7 婚約解消という強迫 (ラルフ、十六歳)
それからしばらくミラベルが話しかけてくることはなかったけれど、時々友人と共に練習を見に来てはいた。まるでツアーのように優勝候補と噂される者の練習を見て回り、次はだれが勝つのか、誰を応援するのか探しているように見えた。僕を特定せず、ただ剣の腕を見ているならそれに越したことはない。
四年生の剣術大会が近づき、周りを気にしている暇はなかった。学校は五年まで。来年までに結果を出さなければ、自力で東の辺境伯の称号を手に入れることはできない。
今は自分にできることをやりたかった。
剣術大会を三週間後に控えたある日、アディンセル家から訪問の先触れがあった。
アディンセル侯爵とその娘ミラベルが、大事な相談があるとのことだった。
アディンセルの家名を名乗りながらも、今まで一度だってイヴの元を訪れたことがない。用件はイヴではなく、僕だろう。
イヴが会いたがるとは思えず、ちょうど三日後にイヴが養護院へ慰問に行くことが決まっていた。学校が休みだったので、本当なら同行したかったのだけど、その日をアディンセル侯爵と会う日に設定した。
侯爵はイヴの父の弟と聞いていたけれど、似ていなかった。顔立ちには面影があるかもしれないが、表情が全く違った。イヴの父のような、穏やかな中にも芯が通りそばにいて安心できるような人ではなかった。
「ラルフ殿下。今まで当家のイヴリンがご迷惑をおかけしました」
「迷惑などということはない。僕はイヴリンとうまくやっている」
「いえいえ、ミラベルから聞きましたよ。あなたはうちのミラベルと恋人同士だと」
いきなりの決めつけに、思わず声を荒げてしまった。
「事実無根だ。僕にはイヴリンという婚約者がいる。二股をかけるような趣味はない」
「周囲へのお気遣い、大変でしょう。そのようなしがらみ、私なら解くことができるのですよ」
そう言って含み笑いを浮かべながら、アディンセル侯爵は二枚の紙を差し出してきた。
「イヴリンは我が家の者です。私の一存で婚約など簡単に解消できる」
一つは僕とイヴリンとの婚約を解消する書類だった。既に現アディンセル侯爵のサインが入っていた。
「アディンセル家との縁組が必要なのであれば、我が娘、ミラベルでいいでしょう? この通りミラベルは若く、可愛い、よくできた娘です。あなたとの年回りもちょうどいい」
もう一枚は、ミラベルとの婚約の書類。
この男はイヴリンと僕との婚約の意味を完全にはき違えているようだ。何もわかっていないのか。
「…くだらない。お引き取り願え」
ディーンがドアを開け、退室を促したが、アディンセル侯爵は立ち上がる様子も見せず、ますます調子づいていた。
「婚約破棄、としてもいいのですよ? あなたがうちのミラベルに手を出したと。あなたが無実を訴えても、世間はどうでしょうな。あなたとミラベルが恋仲だという噂を信じる者は多い。イヴリンもあなたが裏切ったと知れば、婚約を続けようとは思わないでしょう。あなただって婚約者を入れ替えた方が得ですよ? イヴリンからは何の後ろ盾も得られない。ミラベルと結婚した暁には、当家があなたの後ろ盾になりましょう。王位を目指すなら、それを支持する用意もあります」
なるほど、あの学校での噂は、この話を有利に進めるためにわざと流したのだろう。
この男に代わってから、アディンセル家は行き詰っていると聞いている。領地からの収益は落ち、一部で不穏な動きがあるらしい。前侯爵の娘ではなく自分の娘と組ませることで王家とつながりの深さをアピールしたいのかもしれない。
僕に対して王位を口にする意味を分かっているんだろうか。どこかの貴族にそそのかされて調子づいているのだろうが、…なんて愚かな男だ。
「あなたは知らないのか。王妃は私が王位を狙うことを最も嫌っている。例え噂でもそんなことを聞きつければ、あなたの家を取り潰すことをためらわないだろう。王都で貴族として暮らしたいなら、不用意に王位などと口にしないほうがいい」
