬間、僕は箸を置き、項垂れた。
「ああ、もう…」
人を殺す夢を見た後じゃ、朝食なんて食べられるわけがなかった。
結局、水だけを飲んだ僕は、ご飯はお釜に戻し、味噌汁は三角コーナーに、目玉焼きはラップを被せて冷蔵庫に入れた。
学校に行くまでまだ少し時間があったけれど、この部屋にいたって気が滅入るだけだから、さっさと学ランに着替え、玄関に置いてあった鞄を掴んだ。
いざ出て行こうとしたとき、大切なことを思い出し、立ち止まる。
「ああ、そうだ」
ぱたぱたと廊下を戻った僕は、棚の上にあった小さな仏壇に手を合わせた。
「…行ってきます。静江さん」
立てかけてあった遺影には綺麗な女性が写っている。その目の下には黒い隈が浮いてあって、写真越しにも、生々しく彼女の葛藤が伝わってくるのだった。
「さて」
己を鼓舞するように言った僕は、玄関のドアノブを掴んで、一思いに開けた。
途端に、朝の爽やかな風が吹いてきて、僕の頬を撫でた。
澄んだ光が網膜を刺激し、脳にこびり付いた霧を晴らす。
スニーカーを履いた靴を一歩踏み出すと、コツン…と乾いた音が立ち、全身に微かな電気が走るような気がした。
完全に外に出た僕は、頬に当たった落ち葉を払いつつ、空を見上げた。
青いペンキをぶちまけたような、青い空。ひびが入るかのように、飛行機雲が一閃。
「………」
甘い味を舌先に感じつつ視線を下ろすと、一階の部屋から誰かが出てくるのがわかった。
二十代くらいの女性。その後に、小さな子供が続く。二人は手を繋ぎ合って、向かいの道路へと出て行った。きっと幼稚園に行くのだ。
「……」
なんとなくそれを見送った僕は、部屋の鍵を閉めてから、階段の方へと歩き出す。お隣の扉の向こうからはニュースの音が聴こえた。
階段を降りて塀を見ると、猫が微睡んでいた。
駐車場を横切り、道路に出る。
心臓が、少しだけ逸る。
「よし…」
意を決し、歩き出す。
「ああ! サツジンキだ!」
鈴を鳴らすような子どもの声が、路地に響き渡った。
振り返ると、通学中の子どもの列があって、背の低い男の子が、僕の方を嬉々とした様子で指していた。
「サツジンキだ! サツジンキだ!」
「…ちょっと、やめなよ」
まるで、カブトムシを見つけた時のように言った男の子を、隣の女の子が咎めた。
「殺されちゃうかもしれないでしょう?」
「だいじょうぶだよ! ぼくがまもってあげるから!」
男の子が胸を叩いて言う。
その様子を見て、僕は自然と笑みを洩らした。
ヒーロー願望…いや、好きな女の子に振り向いてもらいたくて、自分を強く見せるなんて、微笑ましいことじゃないか。どれ、お膳立てしてやるか…。
僕は一歩、小学生らの方へと近づいた。
その瞬間、子どもらの顔が猛獣と対峙したかのように引きつった。
「うわああっ! サツジンキが来た!」「逃げろおおおおおっ!」「殺されるううううっ!」
劈くような悲鳴と共に、子どもらが蜘蛛の子を散らしたように走り出す。「ぼくがまもってあげる」と豪語していた男の子も、我先にと飛び出し、角を曲がって見えなくなった。
「………」
柔らかな風が、ビニール袋を運んでくる。
カラカラ…と窓が開く音がしたので見ると、民家から女性が覗いていた。僕と目が合った瞬間、小さな悲鳴を上げて窓を閉める。
「うん、なるほどね」
僕はおどけたように言うと、また、学校へと続く道を歩き始める。
今日も世界は、通常運行だった。