表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

変異の一風景

作者: へろいん

昼下がりだった。

はめ殺しされた一枚窓の外に拡がる空は碧く、一片の雲もない。視線を下げると遠く霞む様に<外壁>が見える。外の景色は静謐を湛えている。なんなら生き物の気配が絶えてる様でもある。

だが地上を望めば病院側の歩道には人影があり、近くの薬局には客が出入りしている。生き物は存在しているしその活動に応じた音もある。生き物はあるし、生き物は動いているし、生活は存在し、生活の数だけの人生が溢れ、音になって大気を飛び交っている。ただそれら一切が作り物に見えるだけだ。診察室の窓は防音効果が高いのだろうが、一切を遮っている訳でもない。時折<内壁>から響く鐘に似た音が聞こえ工事が進んでいることが分かる。それは鐘みたいに響いている。



病院の二階は受付のある一階と違って廊下の人もまばらで静まり返り、すでに死んだ人の気配を除けば、天井の空調と古びた気送管の立てる音しかしない。


少年は診察用の服を身につけて座っていた。白くて消毒された服はサイズが合わずブカブカでかつ袖口が余り腕を思いっきり伸ばしても手のひらが出きらず半分隠れてしまう。だから持て余した待ち時間を萌え袖ごっこをしながら端末をいじって過ごしていた。

端末には「街」で起きた事件、イベント、そして大気中のモノクロム濃度の値が表示されている。

今日はモノクロム濃度が低い。晴れているからだ。空が澄んでいると色がつきやすくなる。

(だからこんなにも外の景色が眩しくて、壁の音が鐘みたいに響くんだ)


天井の高い部屋だった。目の前にいる男が医師なのだが、ぎぃぎぃと軋む年代物の椅子に腰掛け灰緑色の侵略を受けたこれもまた年代物のそっけない作りの事務付けに肘を付き、細く長いを足を組み、少年の診察結果が記述されているであろう紙束を手にしている。だが目を通しているはずの瞳はまるで動いていない。落ち着かなげに身体を揺すり椅子だけが削られたみたいにギィギィ音を立てている。

目の前の男は三十代前半のはずだ。にも関わらずとても若く見えた。白衣に染みがついているのに気にする素振りもないのはあるいはその所為かもしれない。


「変異だね」


透明感のある声だった。人間らしさが欠如しているみたいにも思えた。

医師は患者を待たせた時間に比べて至極あっさりとそして感情の籠もらない声で少年にそう告げた。

少年もまた無感動に医師の言葉を聴いていた。そうする以外に出来ることはないし、例え他に可能なアクションがあったとしても長大な待ち時間の間に倦み疲れた心では到底実行不可能だった。


「変異ですか?」


だからかろうじて発し得た言葉は間抜けなものになった。目の前の男の言い分をなぞるだけの。


「うん。でも君は人の形を保っているし中身も人間のものと変わらない様だしこのままでも大丈夫だろう」


「はい」


何が大丈夫なのだろう?少年は要領を得ないまま頷いた。それが礼儀だった。


「それで、どういう変異なんですか?」


当然の問だ。そして変異を告げられた住人の全てが同じ質問をこの医師にも別の医師にもどこかにいる「街」の研究者にも発したに違いない。

だが多くは回答を得ることはない。そして誰も気にしない。そういうものだ。


「君の腺分泌物…唾液からはモルヒネに似たオピオイド系成分が検出された」


医師の言葉は祈りの呪文を唱えるのに似て空疎だった。それは言葉なのに語りかけるはずの相手を向けられていないからだ。医師は目の前の患者を少年を見てはいない。ころか見えてしまうことに違和感を感じている様でもある。それは長距離走の最中に靴の中に入り込んでしまった石ころを気にする走者みたいだった。あるいは医者を演じる責務を全うしようとぎくしゃくしながらもどうにかそれらしく振る舞おうとしている操り人形みたいだった。


「はい」


礼儀だ。少年はそういう躾を受けている。歳上には礼儀正しく接するべし。

そして一呼吸おいて、医師が告げた言葉から自分が知り得たものを並べ仔細に点検し黙考し、再度声を発した。


「それで?」


「そういうことだよ」

間髪入れずに返答を発した医師の投げ捨てた口調には徒労感が滲んでいる。だが少年の何一つ理解することが出来ないままでいる事を示す怯えた声音、純粋な無知がもたらしている白痴めいた瞳の光。医師は最低限の義務感に目覚め、この無知で無教養な白痴の少年に理解できる言葉を選んでの説明を試みた。


「オピオイド。アヘン、モルヒネ、ヘロイン。ケシ科の植物から抽出される陶酔作用を持った化学成分。所謂麻薬だ」

喋りながら医師は天井を眺め、まるでそこに真理が記述されたエメラルド板でもあるように目を泳がせ、時折見えてはいけないものが視えてしまった子供のみたいに狼狽え、眸子を細めては小さく呻き何度も何度もため息をついた。


「君の唾液から抽出されたソレは既存のオピオイド系麻薬より遥かに強力に作用することが予想される。例えば、君の唾液を普通の、人間に、針の先ほでも与えればたちどころに、痛みも不安も消えてしまう、だろう、多分」


「中毒?さあ分からない。次の検査?何のために?学校?今まで通りで構わない。周囲の対応?誰も気にしないよ。研究?馬鹿馬鹿しい…」


立て続けに質問を発する少年のいちいちに短く応える医師の最後の言葉は苛立たしげでそれが本音であることが分かった。心の底から湧き出る想いは大きな音でなくあるのかないのかわからない微かな囁きになるものだ。これ以上の質問は医師の気分を損ねるだろう。


だが少年は相変わらず何一つ理解できなかった。

自分が変異したこと、己の唾液が麻薬なこと、を朧気に知った気になっている。だけどどうしてそうなったのかが解らない。重ねて問いかける姿が間抜けに見えていることを自覚しつつ再再度疑問を口にする。唇の先が微かに震える。囁くようにして。


「…どうして?」


医師は街の住人が少年の変異を気にしない訳を尋ねられたのだと思ったのかもしれない。少年は唾液が麻薬になったのに中毒性があるのか否か不明である理由に加え自身がぞんざいに扱われる理由、何より医師が目の前の患者である少年を頑なに「見ようとしない」ことが不思議だったのだが。


「此処では色々なことが起こりすぎて、今更不思議成分の混じった唾液を生成する子供くらいじゃあ誰も驚かない。”外”から来た私でさえそうなのだから「街」の住人なら尚更だ」


そう言い終わると医師は疲れたのか目を伏せ、言った。


「お大事に」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