その言葉に、侯爵はそれまでのにやけ顔を消した。自分の計算が狂ったことを察したのだろう。
「僕の後ろ盾になるということは、王妃と対峙するということだ。そもそも後ろ盾などと…。今のアディンセル家にそんな財力はないだろう。…今なら聞かなかったことにする。その書類を持ってとっとと帰れ」
渋々立ち上がった侯爵に、ミラベルが袖を引っ張った。
「嫌よ、お父様。私は王子様がいいの」
しかし、侯爵は首を横に振った。
「王妃の不興を買うのは得策じゃない」
家を取り潰されると聞き、強くは押しきれないと思ったのだろう。しかしミラベルは引き下がらなかった。
「…じゃあ、次の夜会で私をエスコートしてくれたら、それでいいわ。してくれないなら、イヴリンとの婚約を破棄するから。ね、お父様、それならいいでしょ?」
イヴリンとの婚約破棄と引き換えに、夜会のエスコート? この女は何を考えているんだ。
しかし、侯爵は僕が断れない名案だと思ったようだ。
「…それはいい。殿下、どうされますかな。ずいぶん譲歩した提案になりましたが」
一旦引き下がろうとしたことなど忘れたかのように、口元を大きく歪めて笑みを浮かべた。
この男は本気だ。イヴのことなど何も考えていない。娘のわがままを通し、少しでも王家に近づける道を探っている。
ディーンが後ろで大きく首を横に振っていた。
わかっている。通常あり得ない。他国の国賓ならともかく、一侯爵家の令嬢をエスコートするなど…。だけど、どうしてもイヴとの婚約を破棄されたくなかった。
僕とイヴをつなぐものは、婚約しかないのだから。
「…会場に、連れて行くまでなら、考えてもいい」
僕が答えると、侯爵は勝ち誇ったように笑い、ミラベルは不気味なほどに愛らしい笑顔を見せた。
「約束ですよ! 嬉しい! 憧れだったの。王子様と夜会に行けるなんて!」
そして、呪われた二枚の書類を卓上に残したまま、二人は上機嫌で帰って行った。
一枚はイヴとの婚約解消。もう一枚は、ミラベルとの婚約…。どちらもあり得ない選択だ。
「ラルフ殿下…。今の約束は、…」
ディーンが言うに言えない苦々しさをその顔に浮かべていた。
悪手なのはわかっている。
「わかってる。…でも、どうしても、イヴを失いたくないんだ」
城内ではクライヴがどこかの令嬢と懇意にしているという噂が流れていた。「秘かな恋人」の存在。婚約になかなか煮え切らないクライヴの心が別にあり、その噂の中にはイヴの名もあった。
退屈な貴族が面白がって流す噂なのもわかっていた。それこそ学校での僕とミラベルの噂と変わらない、誰かの意図的な情報操作もあるだろう。
そう思っているのに、僕はそれがもしかしたら真実かもしれないと、心のどこかで疑っていた。
僕よりもずっと年が近く、頼り甲斐があり、何より王の家族だ。クライヴの側にいれば王妃に睨まれることもなくなり、むしろ家族として守られ、心穏やかに過ごせるだろう。
本当にそう思うなら、僕はイヴがクライヴに呼ばれて部屋を訪れるのを止める必要はなかった。だけど、僕はどうしてもクライヴにイヴを任せようとは思えなかった。あいつは本気じゃない。僕の婚約者で、僕のそばにいるから目をつけ、面白がってちょっかいをかけているだけ。本気の恋心なんかない。手に入らないから気になるだけで、イヴを手に入れたところで最後は王妃の意向のまま本妻を娶り、イヴを格下に扱うことになるのは目に見えている。…あいつにイヴを渡せない。
僕がもう少し早く生まれていれば。僕にもう少し力があれば。誰もが認めるほどの特別な能力でもあれば少しは違っていただろうが、僕はあまりに凡庸で、名前だけの王子に過ぎない。王の家族でもなく、忘れ物のように離宮に取り残された仮面の王子。
そんな自分のままでいるのはもう嫌だ。
僕は自力でここを出る。