2 失いたくないもの (ラルフ、九歳)
恐ろしい事件が起こったのは、九歳の時だった。
新しくできた劇場に僕と二人の兄が招待された。観劇の後、馬車を待っていたら暴漢が襲ってきた。右手から飛び出してきたのはフェイントで、警護をしていた者たちが一斉にその対応に向かった直後、反対側から刃物を持った二人組が僕らの方へと突進してきた。
イヴに抱きつかれ、よろめき、何が何だかわからなかった。
一人は次兄のクライヴが腕に負傷を追いながらも取り押さえ、もう一人は警護の者が拘束した。そして、僕にきつくしがみつくイヴが崩れていき、誰かの悲鳴が聞こえた。
イヴは暴漢に切りつけられていた。僕をかばって…
イヴがいなくなってしまう。
震えを抑えられなかった。
どうして僕なんかをかばったんだ。イヴがいなくなるなんて駄目だ。これ以上、僕の大事な人が消えてしまうなんて。
目を閉じたまま冷たくなっていくイヴの幻が何度も心に浮かび、僕は怖くてたまらなかった。
イヴとクライヴは劇場の近くの病院に運ばれ、クライヴは怪我の治療を受けると王城に戻り、イヴはそのまま病院に入院することになった。
幸い深く刺されたわけではなかった。命に別状はないと聞いて、ひとまずは安心したものの、刃先が肌を滑り、大きく切り裂かれた傷は跡が残ると聞いて衝撃を受けた。本当につらいのはイヴの方なのに。
ずっとイヴについていたかったけれど、それは許されなかった。次の日には目が覚めたと聞き、すぐに会いに行った。毎日花を持ってお見舞いに行きながら、僕は笑顔を向けることもできず、気の利いた慰めも励ましも言えなかった。
数日入院した後、侯爵家に戻ったイヴとはしばらく会うことができなかった。
手紙を書こうにも思いつく言葉はなく、メッセージも添えずに花を送ることくらいしかできなかった。
傷が癒えて久々に離宮に来てくれたイヴに、僕は元気になったかとも、まだ痛むかとも聞けずにいた。自分をかばったことをありがとうなんてとても言える気持ちにはなれなくて、うっかり口を開けば自分の心の重りを言葉にして吐き出してしまいそうだった。
そうしているうちに父に呼び出され、二人で父のもとに向かった。
父は僕をかばったことを「守った」と言って評価した。それさえも腹立たしかった。
僕が怒っていることを気にしていたんだろう。離宮に戻るとイヴに、
「ごめんなさい」
と謝られて、余計腹が立った。
「何故君が謝るんだ」
「ラルフが怒ってるから…」
「当たり前だ。君が怪我をして…僕が平気でいられるとでも思ってたのか」
違う。イヴを怒りたいんじゃない。本当に怒りたいのは、何の役にも立てず、イヴに守られていた自分だ。自分の小ささに腹が立ったんだ。自分の無力さに打ちのめされただけ。それなのにイヴを責めるようにしか話せない自分にいら立った。
「君まで僕の前からいなくなるなんて、許さない。僕をかばう必要なんてないんだ。…僕を一人にするなっ」
ふと、イヴの表情が緩んだ。
手を頬にのばされて気が付いた。自分が怒りながらも泣いていたことを。
「ごめんなさい。…それでも、私はラルフを守りたかった。私はラルフを守れたことを、後悔していないわ」
そのままそっと抱きしめられた。細い指がゆっくりと僕の髪に埋もれ、僕を優しくなでていく。
イヴを失いたくない。
「僕を、一人にしないでくれ」
僕の心からの願いに、イヴは静かに
「はい」
と答えた。
あの事件の後、僕は今まで以上に剣や護身術を真剣に学ぶようになった。
守られる側でいたんじゃ駄目だ。守る側にならなければ。
イヴを守りたい。その思いで学ぶ剣はどんなに上達したと言われても足りないような気がして、ずっともがいていた。