8 東の辺境領 (イヴリン、二十二歳)
「もしかしたら、辺境領に行くことになるかもしれない」
ある日、王に呼ばれて戻ってきたラルフが言った。
「東の辺境伯が亡くなり、ギャレット将軍が代理を務めている。このまま辺境伯を継ぐ候補が決まらないなら僕を候補に入れると言われ、了承した。…将軍に認められれば、だけどね」
学年が上がり、勉学にも励みつつ、ラルフの剣の腕は確実に上がっている。こうなることも考慮してずっと鍛錬を続けていた。それを認めてもらえた喜びに、目が生き生きと輝いていた。
「東だったら、今はお隣の国は友好国になっているから安心ね。もちろん、国内の有事にも備えておかなければいけないけれど」
私がそう言うと、驚いたように
「イヴは辺境に行くの、嫌じゃないのか?」
と聞かれた。むしろ、そんなことを聞かれたことに驚いた。
「ラルフと一緒なら、どこでも大丈夫よ。ずっと離宮にいることはないと思っていたから…」
そう答えると、
「そうか」
と言って口元を緩めていた。
東の辺境領を継ぐかもしれない、という話が出てから、ラルフはさらに朝早くに出かけるようになり、朝食も一緒に取れなくなった。毎朝剣の鍛錬は続けていたけれど、さらに先生がついて本格的に練習時間を取っているようだった。
学校に滞在する時間も学年が上がるごとに長くなり、休みの日も公務が入ることもあって、あまりゆっくりと話をする時間が取れなくなっていた。まるで子供が巣立つ日を迎える母親のように、私がラルフにしてあげられることは日に日に減っているように思えた。本当ならば結婚してからこそ共に生きる始まりとなるのだけれど。
クライヴ殿下に言われた「母親」という言葉が心のどこかにとげのように残っていた。
ラルフの目標に合わせ、私も何かできることはないか、考えてみた。
離宮の料理人に頼んで料理を学び、うまく作れるようになると、ラルフには内緒で私の作った料理を食事に取り入れてもらうこともあった。
東の辺境領とその周辺のことも勉強し始めた。父が治めていた侯爵領でさえ父と一緒に行ったのは数回程度で、ほとんど王都から出たことのない私には領地を経営するということがどういうことなのか、よくわかっていなかった。気候や地形、特産物など、学んでおくべきことはいろいろあるはず。
その年の剣術大会もこっそりと見に行った。去年と同じく学年でベスト4の成績は、決して恥ずかしくないと思えるのに、ずいぶん落胆していた。周りの励ましもあまり届いていないようだった。
去年よりもファンは一段と増えていて、多くの人に取り囲まれる姿を見ていると、自分の手の届かないところにいるような気がした。
目と目が合ったように思えたのだけど、うつぶせた目がもう一度私を見ることはなかった。
王家主催の夜会の他、私が他家の催しに招待を受けることはなかった。家という後ろ盾もなく、離宮に居候として婚約者に匿われているだけの私は社交界でもほとんど関心を寄せられない存在。それに対して今が育ち盛りで少しづつ大人になっていくラルフは、すらりと背も伸び、端正で人目を引く容姿は女性たちの心を沸き立たせていた。令嬢方の記憶に薄い私が近くにいることなど気付かれもせず、噂話が遠慮なく耳に届いた。
「ラルフ殿下には婚約者がいるのよね」
「アディンセル侯爵家の令嬢だったはず…、だけど?」
「ミラベル様じゃないわよね」
「確か違ったはず。幼い頃からの許嫁で、ずいぶん年が離れているようなことをお母様が言ってたわ」
「先代の侯爵家のお嬢さんだって」
「やだ、落ちぶれてるじゃない。それなら私たちにもチャンスあるんじゃない?」
そう。落ちぶれた元侯爵令嬢の代わりなら、王位継承問題も落ち着いてきた今なら誰でもその可能性がある。ラルフを担ぎ上げて王にしようとでも思わない限り、王も王妃もその相手が変わろうと気にしないだろう。
その一方で「クライヴ殿下の秘かな恋人」の噂が静かに広まっていた。城の中にクライヴ殿下の思い人がいて、示し合わせて密会をしている。婚約者を決めかねているのは、その人のせいじゃないのか。殿下がはっきりと否定しないことで様々な憶測を呼んでいた。
チェルシー様とのお茶会の帰りにかなりの高確率ですれ違い、偶然を装われてももはやそうとは思えなかった。噂も意図的に広めているかのようにさえ思え、ラルフに何か罠をしかけようとしているようで怖かった。
チェルシー様のお茶会をお断りすることはできないけれど、図書室通いも決まった時間にならないよう気を配り、できるだけ会わないで済むよう注意した。